第9話

 病院を退院した千陽路ちひろは、後部座席に新たにチャイルドシートが設置された祐佑ゆうすけのクルマに乗って松岡家本家まつおかけほんけに戻って来た。

 松濤しょうとうのマンションの荷物はすべて離れに運ばれたと聞いている。

「パパにご挨拶しなくちゃね」

「そうですね」

「私、琥珀こはくを連れて行くから、祐佑は真珠しんじゅをお願いね」

「はい、千陽路さま」

 千陽路と祐佑がそれぞれ琥珀と真珠を抱き、松岡家本家に足を踏み入れたとたん、家人に出迎えられた。

「千陽路さま。お帰りなさいませ」

「ただいま。パパはお部屋かしら?」

「さようでございます。ご案内いたします」

「ありがとう」

 家人に先導されて松岡家本家最奥にある当主の私室へと足を向ける。

慎太郎しんたろうさま。千陽路さまがお帰りになられました」

「ああ、ありがとう。入っておいで」

 室内から柔らかな慎太郎の声が聞こえて、家人が失礼いたします、と断りを入れて襖を開ける。

「千陽路、祐佑。お帰り」

「ただいま、パパ」

「ただいま戻りました、慎太郎さま」

「琥珀、真珠。二人はこの家は初めてだな」

 慎太郎は嬉しそうに琥珀と真珠を眺めた。

「ちょっと見ない間に随分しっかりしたなぁ……」

「そうかな?」

「うん。千陽路も祐佑も毎日見てるからわからないだろうけど、パパは産まれた日に見たっきりだから……よく寝てる……かわいいなぁ」

 慎太郎の言葉に千陽路は笑った。

「赤ん坊がこんなにかわいいなんて……」

「パパ、今度はじじバカ?」

 千陽路が笑ってそう言った。

「何とでも言ってくれ。抱っこしたいけど、せっかく寝てるのを起しちゃかわいそうだしなぁ……」

「二人ともすごくいい子なのよ。あんまり泣いたりしないし」

「そっかぁ……ママ思いのいい子たちだな」

 そう言いながら、慎太郎は手を伸ばして琥珀と、それから真珠の頬にちょんと触れる。

「ホントに、かわいいなぁ……って、いつまでも引き留めていたらダメだな。取りあえず、離れに行っておいで。何か足りない物があったらすぐに用意するから」

「うん、パパ。行こう? 祐佑」

「はい、千陽路さま。失礼いたします、慎太郎さま」

「ああ。ゆっくり休んでくれ」

 千陽路と祐佑は慎太郎の私室を辞して、松岡家本家の離れへと足を向けた。

 離れは母屋からは完全に独立していて、松岡家本家の大きな門をくぐった左手にあるこじんまりとした和風の建物だった。

「離れは二間続きの和室でございました」

「寝室とリビングにすればいいかしら?」

「そうですね。ただ、慎太郎さまがリフォームしてくださるとおっしゃっておられたので、以前とは随分違っていることでしょう」

「そうね……」

 入り口の引き戸を開けると、和風な外観からは想像もつかない内装が千陽路と祐佑を出迎えた。

 フローリングの床。クロスの張られた壁。

 手前の部屋にはソファーやテーブル。ダイニングセットなどが置かれ、その隅には小ぶりなキッチンがあった。

 襖の奥の部屋にはキングサイズのベッドとベビーベッドが二つ並んでいる。

「ベビーベッドも用意してくれたのね。よく寝てるし、ベッドに寝かせてみようか」

「そうですね」

 千陽路と祐佑は双子をベッドに寝かせてみた。彼らは目を覚ます様子もなく、すやすやと眠っている。

「よく寝てるね」

「そうですね。千陽路さま、お疲れでしょう。お茶などいかがですか?」

「ありがとう。いただくわ」

「久しぶりに抹茶ラテにしましょうか?」

「そうね。ホントに久しぶり……」

 千陽路が笑顔でそう言ったので、祐佑は笑みを浮かべてキッチンに立ち、抹茶ラテと紅茶を淹れてリビングに戻って来た。

「お待たせしました、千陽路さま。お茶請けにピスタチオのクッキーをどうぞ」

「ありがとう、祐佑。ピスタチオのクッキー大好きよ」

「そうでしたね」

「抹茶ラテも久しぶり……おいしい」

 千陽路は久々に抹茶ラテをひと口飲んで、笑顔を浮かべた。

「でも、私……たくさん食べなきゃダメね。母乳の出があまり良くないんだもの」

「それは……ですが、先生もおっしゃっていましたが、最近は粉ミルクも良くなっているのでそこまで母乳にこだわらなくてもよろしいのではありませんか?」

「でも……」

 千陽路は小首を傾げた。

「やっぱり、母乳の方が良くない?」

「何しろ双子ですから。粉ミルクであれば、私でも飲ませることができます」

「それはそうなんだけど……」

「白湯や番茶を飲ませるためにも、哺乳瓶に慣れさせた方がよろしいかと思います」

 やんわりとであったが折れない祐佑の言葉を聞いて、千陽路は笑みを浮かべた。

「じゃあ、母乳もあげながら足りない分は粉ミルクにしようか」

「そうですね。母乳も千陽路さまのぬくもりが感じられて安心するでしょうし」

「うん。パパがミルクあげてくれたら、子供たちも喜ぶわ」

「慎太郎さまが……ですか?」

「何言ってるのよ、祐佑」

 千陽路はおかしそうに笑った。

「祐佑は琥珀と真珠のパパじゃない」

 千陽路にそう言われた祐佑はハッとしたような顔をした。

「そうですね……失礼しました。千陽路さまがパパとおっしゃると、どうしても慎太郎さまのことかと思いまして……」

「そうね。確かにややこしいわね」

 千陽路はクスクスと笑った。

「でも、文脈があるじゃない?」

「そうですね。千陽路さまのおっしゃる通りです」

「私がママで、祐佑がパパ。パパはじぃじかしら?」

 千陽路が楽しそうにそう言った。

「でも、何だかやっぱりパパはパパよねぇ……」

「そうですね。何しろ慎太郎さまはまだ三十四歳でいらっしゃいますし、その呼び方はどうかと……」

「そうね。私とパパって、十五歳しか離れていないものね」

 改めてそう思い致すと、慎太郎と千陽路の縁は不思議なことだった。とても、親子とは思えない年齢差しかない。それでも、彼らは初めて出会った時から十五年間、親子としての時間を共に過ごしてきた。

 そして今、千陽路は愛する夫と子供に囲まれて幸せに暮らしている。

「パパは結婚してないし、パパのお家のみんなともお付き合いないでしょう? パパの周囲にいるのって、このお家の側近の人たちと、術者の人たち……あとはおじさまくらいで、淋しくないかなって思ってたの。私も祐佑と結婚して、この松岡家本家を出ちゃったし……」

「そうですね……慎太郎さまも、千陽路さまが子供を連れて松岡家本家にお戻りになられて、喜んでいらっしゃることでしょう」

「うん……」

 千陽路はこくりとうなずいた。

「この松岡家本家も赤ちゃんが来て、きっとにぎやかになるわね」

「そうですね。千陽路さまのおっしゃるように、子供がいるとにぎやかになると思います。千陽路さまがいらっしゃった折も、大層にぎやかになりましたから」

「私、そんなにうるさかった?」

「いえ……そういう意味ではなく……千陽路さまもこの松岡家本家でお過ごしになっておわかりかと思いますが、家人はいるかいないかわからないほど気配と言う物がありません。そこに千陽路さまがいらっしゃいました。当時、慎太郎さまがどれほど喜んでおられたことか……」

「そうね」

 千陽路は笑顔を見せた。

「パパが本当に私を大切に思ってくれていることはわかってるわ。私もパパのこと大好きよ」

「はい。私も千陽路さまが松岡家本家にいらっしゃったことは、本当に良かったと思っております」

「私もよ。パパが私を松岡家本家に連れてきてくれなかったら、祐佑にも会えなかったもの」

「千陽路さま……」

「大好きよ、祐佑。祐佑と結婚出来て、その上、あんなにかわいい子供たちに恵まれて……私、本当に幸せ」

「千陽路さま。私も幸せです」

 千陽路と祐佑が見つめ合い、唇が重なりかけたその時だった。奥の部屋から泣き声が聞こえた。

「いけない。起きちゃった」

 千陽路は一瞬で母親の顔になり、奥へと向かう。

 一瞬遅れ、祐佑がそれに続いた。

「よしよし、どうしたの? ミルクかな?」

 千陽路は琥珀を抱き上げていたが、双子のもう片方、真珠も泣いている。

 祐佑は迷わず真珠を抱き上げようとした。しかし、そこへ千陽路が声をかける。

「待って、祐佑」

「何か?」

「真珠もミルクだと思う。キッチンでミルクを作って来て」

 そう言いながら、千陽路は抱いていた琥珀をベビーベッドに戻し、オムツを確認していた。

 千陽路が双子のオムツを手早く替えて、琥珀を抱き上げて母乳を与え始めたところに、哺乳瓶を手にした祐佑が戻って来た。

「ありがとう。真珠にミルクあげてちょうだい」

「はい、千陽路さま」

 祐佑はぎこちなく真珠を抱き上げ、哺乳瓶を娘に差し出す。

「真珠。ミルクです。飲んでください」

 祐佑は真珠に声をかける。娘は哺乳瓶に吸いつき懸命にミルクを飲む。

「真珠。たくさん飲むのですよ」

「祐佑。すっかりパパね」

 千陽路は琥珀に母乳を与えながら、嬉しそうにそう言った。

「父親教室で教わりましたので。ですが、まだまだです」

「私も新米ママよ。新米のパパとママで協力して赤ちゃんたちを育てて行きましょうね」

「はい、千陽路さま」

 千陽路の言葉に祐佑は神妙に応えた。

 母乳とミルクを飲んだ双子は満足したのかすやすやと眠りについた。

「ホントにいい子たち……」

 静かに眠る双子の髪をそっと撫でながら千陽路は言った。

「ね? 祐佑……」

「本当に……」

 千陽路と祐佑は見つめ合って笑みを浮かべた。

 そこへ、母屋から家人が訪ねて来た。

「千陽路さま。祐佑どの」

「はい」

「慎太郎さまがご昼食を共にとおっしゃっておられます」

「えっと……どうしようか? 琥珀と真珠が眠ったところなの……」

「千陽路さま。慎太郎さまのお呼びです。参りましょう」

「でも……」

「連れて行けばよろしいかと思います。慎太郎さまも琥珀と真珠にお会いになりたいことでしょう」

「……そうね……祐佑、真珠を抱っこして。私、琥珀を抱っこするから」

 千陽路と祐佑はそれぞれ双子を抱き上げ、家人に連れられて母屋に向かう。

 双子たちは起きることもなく、すやすやと眠っていた。


 座敷に通されて、千陽路と祐佑は松岡家本家当主に対面した。

「……ゴメン。二人とも寝てたんだ……」

 慎太郎は親の腕の中で眠る双子を見やってそう口にした。彼の言葉は後悔に満ちていた。

「そう言えば、赤ん坊って、ずっと寝てるもんだよなぁ……さっき寝てたからもう起きてるかなって、勝手にそう思ってた。呼びつけて悪かった」

「ううん。二人ともよく眠ってるし……」

「よく眠ってるのに、呼びつけちゃったんだなぁ、俺……」

 慎太郎は自責の念にかられているようだった。

「パパ、気にしないで」

誠志朗せいしろうにもよく言われるんだよ、俺。抜けてるって。ちょっと考えればわかることなのに……」

「ホントに気にしないで、パパ。赤ん坊なんて寝てるか泣いてるかなんだから」

 元気付けようと放たれた千陽路の言葉だったが、慎太郎ははぁっと深いため息をついた。

「俺って……」

「私、パパの気持ちわかるわ」

「千陽路……」

「琥珀と真珠が産まれた日しか会えなかったんだもの。二人を抱っことかしたかったんでしょう?」

「それはそうなんだけどね。だからって、寝てる赤ん坊を連れて来るとかはありえないだろう?」

 とことん落ち込む慎太郎という、大変珍しいものを見て、千陽路と祐佑は顔を見合わせた。

「ねぇ、パパ。琥珀と真珠を抱っこしてあげてくれない?」

「せっかく寝てるのに……」

 起きて、泣いたらどうしたらいいのかわからない慎太郎はそう言った。

「二人とも泣いたりしないわ。ね? パパ。こっちが琥珀よ? 抱っこしてあげて?」

「……いいのか? ホントに泣くかもしれないのに……」

「赤ん坊は泣くものよ」

 千陽路は母親の顔で笑った。

「パパ、赤ん坊は初めて?」

「こんなに身近で見るのは初めてだよ」

「パパの孫よ? こんな風に抱っこしてあげて」

 千陽路はそっと父の手に琥珀をゆだねた。

 ぎこちなく。

 双子の父親である祐佑よりもぎこちなく、慎太郎は琥珀を抱き取った。

「うわっ……柔らかいな……大丈夫かな?」

「大丈夫よ。ね? かわいいでしょう?」

「うん……」

 慎太郎は腕の中ですやすやと眠る琥珀を目を細めて見つめ、感嘆の響きを込めて言う。

「……かわいいなぁ……」

「さっきおっぱいを飲んでお腹いっぱいで眠ってるの。オムツも替えたばかりよ。急に起きて泣いたりしないから安心して」

 千陽路の言葉に慎太郎は少し緊張をほぐして、その実ぎこちないまま大きくあくびをする琥珀を見つめた。

「あ……動いた……」

「そりゃ、動くわよ……お人形じゃないんだから」

 千陽路は笑いながらそう言った。

 慎太郎は機械的にうなずき、ただひたすら琥珀を見つめる。

 しばらくの間、腕の中の琥珀を見つめていた慎太郎がだったが、腕の中の孫がもぞもぞと動き出すと慌てた。

「千陽路。琥珀が動いた」

「だから、動くわよ」

「千陽路。琥珀を頼むよ」

 大いに慌てる父から千陽路は息子を引き取った。

「どうだった? パパ」

「すごく軽いけど、重いな」

「慎太郎さま。真珠も抱いてごらんになりますか?」

「あ、ああ……そうだな……」

 慎太郎は今度は祐佑から真珠を受け取った。彼女は大きな目を開いていた。

「え? 真珠……起きてる……」

「泣いてはいないでしょう? 大丈夫よ、パパ」

 千陽路が優しく父を励まし、慎太郎はあーあーと声を上げるもう一人の孫を見つめた。

「パパのこと、見てるのかな?」

「まだ目は見えていないわ」

「そうか……起きてる赤ちゃんって、かわいいなぁ……」

 慎太郎は腕の中の真珠を愛おしそうに見つめた。

「柔らかくって、何だか凄くいい匂いがするんだな」

「何て言っても双子でしょう? 私の母乳だけじゃ足りないから、今回真珠は粉ミルク飲んだからかしら?」

「そうか……ミルクの匂いか……」

「祐佑がすごく積極的に育児に参加してくれるの。さっきも私がおっぱいあげてる間に、真珠にミルク作って飲ませてくれたのよ」

「そうか……さすがは祐佑だな。ホントに何でもできるんだ……」

「恐れ入ります、慎太郎さま」

 慎太郎の手放しの賛辞に、祐佑は控え目にそう言った。

「慎太郎さま。そろそろ真珠を引き取りましょうか?」

「うん……やっぱり俺が抱っこしてちゃ、真珠も落ち着かないだろうし……」

「そんなことはございませんが、赤ん坊を抱くのはお疲れになられるでしょう」

「そうだな……変なところに力が入るな」

 慎太郎は腕の中の真珠を祐佑に手渡した。

「千陽路も祐佑も、お腹空いていないか? 食事にしよう」

 慎太郎がそう口にすると、襖の外に控えていた家人が即座に動き出す。

 昼食の膳が用意され、琥珀と真珠は用意された座布団の上に寝かされた。

 琥珀と真珠が泣くこともなく、ただ静かに眠っていてくれたので、慎太郎と千陽路、そして祐佑は今後のことなどを話しながらゆっくりと食事をすることができた。

 爽やかな、ある夏の日の日常として記憶されることになるだろう。

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