第5話

 祐佑ゆうすけの運転するクルマが松岡家本家まつおかけほんけに滑り込んだ。彼は短い移動でさえ体調を崩した妻を気遣った。

千陽路ちひろさま……大事ございませんか?」

「うん……ちょっと気持ち悪い……」

「千陽路さま……とにかく、中に入りましょう。少しお休みください」

「うん……」

 広大な松岡家本家に足を踏み入れると、途端に家人が飛んできた。

「千陽路さま……祐佑どの。いったい……」

「千陽路さまのご体調が優れない。どこかお休みいただける場所を……」

「待って、祐佑……パパにご挨拶しないと……」

「しかし……」

「パパに取り次いでちょうだい」

「千陽路さま……しかし、お具合が……」

 家人の視線は千陽路と祐佑の顔の上で泳いだ。

「松岡家本家を訪ねて来て、当主であるパパを無視何てできないもの……」

「千陽路さま……しかし……」

「大丈夫よ、祐佑……パパに取り次いでちょうだい」

「かしこまりました、千陽路さま……こちらでお待ちくださませ」

 千陽路と祐佑は玄関近くにある訪問者を一旦留め置く部屋に通された。

 まったく、家を出た娘が実家に戻って父に会う。

 それだけのことがひと騒動だ。

 千陽路はその部屋に座り込んでしまった。

「大事ございませんか? 千陽路さま……」

「うん……大丈夫よ」

 千陽路は青い顔で笑みを浮かべる。

 そこへ家人が戻って来た。

「すぐにお会いになるとおおせでございます。お部屋の方へご案内いたします」

 まったく、ひと騒動だ。

 家人の案内で、見知った松岡家本家の廊下を渡り、最奥にある当主の居室で、千陽路と祐佑は慎太郎しんたろうに相まみえた。

「千陽路……どうしたんだ? 具合が悪いって聞いていたんだけど……」

 しかし、千陽路はこの短い移動の中でも不調を来し、顔色が悪かった。

「慎太郎さま……少し、千陽路さまをごゆっくりお休みさせていただけますか? クルマに酔われたようで……」

「千陽路! 部屋で少し休みなさい」

 慎太郎は下らぬ御託を述べることもなく、千陽路を彼女が過ごした部屋へといざなった。

「祐佑。千陽路についていてやってくれ」

「パパ……私……」

「いいから。とにかく少し休むんだ」

 慎太郎はきっぱりとそう言った。

「水とか用意しようか? 飲めるか?」

「うん……ありがとう……」

石和いさわ。水を頼む……祐佑……こんな状態の千陽路を連れて来るなんて……いったいどうしたって言うんだ?」

 慎太郎と言う人間は一度信頼した相手を疑うことをしない。

 顕かに体調の良くない千陽路をわざわざこの松岡家本家に連れて来たことには理由があってのことだと理解していた。

「慎太郎さま……」

「パパ……祐佑を怒らないで……」

 石和が用意した冷たい水を飲んだ千陽路は人心地がついたようだ。

「私がパパのところに連れて行ってって言ったの」

「千陽路……大丈夫か? 心配しなくてもパパは祐佑に怒ってなんかいないよ。祐佑が理由もなく具合の悪い千陽路を連れて来たりしないことくらいわかってる。話だったらいくらでも聞くよ。だけど、千陽路はまず休まないとダメだ」

「もう……大丈夫……」

「でも……」

「ちょっと、クルマに酔っちゃっただけだから……」

「千陽路、クルマに酔う子じゃなかっただろう?」

「……あのね……」

「うん」

「あのね……パパ……私……赤ちゃんができたの……」

 千陽路は小さな声でそう言った。

「千陽路……」

「今日、調子が悪くて家で休んでいたでしょう? それで、病院に行って……五週目って言われたの……」

「でかした! 千陽路!」

 千陽路の言葉が沁み通った途端、慎太郎は声を上げていた。

「良かった! 本当に、良かった!」

「パパ……喜んでくれるの?」

「当たり前だろう? ああ……本当に、良かった……」

 慎太郎は喜色を満面に浮かべてそう言った。

「でも……私、パパのことを助けるって言ったのに……」

「そんなこと! そんなことどうだっていいんだよ! 赤ん坊が……新しい生命いのちが生まれることの方がよほど大切なことだ。祐佑。お前も産休だ。千陽路についていてやってくれ。千陽路はまだ若いし……初めての妊娠で不安だと思うんだよ。だからお前は千陽路と一緒にいてやってくれ」

「慎太郎さま……しかし……」

「こんな時代だ。新しい生命に勝るものなど何もない。紫苑しおんだってわかってくれるさ」

「でも……パパ……」

「いいんだ。紫苑には俺が伝える。あー……だけど、五週目かぁ……予定日いつだ?」

「まだわからないけど……夏頃だろうって……」

「夏かぁ……待ち遠しいなぁ……女の子かなぁ……男の子かなぁ……」

 千陽路もだが、祐佑もこんなに嬉しそうな慎太郎を目にするのは初めてだった。

「祐佑……パパ……嬉しそうね」

「私もこれほど嬉しそうな慎太郎さまは初めて拝見いたします」

「どっちだっていいや。無事に、元気に生まれてきてさえくれれば……」

 慎太郎は本当に嬉しそうにそう言った。

「それにしても……妊娠初期って不安定だって聞くから、とにかく安静にしているんだぞ。具合が良くなるまで、休んでいくといい」

「うん、そうさせてもらうね」

「何だったら一晩でも二晩でも泊まっていけばいい。とにかく身体を大事にな」

「ありがとう、パパ。でも少し休んだら大丈夫だから……」

「ホントか? ホントに大丈夫なのか?」

 慎太郎は本当に心配そうにそう訊ねる。

「うん」

「じゃあ、祐佑。お前、千陽路に付いていてやってくれ」

「かしこまりました、慎太郎さま」

「俺、誠志朗せいしろうに連絡しなくちゃ……あいつにちゃんと教えておかないと後からむくれそうだからな」

 言い置いて、慎太郎は千陽路の部屋を出て行った。

 程なくして、千陽路の状態はかなり良くなった。

「祐佑、もう落ち着いたわ」

「それはようございました」

「おうちに帰りましょう?」

「大丈夫ですか?」

「うん」

「では、慎太郎さまにご挨拶をしてお暇いたしましょう」

「うん」

 千陽路が以前使っていた懐かしいベッドから身を起そうとすると、祐佑がそれを助ける。彼女は眩暈めまいを起すこともなく、ベッドから降りた。

「うん、大丈夫」

 千陽路と祐佑は改めて慎太郎の私室を訪れた。

「パパ、千陽路です。入ってもいい?」

 千陽路が室内に声をかけると、中から襖が開いた。

 父が千陽路と祐佑を室内に招く。

「二人ともお入り。千陽路。もう大丈夫なのか?」

「うん、もう平気」

「そうか、良かった……もうあっちに帰るのか?」

「うん。パパ、紫苑さんにはもうお話ししたの?」

「うん、ちょっと驚いてはいたけど、快く了承してくれたよ」

「慎太郎さま……本当によろしいのでしょうか……」

「ああ、もちろんだ。何て言ったって、初産ういざんだからなぁ……どれだけ大事にしたってし過ぎってことはないだろう?」

「さようでございますね……慎太郎さまのおっしゃる通りでございます」

 とにかく慎太郎に心酔している祐佑がそう応じた。

「二人とも、大げさよ」

「大げさなもんか。千陽路はまだ若いんだし、何より初産なんだからさ」

 慎太郎は言った。

「千陽路と祐佑が新婚じゃなかったら、こっちに住めって言ってたところなんだけど」

 慎太郎は肩をすくめた。

「まさか、新婚一カ月のカップルを、こんなプライバシーもないような場所に住めとは言えないからなぁ……」

「パパったら……」

 千陽路が頬を赤くした。

「まぁ、何かあったらいつでも言って来るんだよ?」

「うん、ありがとう、パパ。何かあったらそうするね。じゃあ、行こう? 祐佑」

「はい、千陽路さま。では、慎太郎さま。おいとまいたします」

「ああ。気を付けて帰れよ」

「かしこまりました。参りましょう、千陽路さま」

「うん、じゃあ、パパ、またね」

「ああ、気を付けて」

 千陽路が手を振り、祐佑が頭を下げ、慎太郎は二人を見送った。


 翌日。

 千陽路と祐佑は昨日千陽路が一人で訪ねた病院に二人でやって来た。

高生たかおさん、体調はいかが?」

 望月もちづき医師が優しく対応してくれた。

「はい……クルマに乗って、酔って気分が悪くなったんですけど、少し休んだら良くなりました」

「そう、良かった……そちらがご主人?」

「はい」

「高生祐佑と申します。昨日は妻がお世話になりました」

「いえ……妊娠中はストレスがかかりやすいの。気をつけてあげてね」

「はい、気をつけます」

 祐佑は静かに応じた。

「……それで……今日はどうしたの?」

「昨日、私一人で先生のお話聞いて……驚いていたからちゃんと聞けてなかったと思うんです。だから改めてお話を聞かせていただければと……」

「そうね。私も近いうちにご主人と一緒に来てって言ったものね」

 望月は笑みを浮かべた。

「ご主人、よく聞いて。とにかく、奥さんのストレスに気を付けて。ホルモンのバランスが崩れているから、ストレスがたまりやすいの。クスリは自己判断せずに、必ず相談して飲むようにして。カフェインも控えてね。激しい運動もだけど、動かなすぎるのもダメよ。調子のいい時は一緒にお散歩するとかしてあげて。でも人混みは避けてね。免疫が落ちているから感染症にかりやすくなっているから。重い物を持つのは厳禁。食事は栄養バランスを考えるのも必要だけど、悪阻つわりも起きるかも知れないから、食べられる物を口にして大丈夫よ。葉酸サプリを出しておくから、飲んでちょうだい。奥さんの体調を最優先にして過ごしてね」

 祐佑は望月の言葉をメモしながら真剣に聞いていた。

「わかりました、ありがとうございます。他に気を付けることはありませんか?」

「あるわね」

 望月は笑みを浮かべた。

「何でしょうか?」

「……愛よ」

「……」

「奥さんを愛してあげて。自分の身体が日々変化していくのよ。男性には理解できないことなの。不安でいっぱいなはずよ。それを癒せるのはご主人、あなただけ」

「お任せください」

 祐佑は請け負った。

「蜜より甘く接しております」

 祐佑の言葉に千陽路は頬を染めた。

「祐佑ったら……」

「ご主人。その意気よ。うんと甘えさせてあげてちょうだい」

 望月は笑ってそう言った。

「はい」

 千陽路と祐佑は頭を下げて診察室を後にした。

「雰囲気の良い病院ですね」

「うん。評判もいいみたい」

「こちらでお産までかかられるのですか?」

「そのつもりなんだけど……」

「素晴らしいご判断かと思いますよ」

「良かった」

 千陽路は笑顔を見せる。

「祐佑に相談もしないで勝手に決めちゃったから、気を悪くするんじゃないかって、ちょっと心配してたの」

「まさか……千陽路さまがかかられる病院です。千陽路さまがお決めになればよろしいのですよ」

「祐佑……」

「お気に入りの病院が見つかって、良かったですね」

「そうね。先生、優しいし……」

 話しているうちにパーキングに辿り着く。

 祐佑がクルマのドアを開け、千陽路を先に乗せる。

「マンションに戻りますね」

「うん」

 祐佑は本当に優しい。

 千陽路は心からそう思っていた。

 祐佑が全面的にサポートしている竹階紫苑たけしなしおんには申し訳ないが、愛する夫とずっと一緒にいられることは正直なことを言えば、千陽路には嬉しいご褒美だった。

「ねぇ、祐佑」

 千陽路は甘えた声を出した。

「何でしょうか?」

「何か果物食べたい。スーパーに寄ってくれない?」

「お買い物ですか?」

 祐佑は怪訝けげんそうな表情を浮かべた。

「お身体に触りませんか?」

「何言ってるの、祐佑。先生も少しは運動しなきゃダメってそうおっしゃっていたでしょう?」

「人混みは避けるようにともおっしゃっておられましたよ?」

「スーパーの中は人混みじゃないわ」

「そうでしょうか? この時間は混みあっている時間帯です」

「祐佑ったら……ね? お願い。お買い物したいの」

 千陽路は祐佑に手を合わせた。

「千陽路さま……」

「女の子って、お買い物でストレス発散できるのよ? ね? いいでしょう?」

「……少しだけですよ?」

 結局、折れたのは祐佑だった。

「ありがとう」

 千陽路は嬉しそうにそう言った。

 祐佑の運転するクルマはあまり大きくはない高級スーパーの駐車場に滑り込む。

「ゴールデンキウイが食べたいな」

 千陽路は無邪気にそう言った。

 買い物カートは祐佑が押した。

「ゴールデンキウイですね。かしこまりました」

「カフェインはダメっておっしゃっていたから……残念だけど、抹茶ラテはしばらくお預けね」

「そうですね」

 千陽路がアイスクリームに手を出そうとした時、祐佑はやんわりと止めた。

「これから寒くなる季節ですから、お止めください。お身体が冷えます」

「そう?」

 千陽路は仕方なく手を引っ込めた。

「何か、甘い物が食べたいなぁ……」

「美味しいケーキ屋がありますよ。後で寄りましょう」

「うん」

 千陽路は物珍しそうにスーパーの中をゆっくりと見て回り、上機嫌だった。

 一方で祐佑は日々の細々とした食材をかごに入れている。

「このママレード、美味しいのよね」

「では一つ買いましょう」

「ネットスーパーも便利だけど、こうして見て回るのって楽しいわね」

「そうですね。私も千陽路さまとご一緒できて嬉しいです」

「ホント?」

「ええ、もちろんです」

 祐佑の返答に千陽路は嬉しそうな笑顔を見せた。

 取りあえず、入用なものを購入してスーパーマーケットを後にした千陽路と祐佑は、美味しいとお墨付きのケーキ屋に寄り道をした。

 宝石のようなキレイなケーキがショーケースに並んでいるのを見て、千陽路は小さく歓声を上げる。

「わぁ……キレイ……おいしそう」

 嬉しそうな千陽路を見て、祐佑も笑みを浮かべた。

「どれになさいますか?」

「えっと……どれも食べたいなぁ……」

 千陽路はショーケースに並んだケーキを一つ一つ眺めている。

「ねぇ、祐佑。一つに決めなきゃダメ?」

「そうですね。この店のケーキは小ぶりなので、二つくらなら良いでしょう」

「二つかぁ……それでも悩んじゃう」

 沢山のケーキの前で真剣に悩む千陽路を、祐佑は優しく見守りつつ言う。

「今回限りと言う訳ではないので、次また参りましょう」

「うん……でも、ホントにどれもおいしそうなんだもん」

 悩みに悩んで、千陽路はミルフィーユとショコラケーキを選んだ。祐佑はベイクドチーズケーキとショートケーキ。

「半分こしましょうね?」

「ええ」

 嬉しそうに千陽路がケーキの箱を持って家路につく。

 千陽路はとても幸せな気分だった。

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