第7話

 季節が巡って、千陽路ちひろはそろそろ臨月という時期を迎えていた。

 千陽路は大きなお腹を抱えながら、双子を迎える準備に余念がなかった。

祐佑ゆうすけ

「はい、千陽路さま。何か?」

「あのね、私考えたんだけど、パパに赤ちゃんの名付け親になってもらうのどうかな?」

「素晴らしいお考えです」

 祐佑は即座に賛同の意を表した。

「そう? じゃあ、パパに電話するね」

「お待ちください、千陽路さま」

 祐佑の言葉に千陽路は携帯電話を手にしたまま夫を見た。

「何?」

「私が直接、慎太郎しんたろうさまにお願いにあがります」

「……どうして?」

「名前は、子供にとって最初の、そして一番大切な贈り物です。そのような重大事をお願い申し上げるのですから、直接お伝えするのことが最低限の礼儀かと思います」

「……そうね」

 祐佑の、とても彼らしい言葉に千陽路は笑みを浮かべた。

「祐佑。パパのところに行って、お願いしてくれる?」

「はい。行って参ります」

 祐佑は千陽路に笑顔を向けて、自宅を後にした。


 祐佑は一人松岡家本家まつおかけほんけを訪れ、家人に出迎えられていた。

「これは、祐佑どの……」

「慎太郎さまはいらっしゃるだろうか?」

「いらっしゃりはしますが……お仕事中でございます」

「待たせていただいてもよろしいか?」

「一度慎太郎さまにご確認して参るので、こちらでお待ちください」

 祐佑は待合室に通された。連絡もせずに訪ねて来たのだから、慎太郎がこの松岡家本家にいただけでも僥倖ぎょうこうだと言える。

 待つほどのこともなく、家人が戻って来る。

「祐佑どの。慎太郎さまがお会いになるとおおせです」

「ありがとう」

 祐佑は家人に先導され、慎太郎がいる奥座敷へと向かう。

「慎太郎さま。祐佑どのをお連れいたしました」

「ああ、ありがとう。入ってくれ」

「失礼いたします」

 祐佑が奥座敷に足を踏み入れると、そこは書類で埋め尽くされていた。

「悪いな、祐佑、書類だらけのこんなところに呼びつけて」

「お忙しいところにお邪魔してしまい、申し訳ございません、慎太郎さま」

「いや……ちょっと煮詰まっていたところだから丁度いいよ」

 そう言って慎太郎は笑みを浮かべた。

「だけど、忙しいって言うのも本当のところなんだ。今日はどうしたんだ?」

「はい。本日は慎太郎さまにお願い事がございまして、お訪ねいたしました」

「お願い? なんだろう?」

「慎太郎さまにおかれましてはお忙しいとは存じますが、千陽路さまと私の子の名前を付けていただきたくお願いに上がりました」

「え? 俺が名付け親でいいのか?」

 慎太郎は驚いてそう訊いた。

「はい。千陽路さまもぜひ慎太郎さまに子供の名付け親にとおっしゃっていますので」

「そうか……喜んで引き受けるよ。名付け親かぁ……男女の双子だろ? 何か、双子っぽい名前がいいよなぁ……」

 慎太郎は嬉しそうな表情を浮かべて言った。そして表情を改めて祐佑に問う。

「なぁ……順調か?」

「はい。慎太郎さまの護符のお陰で千陽路さまもお健やかにお過ごしでございます」

「そうか……それは良かった……」

 慎太郎は笑みを浮かべた。

「慎太郎さまもお忙しいとは存じますが、千陽路さまが是非にとおおせでございます」

「うん……喜んで引き受けるよ。ところでさ、祐佑」

「はい」

「いつまで千陽路を、千陽路さまって呼ぶんだ? 夫婦なんだから、呼び捨てでいいんじゃないか?」

「……とても、そんなことは……」

 困惑した祐佑の言葉に慎太郎は苦笑するしかなかった。

「ま、いいけど……双子の名前は引き受けた。お前はもう松濤しょうとうに帰ってやってくれ。臨月だし、千陽路も不安だろうからな」

「はい……さようでございますね……」

「こんなこと、電話でも良かったんだぞ? わざわざ出向いて来なくったって」

「千陽路さまと私の子供の名前でございます。名はその子にとって、最初の贈り物かと存じます。その名付け親を慎太郎さまにお願いするのですから、直接お訪ねするのが最低限の礼儀かと存じます」

「お前らしいよ。わからないでもないけど……とにかくさ、もう帰ってやってくれ。千陽路が不安がるだろう?」

「はい……それでは、失礼をいたします」

「千陽路によろしくな。身体を大事にするように伝えてくれ」

「かしこまりました」

 そう応じて、祐佑は深々と頭を下げて松岡家本家を辞して行った。


「ただいま戻りました、千陽路さま」

「お帰りなさい、祐佑」

 松岡家本家から戻った祐佑を、千陽路が笑顔で出迎えた。

「パパ、引き受けてくれた?」

「はい。慎太郎さまもお忙しいにもかかわらず、喜んで引き受けるとおっしゃってくださいました」

「そう。良かった……」

「さようでございますね。ところで、千陽路さま。お腹がお空きではありませんか? 何かお作りしましょうか?」

「そうね……チキンが食べたいな。チキンのトマト煮込みがいい」

「かしこまりました。すぐにご用意するのでソファーでお待ちください」

「側にいたら邪魔?」

「とんでもない。ただ、立っておられてはお辛いでしょう?」

「ううん、平気。祐佑と一緒にいたいの。ダメ?」

 千陽路の言葉に祐佑は少し考え込んで、リビングから椅子を持って来てキッチンに置いた。

「こちらにおかけください、千陽路さま」

「ありがとう、祐佑」

 千陽路は祐佑の思いやりの深さに心から喜びを感じながら椅子に腰を下ろし、夫が彼女から見ればまるで魔法のように手際よく料理するのを見ていた。

 待つほどのこともなく、チキンのトマト煮とスープ。それからサラダが出来上がった。

「お待たせいたしました、千陽路さま」

「すっごくおいしそう」

「パンがよろしいですか? それともご飯にしましょうか?」

「ご飯がいいな」

「かしこまりました」

 真っ白いテーブルクロスが掛けられたダイニングテーブルに、祐佑が心を込めて作った食事が並ぶ。

 千陽路がいただきます、と言って食事を始めるのを祐佑は優しく見守った。

 祐佑が作ってくれた食事を食べ終えて、食器はやはり彼が片付ける。彼は頑なに手が荒れると言って千陽路には洗い物をさせない。

 祐佑がキッチンに立って片付けをし、千陽路はリビングのソファーで夫を待つ。

 穏やかな日常だった。

 その瞬間までは。

「あっ……」

 千陽路が悲鳴を上げた。

 突然、股間が濡れた。見ると大量の水が溢れ出している。

「千陽路さま! いかがされましたか?」

 駆け付けた祐佑は顔色を真っ青にした千陽路を見た。

「……多分……破水したんだと思う……」

 千陽路は呆然と応じた。

 祐佑はただ驚いてはいなかった。父親教室で習った通り、すぐに望月もちづきに連絡をする。

「はい、望月です」

「高生です。妻が破水しました」

「すぐに清潔なナプキンを当てて病院に来てください。ご主人、落ち着いてね」

「はい」

「準備をして待ってるわ。冷静に、落ち着いて来てください」

「はい」

 電話を切った祐佑は千陽路の手当てをし、少しだけお待ちください、と妻に声をかけてもう一度電話をかける。

 相手はすぐに電話に出た。

『祐佑、何かあったのか?』

 電話の相手は慎太郎だった。

「慎太郎さま。千陽路さまが破水されました。すぐ産院へ向かいます」

『破水……』

 慎太郎が呆然とした声を出す。そこで電話の相手が替わった。

『俺だ』

 慎太郎の親友、財田誠志朗さいたせいしろうだった。

『すぐに病院に行くから。お前はとにかく千陽路に付いてろ。いいな? 気をしっかり持てよ?』

「誠志朗さん……」

『ぼーっとすんな! お前がしっかりしなくてどうするんだ! とにかく慎太郎を連れて病院へ行く。いいな?』

「承知しました」

 祐佑は電話を切り、千陽路を連れて病院に向かった。


「子宮口は開いていないけど、感染症が怖いからこのまま陣痛促進剤を入れて分娩までいきましょう。ご主人、立ち合いですね?」

 千陽路を診察した望月はテキパキと言った。

「はい」

「食事は済んでる?」

「食事ですか? ええ」

 望月に唐突に問われ、祐佑はうなずいた。

「そう。長丁場になるから」

「長丁場……ですか?」

「そう。初産ですもの。まだ子宮口も開いていないし……最低でも十二時間かしら?」

「……妻は、大丈夫なのでしょうか?」

「頑張ってもらうより仕方ないわね。こればっかりは誰かが代わってあげられるものじゃないんだから」

「……」

「とにかく、ちゃんと衛生服に着替えてきてください。鈴木すずきさん。ご案内してあげて」

 望月はナースにそう伝え、千陽路に向き合った。

「お母さん。点滴のルート作るから左腕出してちょうだい」

「はい……」

 千陽路は左腕を差し出した。

「ちょっとチクッとするわよ」

 望月が言い、千陽路の静脈に針が刺された。

「今から陣痛促進剤を落とします。気を楽にしてね」

「陣痛促進剤……」

「破水してしまったから、母体と胎児の感染予防のためにお産を早めます。大丈夫? 落ち着いてね」

「……はい……祐佑は?」

 千陽路は不安そうにそう口にした。

「ご主人? すぐに来てくれるわよ」

 望月の言葉を聞いていたかのように、衛生服を着た祐佑がその場に現れた。

「千陽路さま」

「祐佑……側にいてね?」

「もちろんです。どうかお心を強く持ってください」

 祐佑は千陽路の手を強く握った。

「祐佑……」

 千陽路の手が祐佑の手を強く握り返す。

 長いお産が始まろうとしていた。


 陣痛促進剤が効いてきたのか、千陽路は痛みに顔を歪ませていた。

「祐佑……」

 千陽路は弱々しい声で言った。

「はい、千陽路さま」

「パパと……おじさまが来てる……」

「慎太郎さまが?」

「うん……光が、視える……」

「それは……心強いですね」

「うん……」

 千陽路は祐佑の手をギュッと握った。

「千陽路さま。千陽路さま……」

 祐佑は千陽路の額の汗を拭いた。

「祐佑……痛いよ……」

「お母さん、頑張って」

「吸って、吸って、はい、吐いてー」

「はい、いきんで! そうよ! 上手! 頑張って!」

 望月や助産師が千陽路に声をかけ続ける。

 その時。

 分娩室に大きな産声が響いた。

「男の子ですよ、お母さん」

「産まれたの……?」

「ええ。ほら」

 千陽路の目の前に産まれたての赤ん坊が差し出された。

「ああ……私の赤ちゃん……」

 千陽路は感動で涙ぐんだ。

「祐佑……私たちの赤ちゃんよ……」

「千陽路さま……」

「なんて、かわいいの……」

「ええ、とても、かわいらしいです。千陽路さま……良かった……」

「お母さん、もうひと踏ん張りよ」

 望月が千陽路に声をかけた。

 そうだ。

 双子なのだから、千陽路はもう一人産み落とさなければならない。

「千陽路さま。どうか、頑張ってください」

 祐佑としては千陽路に対し、そうとしか声のかけようがなかった。

「うん……」

 再び、陣痛の強い痛みが千陽路を襲った。

「んっ……」

「吸って、吸って、はい、吐いてー」

「はい、いきんで! そうよ! 上手! 頑張って!」

「そのまま! そうよ! 上手!」

 産道が広がっていたからだろう。もう一人は思いの外早く産まれた。

「産まれたわ! 女の子! 頑張ったわね、お母さん」

「……女の子……」

 再び、千陽路の目の前に産まれたての赤ん坊が差し出された。

「かわいい……ね? 祐佑。女の子よ。かわいいね……」

「はい。千陽路さまにそっくりです」

「……よろしくね……私の赤ちゃん……」

「お母さん、赤ちゃんをお預かりしますね。お母さんは後産がありますから、このままでね」

「あ……はい……よろしくお願いします」

 千陽路の手から産まれたての赤ん坊が引き離された。

「ご主人はご家族の方がいらっしゃっていますから、無事に産まれたことをお伝えになった方がいいと思いますよ」

「千陽路さま。お一人で大丈夫ですか?」

「うん。パパとおじさまが来てるから、無事に産まれたって伝えて来て」

「はい、千陽路さま」

 千陽路に見送られ、祐佑は分娩室を後にした。そのまま千陽路の病室である特別室へと足を向ける。

「慎太郎さま!」

 祐佑は特別室の扉を開けた。

 室内では慎太郎と誠志朗が向かい合って深い祈りを捧げていた。

 ハッとしたように二人が顔を上げる。

「産まれました! 母子ともに無事です! 千陽路さまも、子供も……」

「……そうか……良かった……」

「慎太郎さまと誠志朗さんのお陰です。十二時間もよく……」

「十二時間……」

「まぁ、よくそれだけの時間集中力途切れさせずに祈祷ができたもんだ……」

 言って、誠志朗はうんっと伸びをした。

「で? ちーちゃんは?」

「すぐにこちらにいらっしゃいます。子供たちは少しの間保育器に入らなければなりませんが……」

「どこか、悪いのか?」

「いえ……少し出産が早かったため、所謂いわゆる未熟児なので……」

「大丈夫なのか?」

「はい。とても大きな声で産声をあげていました」

「そうか……良かった……」

「ずっと祈祷きとうを続けてくださった慎太郎さまと誠志朗さんのお陰でございます。心より感謝申し上げます」

「当たり前だよ、祐佑。俺の孫なんだから。無事に産まれて良かった……本当に、良かった」

 そこへ、車いすに乗った千陽路がやってきた。

「パパ! おじさま!」

「千陽路……」

「身体は大丈夫か? ちーちゃん」

「うん。ありがとう、ずっと祈っててくれて……分娩室にも光が届いてた。あぁ、パパとおじさまが祈ってくれてるって……凄く心強かった」

「千陽路さまが、慎太郎さまと誠志朗さんがいらっしゃっていると私に教えてくださいました。本当に、ありがたいことだと痛感いたしました」

「当然だろ? かわいいちーちゃんとその子供なんだからさ。だけどさ、慎太郎ときたら、千陽路が破水したって聞いた途端、パニくってさ……自分にできることやれって俺がどやしつけたんだよ」

「そうだったの?」

「ああ。慎太郎も人の親なんだなぁ……とにかく、ベッドに横になった方がいいんじゃないか?」

「うん。そうする……」

 千陽路がうなずくとすかさず祐佑が手を貸して、彼女をベッドに横たわらせる。

「千陽路。大変だったな」

「まぁ、初産で十二時間だったら早かった方だよ。でも、お疲れ。ちーちゃん」

「ありがとう、おじさま。でも、ちょっと疲れちゃった」

「ああ。ゆっくり休みな。俺たち赤ん坊見て来るからさ」

 誠志朗の声は千陽路には届いていなかった。彼女は既に眠りに落ちていた。

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