第6話

 千陽路ちひろ祐佑ゆうすけは誰にも邪魔をされない幸せな新婚生活を送っていた。

 しかし、何もかもが順調と言うわけではなく、千陽路のお腹の子供が双子であることがわかったり、それに伴って彼女の悪阻つわりがかなり重くて、ほとんど食べ物を受け付けない状態になってしまい、祐佑を大いに慌てさせた。

「千陽路さま……何か少しでも召し上がらないと……」

「何も食べたくない……食べ物のこと考えただけで気持ち悪くなるの……」

 千陽路はソファーに座ったまま、ぐったりとそう言った。

 千陽路が口にするものと言えば、ゼリー飲料であったり、少しの果物。それから生姜湯や梅昆布茶などを欲しがった。

 祐佑がせめて、と差し出した梅昆布茶を千陽路は受け取る。

「ありがとう、祐佑」

 千陽路はカップを両手で包み、中身をそっと口にする。

「あったかくておいしい……」

「そうですか……やはり食べ物は受け付けませんか?」

「うん……」

 千陽路はあれほど好きだったケーキも受け付けないようだったが、かろうじてイチゴのショートケーキに乗ったイチゴだけは食べることができた。

 それを見て、祐佑はスーパーで色々な果物を買って来たのだが、千陽路が手を伸ばしたのはイチゴとキウイとパイナップルだけだった。

 それも、ほんのひと口ふた口。

 これではお腹の子供もだが、千陽路自身も参ってしまうのではないかと案じた祐佑は、一人望月もちづき医師の病院を訪れた。

「妻の悪阻がひどくて、ほとんど何も食べられないのですが……」

「今は赤ちゃんも大きくなる時期ではないので、無理して食べなくても大丈夫ですよ」

 望月は静かにそう口を開いた。

「ですが、このままでは妻が参ってしまうのではと心配です」

「今はどういう物なら口にできています?」

「イチゴとキウイとパイナップル……それもほんのひと口ふた口で……あとはゼリー飲料です」

「水分はどうですか?」

「生姜湯や梅昆布茶を」

「水分が取れているなら点滴の必要はありませんね。今が妊娠十二週目。悪阻のある妊婦さんにとっては一番辛い時期です。十六週目くらいには悪阻は治まります。何よりもご主人が食べろ食べろと言うのは却って奥さんのストレスになりますよ」

 望月はそう釘を刺した。

「奥さんが食べたい物を、奥さんが食べたいタイミングで食べさせてあげてください。悪阻の時期が過ぎれば、今度はご主人は過食を心配することになりますよ」

「過食ですか?」

「ええ。何と言っても双子ちゃんですからね。他のお母さんの倍は食べないと、赤ちゃんが大きくなれません。お母さんは自然にそれを感じ取って必要な分を食べられるようになるんです。食べ過ぎを心配して横から余計な口出しをしたら、お母さんは委縮してしまいます」

「そうなのですね……」

「ご主人は少し心配性なようですね」

 望月はそう言って笑った。

「ご主人がピリピリされていては、奥さんに悪影響が出ますよ。どんと構えていないと……それでなくても、若いお母さんなんですから、ご主人が支えてあげてください」

「……心得ました」

 祐佑は望月に頭を下げて、診察室を後にした。千陽路には買い物に行くと言って家を出て来たので、急いで買い物を済ませて帰宅する。

「ただいま戻りました、千陽路さま」

「お帰りなさい、祐佑」

 千陽路は少しは気分が良いのか、ソファーから立ち上がって祐佑を迎えてくれた。

「イチゴとキウイとパイナップルを買って参りました。召し上がれますか?」

「そうね……イチゴを少し食べたいかな」

「かしこまりました。すぐにご用意します」

「ありがとう。ホントに少しだけね」

「ええ」

 祐佑はキッチンに立ち、イチゴを食べやすいように薄くスライスして千陽路に手渡す。

「食べられるだけでよろしいのですよ」

 食べろ食べろとプレッシャーをかけるのが良くないのだと学んだ祐佑が言葉を添えた。

「うん、ありがとう」

 薄切りにされたイチゴは食欲のない千陽路でも食べやすかった。一度に頬張る必要もないし、祐佑と話をしながら少しずつ口に運んでいる。

 そして、ゆっくりではあったが千陽路は出されたイチゴを完食した。

「あ……全部食べられた……」

「そうですね、本当に良かった」

 祐佑はホッとしたように笑みを浮かべた。

「祐佑がスライスしてくれたからよ。丸ごとよりすごく食べやすかった」

「そうですか……お役に立てて本当に良かったです」

「何だか久しぶりにおいしいって思えたわ。ありがとう、祐佑」

 千陽路は少しは楽なのか、久しぶりに笑みを浮かべた。

「とんでもない。千陽路さまが少しでもお楽になられることこそが大切なことです」

 祐佑の言葉に千陽路はクスクス笑った。

「でも、双子だって言ったら、パパ驚いてたわね」

「そうですね。私も正直驚きました」

「一卵性じゃないって、先生おっしゃっていたわね。双子でも似てないのかな?」

「まぁ、兄弟のようなものでしょうから、面立ちは似ているのではありませんか?」

「そっか……」

 言って、千陽路は既に癖になっていたが無意識にお腹を撫でた。

「悪阻が治まったら、赤ちゃんたちの服とか買いに行かなくっちゃ」

「まだお急ぎにならなくても良いのではありませんか? 半年も先のことです」

「何か、色々見てみたいの。でも、ホントに悪阻が治まってくれないとどこにも出かけられないわ」

 千陽路はため息混じりにそう言った。

「外は寒いですから、もう少し暖かくなって、千陽路さまのご体調が良くなってからでも遅くはありませんよ」

「男の人のそういうところって現実的ね」

「そうかもしれませんね」

 祐佑は千陽路の非難がましい言葉に淡く笑みを浮かべた。

「私はどんな服がいいかしらとか、どんなおもちゃがあるのかしらとかばっかり考えてるのに」

「そこはそれこそ千陽路さまがおっしゃるように、男女の性差ではないでしょうか? 何しろ千陽路さまはそのお身体に子供を宿しておいでです。その点男親など、何の役にも立ちませんから」

「実感がないってこと?」

「極論を言えば、その通りです」

 祐佑は素直に自分の立ち位置を認めた。

「祐佑、パパになるのよ?」

「ええ。頭では理解できています。ただ、実際にこの目で見てもいないので、中々実感できずにいるのです」

 これが母親と父親の違いだろうかと、千陽路は考え込んだ。

 千陽路にとっては自分の身体が日々変化することで子供の存在を実感できるが、祐佑からすれば確かに実感できずにいるのかもしれない。

 ましてや千陽路はまだ妊娠初期なのでお腹も目立たない。その状態で祐佑に父親の自覚を持てと言うのは酷なのかもしれないとも思った。

 それでも、千陽路が祐佑に妊娠を告げた時は、確かに彼はとても喜んでいた。今はそれで満足するしかないのかもしれない。

「早く悪阻治まらないかしら……」

 千陽路はため息混じりにそう言った。

「そうですね。私も千陽路さまに以前のように食事を楽しんでいただきたいと思います。ただ、あまり気に病まないでください。今は食べられるタイミングで食べられる物を召し上がれば良いのですよ」

「うん……そうね」

 外は寒いが、部屋の中はほっこりと暖かかった。その暖かさの中、千陽路は何となく眠くなったのでソファーに横になり、そのうち静かな寝息を立て始める。

 祐佑は立って行き、千陽路にブランケットを着せ掛けた。

 部屋の照明を少し暗くして妻の眠りを妨げないように気を配る。

 妊娠中は普段と大きく違うのだからと言っていた望月医師の言葉を思い出す。

 祐佑は本当に、千陽路のことを愛おしいと思っていた。


 時が流れて、このところ千陽路の悪阻も落ち着き体調は安定し始めていた。

 今日は四週に一度の検診日だった。

 千陽路は衣服を整え、祐佑と共に産婦人科に向かう。

「悪阻は治まった?」

「はい」

 千陽路は望月医師にそう応じた。

「そう。良かった」

「でも、何だかすごくお腹が空くんです」

「正常な反応よ」

 望月は笑った。

「悪阻が治まったから、今度は身体が栄養を欲しているの。これからもっと食べたくなるわ」

「そうなんですか?」

「ええ」

「やだ……太っちゃう……」

 千陽路が困ったように言うと望月は笑った。

「安心して。これからはお腹の赤ちゃんが大きくなるためにお母さんから栄養を吸収してくれるから」

「そうなんですか? 赤ちゃんが?」

「ええ。これからどんどん大きくなるわよ。もう少ししたら胎動も感じられるかも。次の検診で赤ちゃんの性別も大体はわかるわよ」

「ホントですか? 嬉しい!」

 千陽路は無意識にお腹を撫でた。

「ご主人」

 望月は祐佑に声をかける。

「はい、何か」

「奥さんに好きなだけ食べさせてあげてね。出産は体力勝負だから、しっかり体力つけさせてあげて」

「はい。承知しました」

 祐佑は神妙に応じた。

「今日もお腹の赤ちゃんは順調よ。異変がなかったら四週間後にまた検診に来てちょうだい」

「はい、ありがとうございました」

 千陽路は望月に礼を言って立ち上がる。

 病院を出た千陽路はふと足を止めた。

「どうなさいました? 千陽路さま」

「久しぶりに、パパに会いたいな……」

「そうですね……ご連絡を入れてみましょうか?」

「うん」

 千陽路の笑顔を受けて、祐佑は携帯電話を取り出して慎太郎しんたろうに連絡を取った。

「慎太郎さま、祐佑です」

『祐佑? 凄いタイミングだな』

「タイミングでございますか?」

『ああ。俺、半月ぶりのオフで松岡家本家まつおかけほんけにいるんだよ。そんなタイミングで電話してくるんだからさ。まぁ、それはいいさ。何かあったのか?』

「いえ、特に何かがあったわけではございません」

『千陽路はどうしてる? 大丈夫か?』

 慎太郎の声に千陽路を心から案じている様子が滲んでいる。

「はい。今日は定期健診に行って参りました。母子ともに順調でございます」

『そうか、良かった……お前も調子の良くない千陽路のフォローで大変だと思うけど、よろしく頼むよ』

「恐れ入ります、慎太郎さま。ところで、ご連絡を差し上げた理由でございますが……」

『ああ、どうした?』

「千陽路さまが慎太郎さまにお会いしたとおおせでございます」

『千陽路が? もちろん、会うさ。こっちに来るか?』

「慎太郎さまのご都合さえよろしければ、松岡家本家をお訪ねしてもよろしゅうございますか?」

『もちろんだ。久しぶりに千陽路と祐佑に会えるな。俺も嬉しいよ』

「恐れ入ります、慎太郎さま。では、すぐに松岡家本家に参ります。貴重なお時間お取りいただき、お礼を申し上げます」

 祐佑の丁寧な言葉に慎太郎は苦笑した。

『お前らしいな……待ってるから気を付けて来てくれ』

「かしこまりました」

『じゃあ、あとでな』

 電話が切れる。

「祐佑。パパ、何て言ってた?」

「はい。慎太郎さまにおかれましては、本日は半月振りのお休みだとおおせでございました」

「半月振りのお休み? パパ、半月もお休みなかったの?」

「そのようでございますね」

「じゃあ……今日はパパのところには行かない方がいいわね……」

 千陽路はしょんぼりと言った。

「いえ、千陽路さま。慎太郎さまは千陽路さまにお会いになりたいとおおせでございました」

「え? でも……せっかくのお休みなのに……」

「慎太郎さまは千陽路さまにお会いしたいとおおせでございますよ」

「……ホント?」

「ええ。松岡家本家に参りましょう」

「うん」

 千陽路がかかる産婦人科から松岡家本家は遠くはないので、すぐに着いた。

「ここも、久しぶり……」

「そうですね。さぁ、参りましょう」

 松岡家本家に足を踏み込むと、家人に出迎えられた。

「お帰りなさいませ、千陽路さま」

「ただいま」

「慎太郎さまがお部屋でお待ちでございます。すぐにご案内させていただきます」

「ありがとう」

 家人が先に立ち、千陽路と祐佑は松岡家本家最奥の当主の私室へと足を向ける。

「慎太郎さま、千陽路さまがお着きでございます」

「ああ。入って来てくれ」

 室内から慎太郎の声がした。

「失礼いたします」

 家人が襖を開け、千陽路と祐佑を室内へ通す。

「何か飲み物を頼むよ」

「かしこまりました。何をお持ちいたしましょうか?」

「俺はコーヒーをもらおうかな。千陽路、祐佑、何がいい?」

「そうね……梅昆布茶あるかしら?」

「ございます」

「じゃあ、それをお願いするわ。祐佑は?」

「紅茶をお願いします」

「かしこまりました」

 家人は頭を下げ、音もなく姿を消した。

「千陽路、梅昆布茶なんか飲むんだ……」

「うん。カフェインがダメだから、抹茶ラテはお預けなの」

「そうか……なぁ、順調か?」

「うん。ちょと悪阻が大変だったけど……」

「悪阻が?」

「うん……何にも食べられなかったの」

「何にもって……」

「あ、イチゴとかは少し食べられたわ」

「イチゴを少しって……それだけか?」

「あとは、キウイとパイナップルを少し」

「……大丈夫なのか?」

 慎太郎は心底心配でたまらないという様子だった。

「うん。今は治まってるわ」

「そうか……」

「双子って、悪阻がひどくなりやすいんだって。先生がそうおっしゃっていたの」

「そうなのか?」

「うん、そうみたい」

 慎太郎は妻帯していないので、妊娠についての知識はほとんどなかったのだ。

「でも、もう悪阻は治まって……これからはうんとたくさん食べるようになるんだって。赤ちゃんが大きくなるために必要なことだって、そう先生がおっしゃっていたわ」

「そうか……」

「悪阻の間、ほとんど何も食べられなかったから、これからうんと食べたいわ」

「お任せください、千陽路さま。お召し上がりになりたい物をご用意いたします」

 祐佑が控え目に口を開いた。

「ホント? 嬉しい」

 千陽路は嬉しそうにそう言った。

「……あのさ」

「なあに? パパ」

「考えていたことなんだけど……いや、今すぐじゃなくって、子供が生まれてからのことなんだけど、お前たち、松岡家本家に引越しして来ないか?」

「え?」

「いや。何て言ったって、双子じゃないか。千陽路が一人で世話するのって、やっぱり大変なんじゃないかと思ってさ。その点、ここなら人手はあるし……離れがあるだろう? そこを改装したらそれなりにプライバシーも保たれると思うんだ。どうかな?」

「……」

 突然の申し出に、千陽路と祐佑は思わず顔を見合わせた。

「パパ……」

「いや、もちろんすぐ決めろって話じゃない。一度ゆっくり考えてみてくれ」

 慎太郎はそう言い添えた。

「……慎太郎さま」

「うん?」

「それは、ご命令でしょうか?」

「違うよ」

 祐佑の問いに慎太郎は苦笑を浮かべた。

「千陽路の親としての心配りだ。俺の希望と言った方がいいかもな。お前も知ってるだろう? 俺、親バカなんだよ」

 そう。

 慎太郎は千陽路を拾ったその時からずっと、親バカだった。

 これからもずっとそうだろう。

 慎太郎にとって、千陽路はいつも、いつまでもかわいい娘なのだから。

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