第12話

 千陽路ちひろは徐々に松岡家本家まつおかけほんけ次期当主の役割を再開し始めていた。

 毎日ではない。

 それでも、少なくはない時間を千陽路は松岡家本家次期当主として過ごした。

 当然ながら、千陽路は愛する我が子と夫と過ごす時間は削られた。

 そんなある日のことだった。

 千陽路がその日の仕事の確認のため、田ノ倉たのくらと打ち合わせしている時、彼女に声がかかる。

「千陽路」

 この松岡家本家で千陽路を呼び捨てにできるのはただ一人だけだ。

 千陽路は顔を上げた。

「パパ」

 松岡家本家当主。千陽路の父、高生慎太郎たかおしんたろうが深い憂慮を浮かべた顔で立っていた。

「どうしたの?」

「……田ノ倉。千陽路と話がしたいんだ。ちょっと外してくれないか?」

「かしこまりました」

 当主の言葉に田ノ倉は速やかに部屋から姿を消した。

 慎太郎は部屋を出る田ノ倉を目で追ってから、愛娘まなむすめに視線を移した。

「……どうしたの?」

「千陽路」

 慎太郎はスッと音もなくその場に腰を下ろした。

「少し、話をしようか」

「お話? 何?」

「……」

 慎太郎は何もかもを見通す目で千陽路を見やった。

「千陽路が松岡家本家次期当主の仕事を全うしようとしてくれているのはわかっている」

「……パパ?」

「それは本当にありがたいことだと思う。何と言ってもパパが今、松岡家本家当主の仕事がほとんど出来ていない状況だからね。その肩代わりを千陽路がやってくれていることには本当に感謝している。だけど……」

「パパ?」

「だけど、千陽路。千陽路は琥珀こはく真珠しんじゅのたった一人の母親だ」

 慎太郎は静かにそう言葉を投げた。

「千陽路を放っておくことしか出来なかったパパが言うことじゃないかもしれない。だけど、千陽路。だからこそ、千陽路には後悔して欲しくないんだ」

「パパ……」

「千陽路……どうか、立ち止まってくれ。松岡家本家の責務は重い物だ。だけど、琥珀と真珠の母親と言う責務はもっと重いんじゃないか?」

「パパ……私は……」

「千陽路が松岡家本家次期当主として、重い荷物を背負おうとしていることはわかっている。その決意はとても尊いものだ。だけど、千陽路。どうか、立ち止まってくれ。千陽路には松岡家本家次期当主の責務よりももっと大切なものがあるはずだ」

「パパ……私……」

 千陽路の目から涙が溢れ出た。

「パパ!」

 千陽路は父の胸に身を投げ、しゃくりあげた。

「私……私、ホントは……ホントは、琥珀と真珠の側にいたいの……毎日ミルクをあげて、オムツを替えて……あの子たちが大きくなるのを、見ていたいの……」

「千陽路……」

 慎太郎は静かに娘を抱き締めた。

「千陽路……」

「でも……でも、世界は今、大変なことが起きていて……パパも、おじさまも……それを止めるために……凄く……頑張っているのに……それなのに、私だけが……私だけが、自分だけの幸せを……自分の幸せだけを守るなんて……そんなわがままなことは……できない……」

 千陽路は嗚咽し、心のうちを途切れ途切れに吐き出した。

「千陽路……」

 慎太郎は嗚咽する愛娘を抱き締めた。

「……なんていい子なんだ……ずっと我慢していたんだな……」

「パパ……パパ……私……私……」

 千陽路は涙でぐしゃぐしゃになった顔でしゃくりあげた。

「……ごめんなさい……ごめんなさい……」

「謝らなくていい……千陽路は何も悪くない。パパの方こそ、ゴメン。千陽路を守ってあげられなかった……千陽路にこんなに辛い思いをさせていたなんて……」

「パパ……パパ……」

 千陽路は、慎太郎に初めて会った幼い少女に戻ったかのように、泣きながら父にしがみついた。

「パパ……私、どうしたらいいの? 松岡家本家次期当主の役目を放り出すことはできないわ。でも、琥珀と真珠の側にいたい。心が引き裂かれそうなの」

「千陽路……ゴメン……本当に、ゴメン」

 慎太郎は千陽路を腕の中に強く抱き締めた。

「辛い思いをさせてしまった……本当に、ゴメン」

「パパ……パパ……私……私……ごめんなさい……ごめんなさい……」

「千陽路……千陽路が謝る必要なんかない。パパが千陽路を追い詰めた……悪いのはパパだ。本当に、ゴメン……」

「……パパ……」

「松岡家本家が担う責務がどうでもいいとは言えない。でも、千陽路……考えよう。千陽路が大切な子供たちと一緒にいられるように、考えよう」

「でも……そんなこと……」

「考えよう」

 慎太郎はきっぱりと言った。

「きっと、何か方法があるはずだ。千陽路が幸せになる方法を、パパがきっと見つける」

「パパ……」

 慎太郎は千陽路をもう一度強く抱き締めてから手を離した。

「とにかく、今日は離れにお帰り。帰って琥珀と真珠に会っておいで」

「でも……今日は小園家おぞのけに行かないと……」

 慎太郎の言葉に千陽路は戸惑った。

「いいんだ。小園家にはパパが行く」

「え? でも……」

「千陽路。そんなに泣き腫らした顔で顧客のところには行けないよ」

 慎太郎は柔らかく笑った。

「今日はパパに任せてゆっくりお休み。いいね?」

「パパ……」

 改まった口調で千陽路は口を開いた。

「うん?」

「パパ……大好き……」

 千陽路は慎太郎にギュッと抱きついて言った。

「千陽路……パパも千陽路が大好きだよ」

 慎太郎は腕の中の娘を強く抱き返した。

「さぁ、後のことはパパに任せて、離れに戻って琥珀と真珠に会っておいで」

「うん……ありがとう、パパ。大好き」

 千陽路は泣き腫らした目で精一杯の笑顔を浮かべた。

 千陽路の、大好きな、パパ。

 何でもできる、本当にステキなパパ。

 千陽路はパパのことが本当に大好きだと心から思った。

「パパも千陽路が大好きだよ。さぁ、お行き。琥珀と真珠が待ってるよ」

「うん」

 千陽路は部屋を静かに後にしたので、その後父、慎太郎がどう動いたのか知らなかったが、全てはうまくいくだろう。

 そして結果的に、全てはうまくいったのだったが、それはまた後の物語だった。


 千陽路が泣き腫らした目で離れに戻って来たので、琥珀と真珠の相手をしていた夏芽なつめは目を丸くした。

「千陽路さま? どうされたのですか?」

「ああ、夏芽さん……驚かせてしまってゴメンなさい……琥珀、真珠。ママよ……」

 一歳になっていた琥珀と真珠は自分たちの母親を認識し、ママと言いながらよちよちと歩いて来た。

「ママのかわいい宝物……」

 千陽路は双子を抱き締めた。

「……あの……千陽路さま……お仕事ではなかったのですか?」

「……パパが、代わってくれたんです」

 双子を抱き締めたまま、千陽路は静かにそう言った。

「慎太郎さまが?」

「はい……パパは……私の本当の気持ちをわかっていたんです……」

「……千陽路さま……」

「パパは……本当にすごい人です……私が、誰にも言っていなかった……いえ、私自身さえ気付いていなかった、私の本当の気持ちをわかっていたんです」

「千陽路さま……いったい何があったんですか?」

「……」

 千陽路は口ごもった。

 夏芽を信頼していないからではなく、自身の中でも父との話が整理できていないからだった。

「……パパは……私が一人で松岡家本家次期当主の責務を負う必要はないって、そう言ってくれました」

「……」

「私に、松岡家本家次期当主としての責務よりも、琥珀と真珠の母親としての責務の方が重いって、そう……」

「千陽路さま……私見ですが、慎太郎さまがおっしゃる通りかと思います」

 夏芽は決然と言葉を口にした。

「夏芽さん……」

「私のような者には、慎太郎さまの深いお心は理解できかねます。ですが、慎太郎さまは深いお心をお持ちの方とお見受けします」

「そうですね……パパは私にも理解しきれない深い心を持っています」

「はい……そのようにお見受けします」

「パパが、松岡家本家が担う責務がどうでもいいとは言えない。でも、私が大切な子供たちと一緒にいられるように考えるって言ってくれたんです。パパは、私が小さかった頃……松岡家本家当主としての仕事に忙殺されて、私の側にいられないことが多かったんです。そしてそのことを後悔しているんです。だからこそ、私に同じ道を歩いて欲しくないんです。松岡家本家次期当主としての責務と同じほどに大切な子供たちと一緒にいて欲しいと思っているんです。パパがどう動いてくれるかはわかりません。でも、パパは私を裏切ったことはありません。きっと、パパは全部うまくいくようにしてくれると思います」

 千陽路は父への絶対的な信頼をもってそう言った。

「ええ。千陽路さま……きっと」

「夏芽さん……そうなっても、私のことを助けてくださいね。琥珀と真珠をよろしくお願いします」

「もちろんです、千陽路さま」

 夏芽は深くうなずいた。

 千陽路はその日、久しぶりに愛する我が子とゆっくりとした時間を過ごすことができた。


 時刻が深夜になって、夫の祐佑ゆうすけが帰宅した。

「お帰りなさい、祐佑」

「遅くなりました、千陽路さま。申し訳ありません」

「ううん、いいの」

「琥珀と真珠はもう寝ていますよね?」

「うん。ぐっすり。お茶淹れるね」

「ありがとうございます」

 千陽路はキッチンに立って行き、紅茶を淹れて戻って来た。

「千陽路さまは本日、小園家でのお仕事でございましたね?」

 祐佑は紅茶を口にして何気なくそう確認をした。

「ううん……」

 千陽路は首を横に振った。

「パパが代わってくれたの」

「慎太郎さまが?」

「うん……全部話すね」

 千陽路は今日父との間で起きた出来事を静かに夫に語った。

「慎太郎さまがそのように……」

「うん……」

 千陽路は紅茶のカップを掌で包み込んでうなずいた。

「パパは、本当にすごいなって思った。私の本当の気持ちをちゃんとわかってくれていたの」

「千陽路さま……」

「ホントのことを言えば、私にもパパがどう動いてくれるかはわからないの。でも、パパに任せておけば大丈夫だってことを私は知ってる。だって、パパは何でもできるすごいパパなんだもの」

 確信を込めて千陽路は言った。

「千陽路さま……そうですね……ええ。おっしゃる通りです」

「うん……私ね、松岡家本家の仕事がどうでもいいって思ってるんじゃないの。でも、同じくらい琥珀と真珠のことも大切なの。祐佑。あなたのこともとても大切に思ってるわ」

「ありがとうございます、千陽路さま。私も千陽路さまと琥珀と真珠のことが何よりの宝だと思っています」

「祐佑……」

「千陽路さまがおっしゃるように、松岡家本家の責務は重い物でございます。ですが慎太郎さまがおっしゃるように、千陽路さまは琥珀と真珠のただ一人の母親です。それも大切なお役目です」

 祐佑の言葉に千陽路は目を見開いた。夫にとっては松岡家本家の責務は何よりも優先されることだと思ってたからだ。

「祐佑……」

「きっと、慎太郎さまが全てうまくいくように手配してくださいます。何と言っても慎太郎さまは誰よりも千陽路さまのことを大切に思っておいででございますから」

「そうね……うん、きっと……」

 千陽路は夫の暖かい言葉に涙を浮かべた。

 何かが、変わろうとしていた。それが何かは千陽路にもわからなかったが、それでも着実に何かが変わろうとしていた。

 松岡家本家が静かに動き始めていた。


「ちーちゃん。来たよ」

 翌日。誠志朗せいしろうが離れを訪れた。

「おじさま」

「慎太郎から電話もらったよ」

 何でもないことのように誠志朗は言った。

「パパから?」

「ああ。色々聞いた」

 誠志朗は簡潔だった。

「真珠ー。おいでー。おじちゃん来たよー」

 誠志朗は話を切り替えて目尻を下げて真珠を呼ぶ。

 真珠がよちよちと誠志朗の方へ歩いて来る。

「おち、おち……」

「そうだよ、おじちゃんだよ。俺のことちゃんと覚えてくれてるんだ。嬉しいなぁ……」

 誠志朗は近付いてきた真珠をよっと抱き上げた。

「重くなったなぁ、真珠」

 真珠を膝に抱き、誠志朗は千陽路に向き合った。その千陽路は琥珀を膝に抱いている。

「琥珀はママっ子だな」

「うん、そうなの。琥珀はちょっと人見知りで……パパと祐佑と夏芽さんのことは大丈夫なんだけど、他の人には懐かなくって……」

「そうか。当たり前だけど、双子でもやっぱり性格が違うな。真珠は人懐っこいもんな」

「そうね……」

「女の子は愛嬌あいきょうがある方がやっぱりいいもんな。でも、こんなに人懐っこいと大きくなったら心配だよ。ちーちゃん、真珠のことを独り歩きなんかさせるなよ」

「うん、大丈夫よ」

「ああ。で……慎太郎からの話なんだけどな。俺とか他の分家の人間とか、松岡家本家の術者とかでちーちゃんの仕事をフォローすることになったよ」

「え?」

「ちーちゃんは安心して母親業に専念しな」

「でも……」

「でもじゃないって」

 誠志朗は人好きのするいつもの笑顔を浮かべて言った。

「これは松岡家本家当主さまの決定だ。ちーちゃんが松岡家本家次期当主としての責務を背負おうとしていることはわかってる。ちーちゃんがこの一年、精一杯やってきたこともな。だけどその裏でちーちゃんがどれだけ辛い思いをしていたか、俺はわかっていなかった。それに気付いたのは慎太郎だけだった。あいつは本当にすごい奴だ。さすがはこの松岡家本家を背負って立つ当主だけのことはある」

 誠志朗は片手間に真珠と遊びながら、声音は真剣だった。

財田家さいたけの術者も動かす。各分家の人間も動かす。全員でちーちゃんをサポートする。ちーちゃんはもう一人で立つ必要はないんだ。全員で支える。もう安心していいぞ」

 誠志朗の言葉は真剣で。しかし、片手間に真珠と遊ぶことを止めなかった。

「ちーちゃん。悪かった」

 誠志朗は頭を下げた。

「え?」

「俺は、ちーちゃんのサポーターだって言いながら、ちーちゃんを守れなかった。本当に悪かった」

「そんな……おじさま……」

「俺はいつもそうだ。慎太郎のサポーターを名乗りながら、誠心会せいしんかいにかまけてまともにあいつを守れなかった。今度はちーちゃんだ。俺はいつも口ばっかりだ」

 誠志朗の口調に苦い物が混じった。

「そんな、おじさま……おじさまはいつも私を守ってくれたわ。私のことをいつも大切にしてくれて……私、おじさまが私を愛してくれていることをちゃんと知ってる」

「ちーちゃん……」

「私、おじさまが大好きよ」

「ああ。俺もちーちゃんが大好きだ。だから、今度こそちーちゃんを守るよ。全力でな」

「おじさま、ありがとう」

 千陽路は心からの感謝の思いを込めて笑顔で言った。

「心強いわ」

「ああ。俺に任せておけ、ちーちゃん」

 松岡家本家当主慎太郎が愛娘のために動き、その動きによって分家の全てが次期当主のために動き出す。

 千陽路の運命の歯車が静かに動き出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る