溺愛ごっこ
ある日の夜。私、
私はとある食品加工会社で営業職に就いている。スーパーに弊社の商品を置いてもらえるよう交渉したり、商品の販促キャンペーンの準備をしたりで、やる事は山積みだ。
私がキャンペーンの進行状況を確認していると、不意に後ろから声を掛けられた。
「透花先輩、忙しそうですね。俺、手伝いましょうか?」
振り向くと、そこにはニヤニヤしながら佇む一人の男性。私の後輩の、
私より二歳年下の及川君は現在二十五歳。私が及川君の新人研修を担当した事もあり、それなりに交流がある。
「……及川君。手伝ってくれるのは嬉しいけど、あなたの担当する案件は大丈夫なの?」
私が訝し気に聞くと、及川君はドヤ顔で答えた。
「はい。スーパーあじさいさんとの交渉も無事終わりましたし、余裕はありますよ。……あれ、先輩、もしかしてまだキャンペーンに使用する什器の準備出来てないんですか? 俺だったらとっくに終わらせてるなー」
ムカつく! ムカつく! この男、何故か私にだけこういう嫌味ったらしい事を言うんだから!
確かにコイツは優秀で? 今じゃ私よりも業績を上げてて? ついでに顔も良いけど?
何で私が後輩にこんな事言われなくちゃいけないのよ!?
「ああそう、良かったわね。でも、手伝ってくれなくて結構。私だってこれくらい期間内に終わらせられるんだから」
そう言って私がパソコンに向き直った時、私の肘が机の脇に積んである資料にぶつかった。
「あっ!」
私が叫ぶと同時に、ドサドサと資料が床に落ちる。
「あーあー、こんなに落ちしちゃって」
及川君が、呆れながら落ちた資料を拾い集める。私も慌てて資料を拾い始めたけれど、不意に及川君が声を上げた。
「……ん? 何だこれ」
視線を及川君の方に向けた私は、目を見開いた。及川君が手に持っていたのは、一冊の文庫本。タイトルは『日陰者OLはハイスぺCEOに溺愛される』。
「あああああ!」
私は叫ぶと、ひったくるようにして及川君の手から文庫本を取り上げた。
冷や汗を掻きながら文庫本を両手で握り締める私を見て、及川君が聞いて来る。
「……透花先輩。もしかして、その本、先輩の個人的な持ち物ですか? 今までも、休み時間とかその本を読んでたんですか?」
私は、赤くなっているだろう顔を及川君に向けて睨みつけるようにして答えた。
「そ、そうよ! 私の本よ! 別にいいでしょ? 昼休み以外には読んでないし、誰にも迷惑かけてないんだから!!」
オフィス内に沈黙が流れる。しばらく私を見つめていた及川君は、ニンマリと笑みを浮かべて言った。
「へえ……先輩、溺愛モノとか好きだったんですね。先輩は、甘えるより甘えられたいタイプだと思ってました。……先輩、彼氏には甘えたりするんですか?」
「い、いないわよ、彼氏なんて! いなくて悪かったわね!」
すると、及川君は何か考え込むような表情をした後、私の耳元に口を近付けて囁く。
「……じゃあ、俺が先輩を溺愛してあげましょうか?」
私は、爆発しそうな頭を理性で抑え込み、精一杯の声を張り上げて言った。
「じ、冗談はやめて! もう少し、私を先輩として敬いなさいよ!」
私は、トイレに行く振りをしてその場を逃げ出した。だから、私は知らない。及川君がこう呟いていた事を。
「……先輩として、ねえ……」
◆ ◆ ◆
翌日から、異変が起きた。及川君が、急に私に甘々になったのだ。
「先輩、そこの棚の資料、届かないでしょう。俺が取りますよ」
背の低い私がオフィスの棚にある資料を取るのに苦労していると、及川君がスッと手を伸ばして資料を取ってくれた。
「あ、ありがとう、及川君……」
私は戸惑いながら礼を言う。どうしたんだろう、及川君。こんな気遣いする人じゃなかったのに。
……そうか。私が昨日溺愛モノの小説を読んでる事を知ったから、私の事を
そう思っていた私だけど、その予想は見事に外れた。
「先輩、コンビニで美味しいスイーツ見つけて来たんで、どうぞ」
「先輩、髪切ったんですね。以前のお団子ヘアも良いですけど、ボブカットも似合います」
「先輩、一緒に飲みに行きませんか」
先輩、先輩、先輩……。及川君は、事ある毎に私に話し掛けて来た。しかも、それが二週間くらい続いている。何なの、一体。及川君は、何を考えてるの!?
昼休みに私がオフィスの廊下を歩いていると、一人の女子社員に呼び止められた。
「あの、坂井先輩」
振り返ると、そこにはライトブラウンの髪を揺らすゆるふわガール。確かこの子は、及川君の同期の
「どうしたの? 横井さん」
私が尋ねると、横井さんは真っ直ぐ私を見て言った。
「お話があります――及川君の事で」
オフィスのすぐ近くにある公園に移動すると、私達は木製のベンチに座った。横井さんは、私の方に視線を向けると真剣な目で聞いて来る。
「坂井先輩は、及川君と付き合ってるんですか?」
私は、慌てて手を振った。
「ち、違うわよ! 付き合ってなんかない!」
「じゃあ、及川君、何であんなに坂井先輩に構うんですか!?」
私は、額に手を当てて答える。
「……私にもよく分からないんだけど、多分及川君、私の事を揶揄ってるんだと思う」
横井さんは、私をジッと見た後、念を押すように聞いた。
「……じゃあ、坂井先輩は、及川君の事を異性として好きなわけじゃ無いんですね?」
「え、ええ、及川君に恋愛感情を持ってるわけじゃ無いけど……」
「そうですか。じゃあ、私が及川君をデートに誘っても良いですよね?」
ああ、やっぱり、横井さんは及川君の事が好きなんだ。そんな予感はしていたけれど。
「……そうね。いいんじゃない?」
頷きながらも、私はなんだかモヤモヤした気持ちを抱えていた。
私と横井さんがオフィスの部屋に戻ると、及川君が私に話し掛けてきた。
「透花先輩。俺、今手掛けている案件に関する資料を作ったんですけど、間違いが無いか見てくれませんか?」
「……ええ、良いわよ」
私が印刷された資料を受け取ると、側にいた横井さんが及川君に笑いかける。
「ねえ、及川君。今日仕事が終わったら、二人で飲みに行かない? 相談したい事もあるし」
すると、及川君は私の方をチラリと見て聞いて来た。
「……先輩。俺、今日横井さんと飲みに行くと先輩が忙しくても付き合って残業できませんけど良いですか?」
私は、戸惑いながらも答えた。
「え、ええ。私には残業を強制する権利なんて無いし、いいんじゃない?」
すると、及川君は射貫くような視線で念を押してきた。
「……本当に、俺が、横井さんと、二人きりで、飲みに行っても良いんですね?」
「……ええ、そう言ってるじゃない」
私の答えを聞いた及川君は、不機嫌な表情をした後、こう言った。
「もういいです。……横井さん、スマホアプリのIDを交換しましょう」
横井さんは、嬉しそうにスマホを取り出していた。
◆ ◆ ◆
その日の夜、私はまたオフィスで残業をしていた。資料を纏めながら、私は小さく溜息を吐く。
……今頃、及川君と横井さんは居酒屋で仲良く飲んでるんだろうなあ……。そう思うと、私の胸は何故かズキリと痛んだ。
なんで? どうしてこんなに胸が痛いの? 私の頭に、及川君の笑顔が、意地悪そうだけど優しい瞳が思い浮かぶ。
……ああ、私、及川君の事が好きだったんだ。何で今まで気付かなかったんだろう。いや、気付かない振りをしていたのかもしれない。
及川君は、仕事が出来て、人当たりも良くて、顔も良い。そんな後輩が、私みたいな地味で可愛げのない女を好きになってくれるはず無いと思っていたのだ。
「……こんな事になってから気付くなんて……」
私の目からは、ボロボロと涙が零れていた。コピーした資料に、ポトリと雫が落ちる。ヤバい。コピーし直した方が良いかな。私がそう思った時、後ろから声がした。
「……先輩、泣いてるんですか?」
振り向くと、そこには心配そうな顔の及川君がいた。私は、涙を拭きながら聞く。
「……及川君、どうして、ここにいるの……? 横井さんと、飲みに行ったんじゃ……」
及川君は、こちらに近付きながら答える。
「先輩の事が頭から離れなくて、途中で抜けて来ちゃいました。……それより先輩、どうして泣いてるんですか?」
こうなったら、正直に言うしかない。私は、目に涙を浮かべたまま及川君に告げた。
「……及川君が、横井さんと仲良く飲んでると思うと、胸が苦しくなって……。私、及川君が他の女の子と付き合うなんて、嫌なの。私……及川君の事が、好きみたい……」
及川君は、数秒間私をジッと見た後、溜め息を吐いてその場にしゃがみ込んだ。そして、グスグスしている私の頬に右手を添えると、呆れたような表情で言う。
「……先輩、気付くのが遅いんですよ。俺なんて、二年前先輩が俺の教育担当だった頃から先輩の事が好きだったのに」
「へあっ!?」
及川君は、私の目を見たまま優しい顔で言葉を続ける。
「俺、入社したばかりの頃他の先輩に嫌がらせをされてたの覚えてますよね?……透花先輩、そんな俺を庇ってくれたんですよ。それが嬉しくて……」
思い出した。及川君は入社したばかりの頃、私の同期である男性社員数人に嫌がらせを受けてたんだった。
恐らく同期達は優秀な及川君に嫉妬していたんだろう。彼らは及川君に雑用を押し付けたり、及川君が仕事をするのに必要な資料を隠したりしていた。
見かねた私が、彼らに「そういう卑怯な事するもんじゃないわよ!」って一喝したんだった。まさか、それで及川君が私に惚れたなんて……。
及川君は、しゃがんだまま言葉を続ける。
「先輩の事が好きだったけど、一生懸命働く先輩が輝いて見えて、俺は先輩に釣り合ってるのかって自信が無くなって……。それで、わざと先輩につっかかって俺の存在を意識してもらう事くらいしか出来なくて……。今から思えば、俺、子供みたいですね。……先輩、改めて言わせて下さい。俺、先輩の事が好きです。俺の恋人になって下さい」
その言葉を聞いて、世界の色が変わった気がした。私は、涙を拭うと、笑顔で答えた。
「はい、これからもよろしくお願いします」
すると、及川君はニンマリと笑い、私の耳元で囁いた。
「今までは俺を意識させる為に溺愛っぽい事をしてましたけど、今度からはもっと本気で溺愛しますんで、覚悟して下さいね、透花先輩」
私がこの生意気な後輩に溺愛される日々は、まだまだ続きそうだ。
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