第10話

「初めまして、夏芽なつめさん。千陽路ちひろです」

 千陽路たちが松岡家本家まつおかけほんけに戻ってから三日が過ぎていた。

 千陽路は今松岡家本家の離れで、夫である祐佑ゆうすけが選定した琥珀こはく真珠しんじゅ乳母うば候補の若い女性と対面していた。

 千陽路の夫であり琥珀と真珠の父である祐佑は隣で静かに座っている。

「松岡家本家次期当主さま、祐佑さま。初めてお目にかかります。赤尾あかお夏芽と申します」

 赤尾夏芽と名乗った女性はその場で深々と頭を下げた。

 赤尾家は松岡家の分家の一端に名を連ねる家だった。

 千陽路は夏芽に暖かな笑顔を見せる。

「夏芽さんは保育士資格を持っていらっしゃると夫に聞きました。素晴らしいですね」

「いえ、とんでもない。保育士になりたくて資格を取ったんですが、親に反対されてしまって。宝の持ち腐れだと思っていたんですが、こうして次期当主さまのお子さま方のお世話ができるなんて光栄です」

「夏芽さんはおいくつですか?」

「はい。二十五歳です」

「丁度私のお姉さんくらいのお年齢としなんですね」

 千陽路はにこやかにそう言った。

「仲良くしてくださいね」

「そんな、恐れ多いです」

「そんなこと言わないでください。姉妹みたい接してくれたら嬉しいです」

「次期当主さま……」

「ぜひ、名前で呼んでください」

「では……千陽路さま、と呼ばせていただきます」

 千陽路は笑みを浮かべた。

「琥珀と真珠に会ってあげてください。奥の寝室で眠っています」

「はい。ぜひお会いしたいです」

「こちらです」

 祐佑が先導し、奥の寝室へと向かう。

 琥珀と真珠は目を覚ましていて、あーあーと小さな声を上げていた。

「あらあら、起きていたのね、二人とも……ほら、琥珀、真珠。夏芽さんよ、こんにちはしてね」

 そう言いながら、千陽路は琥珀を夏芽に手渡し、自身は真珠をを抱き上げた。

「その子が琥珀です。こちらが真珠」

「初めまして、琥珀さま。千陽路さま、とてもかわいらしい赤ちゃんですね」

「ありがとう。それにあんまり泣いたりしないし、とてもいい子たちなんです」

「ええ。本当に……琥珀さまはお父さまの祐佑さまに似ていらっしゃいますね」

「そうですか?」

「ええ。千陽路さま、真珠さまを抱かせていただいてもよろしいですか?」

「ええ、もちろんです」

 夏芽の腕の中の琥珀を祐佑が受け取り、千陽路から真珠を抱きとる。

「真珠さま……何てかわいらしい……千陽路さまにそっくりですね」」

「そうですか?」

「ええ。大きなお目々とか、お口元とか、そっくりです。きっと千陽路さまそっくりな美人さんになりますよ」

 夏芽はきっぱりした口調でそう言い切った。その言葉を聞いた千陽路は小さく笑った。

「それで……どうでしょうか? 夏芽さん。この子たちを育てて行くことを助けてくれますか?」

「もちろんです」

 夏芽はきっぱりとうなずいた。

「こんなにかわいらしいお子さま方をお育てするお手伝いができるなんて、光栄です」

「ありがとうございます。心強いです」

 こうして、赤尾夏芽は琥珀と真珠の乳母になったのだった。

 夏芽は松岡家本家の一角に住まうことを許され、当主である慎太郎しんたろうへの挨拶を許された。

 隣に座る祐佑が静かに声をかける。

「松岡家本家当主、高生たかお慎太郎さまであらせられます。ご挨拶を」

「松岡家本家当主さま。初めてお目にかかります。慎太郎さまのお孫さまのお世話をさせていただきます。松岡家分の一端に連なります赤尾家の夏芽と申します」

 松岡家本家の奥座敷で対面した慎太郎は柔らかな声で、緊張して深々と頭を下げる夏芽に声をかける。

「顔を上げてください、夏芽さん」

 慎太郎の柔らかな声に夏芽は恐る恐る顔を上げた。

 松岡家分家の端に名を連ねる赤尾家の当主でもない夏芽であれば、本来であれば直接顔を見ることすら許されないほど、その立場には確固たる差異があるからだ。

「松岡家本家当主慎太郎です。琥珀と真珠は俺の孫です。千陽路は俺の娘ですが、ご承知のようにまだ若い。どうか千陽路を助けてやってください。よろしくお願いします」

 そう言って、慎太郎は夏芽にとっては信じられないことをした。

 慎太郎は松岡家本家当主という遥かな高みの存在であるにもかかわらず、一介の分家の小娘でしかない夏芽に頭を下げたのだ。

「と、当主さま……」

「俺は今、松岡家本家当主としてあなたと話しているのではありません。一人の親としてあなたと話をしています。親として、祖父として、娘と孫たちの行く末を案じているに過ぎません」

 慎太郎は柔らかな口調のまま、そう口にした。

「慎太郎さま……」

 側に控える祐佑が控え目に申し出る。

「いつも申し上げておりますが、慎太郎さま。体面が保てません。どうかご自覚くださいませ」

「自覚、してるじゃないか。俺は今松岡家本家当主じゃなくって千陽路の親で、琥珀と真珠の祖父なんだから」

「慎太郎さまはいついかなる時も松岡家本家当主でいらっしゃいます」

 祐佑は頑固にそう言い募った。

「お前はいつもそう言うなぁ……」

 慎太郎はため息を隠さずにそうこぼした。

「俺、仕事とプライベートは分けるべきだと思うんだけど」

「松岡家本家当主のお立場に公私の区別はございません」

「まったく、お前ときたら……」

「何とでもおっしゃってください。慎太郎さまにおかれましては松岡家本家当主たるご自覚があまりにもございません」

「まぁ、反論はしない」

 慎太郎はひと言そう言った。

 そして、もうひと言言い添える。

「反論はしないけど、改めもしない」

「慎太郎さま……」

「俺は、俺だ。お前の思うような当主じゃないのは理解してるけど、俺はこのままの俺でしかない。それを理解してくれ」

 慎太郎は静かに言葉を口にした。

 何度、このような会話を繰り返してきたことだろう。

 慎太郎はそのことに思いをせ、唇の端に淡い笑みを浮かべた。

「……夏芽さん」

 慎太郎は彼と祐佑のやり取りに息を飲んでいた夏芽に声をかけた。

「驚かせてすまなかったね。祐佑とこんな風に揉めるのはいつものことなんだよ。まぁ、コミュニケーションの一つのみたいなものかな」

 慎太郎は笑いながらそう言った。

「だけど、父親としての祐佑はなかなかちゃんとしてるから、安心していいよ」

「は、はい……」

「俺にはどうも松岡家本家当主としての自覚が足りないようで、よく祐佑とは衝突するんだ。でも、今夏芽さんと会っているのは松岡家本家当主じゃなくって、ただ双子たちの祖父でしかない。かわいい娘の子育ての負担を軽くしてやりたいと願う親でしかない」

「当主さま……」

「夏芽さん、あなたに琥珀と真珠を託します。どうかよろしくお願いします」

 もう一度、慎太郎は夏芽に頭を下げた。

「お任せくださいませ、慎太郎さま」

 夏芽は大いに慌てて深く頭を下げた。

「琥珀さまと真珠さまを、心を込めてお世話させていただきます」

「ありがとう。では、千陽路のところに行ってやってください」

「かしこまりました」

 夏芽が深く頭を下げ、座敷を後にして離れに向かう。

「夏芽さん? どうかしました? 何だかお顔の色が悪いみたいですけど……」

「あの……千陽路さま……」

「どうしたんですか?」

 千陽路はソファーから立ち上がり、夏芽に寄り添い心配げな声をかけた。

「いえ……」

 夏芽は口ごもった。

「言ってください。パパにご挨拶に行かれたのでしょう? パパが夏芽さんに何か言いました?」

「いいえ。慎太郎さまはとてもお優しくて、私に琥珀さまと真珠さまをよろしくとおっしゃいました」

「じゃあ、祐佑? 一緒にパパのところに行ったでしょう?」

「いえ……そんなことは……」

 千陽路は注意深く夏芽を見て、口を開く。

「じゃあ、またパパと祐佑が揉めたんですね……」

 千陽路はため息を隠せなかった。

「祐佑って、いつもはパパに逆らったりしないんだけど、パパが松岡家本家当主としての立場を軽んじてるから、そういう時には揉めるんですよ。パパって気安いでしょう? 偉ぶらないって言うか……」

「そうですね……私にも暖かいお言葉をかけてくださいました」

「そうでしょう? パパってそういう人なんです。でもそんなパパが祐佑にとっては我慢できないって言うか……もう少し松岡家本家当主として威厳を持って欲しいと思っているんですよね」

「でも、威厳はおありでしたよ。にこやかに笑っておられましたけれど、侵しがたい気品がおありでした」

「パパはずっとそうなんです」

 夏芽の言葉にちひろは笑みを浮かべた。

「優しくて、鷹揚で……パパは松岡家本家当主としての立場に全然こだわりとか持っていなくて。祐佑はいつももっと松岡家本家当主の立場を自覚して欲しいって思っているんです。言ってもムダなんですけどね」

 千陽路は笑った。

「パパは当代随一と言われる陰陽師おんみょうじです。最強とまで言われた先代すいさまを上回る能力ちからを持っていて無敵なんですけど、パパはその自覚が全然ないんです。祐佑はただパパにその自覚を持って欲しいんです。だからパパと祐佑は時々ぶつかります。でも、本当は祐佑はパパに心酔? してるんです。だから二人が揉めても気にしないでください。驚かせてしまって、本当にごめんなさい」

「いえ、そんな……」

「お茶を淹れますね。熱いお茶を飲んだら少し落ち着くと思います」

「そんな、次期当主さまお手ずからなんて、もったいない……」

 夏芽が声を上げると千陽路は笑った。

「私、家事は苦手なんですけどお茶を淹れるのは得意なんです。お茶の葉はアールグレイですけど、お嫌いですか?」

「いえ……」

「良かった。ちょっと待っていてくださいね。すぐに用意します」

 千陽路は小さなキッチンに立って行き、紅茶を淹れてクッキーを添えて戻って来た。

「どうぞ、召し上がれ」

「ありがとうございます……いただきます」

 夏芽は出された熱い紅茶をひと口飲んだ。

「とてもおいしいです」

「良かった。夫がアールグレイが好きなんです」

 千陽路は笑みを浮かべた。

「本当に、祐佑ったら……困りますよね」

 千陽路の言葉に夏芽は曖昧な笑みを浮かべるだけだった。

「でも、パパと祐佑。本当はとても信頼しあっているんです。パパは私が祐佑と結婚することをとても喜んでくれたし……ただ、何て言うか……祐佑ってちょっと視界が狭いところがあるんです。でも、子供ができた時も本当に喜んでくれたし……あんまり表情が変わらないからとっつきにくいかもしれないけど、本当はとても優しい人なんです」

「ええ、わかります」

「わかってくれますか?」

「はい」

 夏芽は短くそう応じた。

「良かった……私、夏芽さんとうまくやっていけそうで嬉しいです」

 千陽路は父、慎太郎のように柔らかく笑った。

「千陽路さま……千陽路さまはお父さまにそっくりでございますね……」

「え? でも、私と父は実は血が繋がっていないんです」

「存じ上げています。表面上なことではなく、そのお心が……今の笑顔がそっくりでいらっしゃいます」

「ありがとうございます」

 千陽路は柔らかく笑った。

「千陽路さま。ただいま戻りました」

 そこへ、祐佑が戻って来た。

「お帰りなさい、祐佑。お茶飲む?」

「はい、ありがとうございます」

 千陽路は立って行き、紅茶を淹れて戻って来る。

「どうぞ」

「恐れ入ります、千陽路さま」

「……ねぇ、祐佑」

「はい」

「あのね、前から言ってるでしょう? パパにあれこれ言ったって、パパは頑固だから聞かないって」

「それは理解しているのですが……」

「それでも言っちゃうのよね、祐佑って」

「申し訳ありません、千陽路さま」

 祐佑は千陽路に頭を下げた。

「千陽路さまにご心痛をおかけするつもりはありませんでした。夏芽さんにお聞きになったのですか?」

「ううん。夏芽さんは何も言っていないわ。顔色が悪いから私が訊いたの」

「夏芽さん。驚かせてしまって申し訳ありません」

 祐佑は夏芽に向き合った。

「いえ……とんでもない……」

「慎太郎さまはご自身が松岡家本家当主であらせられることに頓着なさいません。私は側近筆頭ですが、その私を友人とおっしゃられるほどに」

「ご友人……」

「はい。松岡家本家当主という重責は、この日本の趨勢すうせいをも揺るがすものです。それにも関わらず、慎太郎さまはただ人のように振舞わられます。本来であれば松岡家本家当主であらせられる慎太郎さまに苦言を呈すことなど不敬の極みですが、私は慎太郎さまには是非とも松岡家本家当主としてのご自覚をお持ちいただきたいのです」

 祐佑はそう言い、繰り返しお伝えしているにも関わらず、聞き入れていただけないと言い添えた。

「祐佑もいい加減思い切れればいいのにね。パパはああいう人よ? 人は役割が違うだけで、その立場に上下はないって人なの」

「千陽路さま。私はあくまでも松岡家本家当主さまの側近筆頭にすぎません」

「でも、パパは大事な友人だって言ってるわ。パパにとって祐佑は、おじさまと同じくらい大切な友達なの。娘の私を託すくらいにね」

「千陽路さま……」

「子供たちも産まれたし、祐佑も少しだけ歩み寄ってくれないかしら?」

「……努力いたします……」

 祐佑の言葉を聞いて、千陽路は笑みを浮かべた。

「良かった……嬉しいわ、祐佑。約束よ?」

「ええ、千陽路さま」

「琥珀と真珠はどうしているかしら?」

「見て参ります」

「あ、一緒に行くわ」

「私もご一緒します」

「うん」

 三人が奥の寝室に向かうと双子は目を覚ましていて、小さくあーあーと声を上げていた。

「まぁ……泣きもせずにママとパパを待っていたのね。いい子たち」

 千陽路は琥珀を抱き上げ、夏芽が真珠を抱き上げる。

「ママのかわいい双子さん。いい子ね……」

 三人はリビングに戻り、双子のオムツを替えてミルクを与える。

「千陽路さま、祐佑さま。琥珀さまと真珠さまは本当にお利口さんですわね。こんなに泣かない赤ちゃんは初めてです」

「そうなんですか?」

「はい」

 夏芽はうなずいた。

「普通はお腹が空いたら泣いて、オムツが濡れたら泣くものです」

「そう……」

 千陽路は、双子の大人しさに首を傾げた。普通は、そうじゃない……それは冷たい石のように彼女の胸に沈んだ。

 千陽路のその様子を見た夏芽は自身が失言してしまったことを察して言い添える。

「もしかすると、お二人は千陽路さまのお能力を強く継いでいらっしゃるのかもしれません」

「どういうことですか?」

「お能力が強いので、他のお子さまとは少し違うのかもしれません」

 夏芽は言葉を選んだ。

「琥珀さまと真珠さまは強いお能力をお持ちなので、お父さまやお母さまのお気持ちを感じ取っていらっしゃるのでしょう。きっとご心配には及ばないと思います」

「……そうでしょうか……」

 千陽路は思慮深く夏芽を見つめた。

「千陽路さま。思慮のないことを申し上げて、大変失礼をいたしました。子供は一人一人違うものです。琥珀さまと真珠さまはその尊いお能力を持って、ご両親さまのお心に添っておいでなのだと思います」

「……親となった今になって、初めて父の気持ちが理解できた気がします」

 千陽路は静かにそう言った。

「父は、私に松岡家本家当主を継がせたくなかったんです。そんな、生命いのちがけの仕事ではなく、もっと優しい、柔らかい職業を選んで欲しいと言っていました。誰かのお嫁さんになって、かわいい子供に恵まれて、当たり前の幸せな生活を送って欲しかった、と。今、私は父の気持ちが痛いほどわかります」

 千陽路はそう口にしながら、父である慎太郎に思いを馳せていいた。

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