第4話
思いも寄らない父、
目を覚ました
何と言うか、どこがどうとは言えないのだが、具合が悪いと感じる。
「お目覚めですか? 千陽路さま」
千陽路がベッドに身を起した気配を察したのか、衝立の向こうから祐佑が姿を現した。
「おはよう、祐佑」
「おはようございます」
祐佑は柔らかな笑顔を浮かべた。
「お起きになりますか?」
「うん」
千陽路がベッドを降りるのを、祐佑がそっと手助けしてくれる。
「ありがとう、祐佑」
「とんでもない……千陽路さま? 少しお顔が赤いようですが、お熱でもおありでしょうか?」
祐佑の手がそっと千陽路の額に触れる。
「大丈夫よ」
「……少し、熱い気がします。体温計を持って来ますので、少しお待ちを」
祐佑は千陽路にカーディガンを着せ掛けて、リビングの方に姿を消した。そしてすぐに体温計を持って戻って来る。
千陽路が祐佑に言われるがまま、熱を測るとやはり少しだけ熱があった。
「三十六度九部……微熱がありますね」
「大したことないわ」
「ですが、千陽路さまがお熱を出されることなど初めてではありませんか?」
病気というものは結局のところ気の淀みによって起きるものなので、
「今日はお出かけはお控えください」
「大丈夫よ」
「いけません。ご体調が優れない折にお仕事など」
「でも……」
「いけません」
祐佑は頑なに言った。
「今日はお部屋でお休みください」
「でも、祐佑はお出かけするんでしょう?」
「仕事がありますから」
「私も、お仕事があるの」
千陽路はそう言ったが、祐佑は聞く耳を持たなかった。
「千陽路さまのお仕事は気力体力共に消耗するお仕事でございます。お熱がある状態でお仕事など、とんでもない」
祐佑はきっぱりとそう言い切った。
「慎太郎さまにご連絡いたします」
「祐佑……」
祐佑は携帯電話を取り出し、慎太郎に連絡を取る。
「……慎太郎さま、祐佑です」
『朝からどうしたんだ?』
柔らかな、慎太郎の声が聞こえた。祐佑は簡潔に用件を伝える。
「千陽路さまがお熱を出されています」
『千陽路が? 高いのか?』
「三十六度九部ございます」
『そんなに高くはないか……』
慎太郎はホッとしたような声で言った。
『だけど、念のため今日は家で休むように伝えてくれ。何だったら祐佑も休むか?』
「いえ。そういうわけには……」
『だけど……』
「ただ、千陽路さまのご昼食を用意してからそちらに向かいますので、大変申し訳ございませんが少し遅れます」
『ホントに休んでもいいんだぞ?』
「いえ、そちらに参ります」
『そうか……ちょっと千陽路に替わってくれないか?』
「かしこまりました。千陽路さま。慎太郎さまがお電話を替わって欲しいと……」
「うん……パパ?」
『千陽路。熱があるんだって? 大丈夫なのか?』
「微熱よ。祐佑、過保護だから……」
『でも、松岡家本家の仕事は気力も体力も
「……パパ……」
『いいね? 何だったら、祐佑も休むように言おうか?』
「ううん。一人で大丈夫」
『そうか? じゃあ、とにかくゆっくり休むんだよ?』
「うん」
『祐佑に替わってくれ』
「うん。祐佑、パパが電話替わってって」
「はい、千陽路さま……慎太郎さま。お電話替わりました」
『祐佑。本当に休まなくても大丈夫か?』
「はい。千陽路さまのお熱もさして高いわけではございませんし……」
『そうか……』
「はい。
『そうか……わかった。じゃあ、気を付けて来てくれ』
「では、失礼いたします」
祐佑は慎太郎が電話を切るのを待って、千陽路を振り返った。
「と、言うことですので……千陽路さまは今日はお部屋でごゆっくりお休みください」
「何よ! もうっ! パパにまで連絡することないじゃない」
千陽路は口を尖らせて言った。
「お熱があるのです。慎太郎さまにお伝えするのは当然のことです」
「ただの微熱じゃない」
「微熱を甘く見てはいけません」
祐佑はきっぱりと言い切った。
「熱が下がらないようなら、病院へ行きましょう」
「大丈夫だってば」
「とにかく、朝食にいたしましょう。食欲はおありですか?」
「うん」
「ではお顔を洗っていらしてください」
「うん」
千陽路は洗面所に向かい、顔を洗って洗面所の鏡で自分の顔を見る。自身の体調不良は熱のせいなのだろうか?
考えても仕方がないと、千陽路は気持ちを切り替えてダイニングに向かう。
テーブルには、今日は和食が用意されていた。
塩鮭に春菊の胡麻和え。高野豆腐の卵とじに香の物。味噌汁と炊き立ての白いご飯。
「おいしそう……いただきます」
「食欲はおありのようで良かったです」
「うん……ねぇ。ホントにおうちにいなきゃダメ?」
「今日一日はお部屋でゆっくりお休みください。熱が上がったら大変です」
「過保護なんだから……」
「なんとでもおっしゃってください。今回のことでは私は折れませんから」
祐佑は柔らかく笑ってそう言った。
「……祐佑ったら……」
千陽路も笑顔を浮かべた。
新婚夫婦の微笑ましい会話だった。
和やかに朝食を終え、いつものように祐佑が洗い物を片付けて。
いつもと違うのは、祐佑が今日は家に残る千陽路のため、サンドイッチを作ったことだった。
「ちゃんと召し上がってくださいね、千陽路さま」
「うん、ありがとう、祐佑。いってらっしゃい」
「いってまいります」
いってらっしゃいのキスをして、祐佑が
ふぅっと千陽路はため息をついた。
本当に、熱を出すなんてどのくらいぶりのことだろう。父、
その時はしゃぎすぎたためか、その夜千陽路は熱を出したのだった。でも、それは一過性のもので、翌日にすぐ下がった。
それ以来、千陽路は風邪一つ引いたことがないので熱を出したこともない。
千陽路が感じている身体の違和感は熱によるものなのだろうか。
考えて、千陽路が思い当たったこと。それは生理の遅れだった。彼女は今まで生理の日がずれたことはない。
まさか……
千陽路は無意識に下腹部に手を当てていた。
千陽路の行動は早かった。
インターネットで近在の女医がいる産婦人科に連絡をし、今、千陽路は病院の診察室にいた。
「一人で来たの?」
優し気な女医は千陽路にそう訊いた。ネームプレートに
「夫は仕事で……」
緊張を隠せず、千陽路は答えた。
「そう……生理が最後に来たのはいつ?」
「先月はあったんですけど……」
「いつも生理は順調なのかな?」
「はい……いつもだったら、もうとっくになっててもおかしくないんですけど……」
「じゃあ、検査してみましょうか。このカップにおしっこ取ってね」
「はい……」
清潔なトイレで採尿し、待合室で待つことしばし。
「高生さん。診察室にお入りください」
看護師に呼ばれて千陽路は再び診察室に入った。
「どうぞ、座って」
「はい」
「検査結果は陽性。エコー検査してみましょう」
「陽性?」
「ええ。妊娠五週目くらいかしら。ちゃんとエコー検査してみましょうね。そこのベッドに横になって」
「はい……」
千陽路は言われるがまま、診察台に横になった。
タオルケットが掛けられ、その下で千陽路の服がはだけられた。
「ちょっと冷っとするからね」
下腹部にジェルが塗られて、何か堅い物が押し付けられる。
「ちょっとじっとしていてね。そこのモニターを見ていてちょうだい」
白黒の荒い画面。千陽路は何がなんだかわからないまま、その画面を見つめる。
「……うん。
「赤ちゃんが……」
望月の言葉に千陽路は呆然と呟いた。
「もう起きていいわよ」
千陽路は起き上がり、椅子に座る。
「順調にいけば予定日は来年の夏頃ね」
「……」
「体を冷やしたりしちゃダメよ? 激しい運動もダメ。ゆっくりゆっくり……ね?」
「あの……」
「何?」
「来年の夏に、赤ちゃん……産まれるんですか?」
「そうね。順調に行けばそうなるわね……困るのかしら?」
「えっと……祐佑に何も言ってないし……」
「祐佑さん? ご主人かしら?」
千陽路はこくりとうなずいた。
「パパにも、言ってないし……お仕事も……あるし……」
千陽路はため息交じりに言った。
「お仕事してるの?」
「はい……」
「どんなお仕事?」
「パパの後を継いで……」
千陽路は言葉を濁した。
「そう。お父さんのお仕事を……きっと、誇りに思っていらっしゃるでしょうね」
「……」
「あのね……妊娠初期は流産し易い時期なの。お仕事によっては少しセーブした方がいいかもしれないわね」
「……高生さん。よく考えてね? あなた、お母さんになるの」
望月は噛んで含めるように口を開いた。
「お仕事は大切だと思う。でも、お腹の赤ちゃんのお母さんになれるのは、あなただけなの」
「……」
「高生さん……赤ちゃん、産まれると困るかしら?」
千陽路は首を横に振った。
望月は笑顔を浮かべた。
「あなたはまだ若いし、急に赤ちゃんができたって言われたら驚くわよね?」
千陽路は黙ってうなずいた。
「結婚したのはいつ?」
「ひと月前です……」
「ご主人、優しい?」
「はい……とても……」
「ご主人は赤ちゃんできたってわかったら、どう思うかしら?」
「たぶん……驚くと思います」
「驚いて……それから?」
「きっと……喜んでくれると……パパも、喜んでくれると思います」
「そう……幸せな赤ちゃんね」
千陽路は小さくうなずいた。彼女はまだ、混乱している様子だった。
「近いうちにご主人と一緒に来てくれるかしら」
望月の言葉に千陽路はこくりとうなずいた。
松濤のマンションに一人帰宅した千陽路は妊娠のことを祐佑に告げるかどうか悩んでいた。
今、世界は大変なことになっている。
千陽路自身、その助けになるため精一杯動いている。
それが今、土台から揺れ動いているのだ。
結論が出ないまま、時刻はそろそろ祐佑が戻って来る頃になっていた。
サンドイッチを口にすることも忘れていた千陽路は、慌ててそれを食べた。祐佑に余計な心配をかけたくなかったからだ。
千陽路は祐佑が戻って来るまでに、何とかサンドイッチを食べ切ることができた。
マンションの扉が開き、祐佑が帰宅したのだ。
「ただいま戻りました、千陽路さま。ご体調はいかがですか?」
「うん……大丈夫……」
千陽路はそう応えたが、どうも様子がおかしいことを祐佑が察した。
「ご様子がおかしいですね……何かございましたか?」
「ううん……」
「千陽路さま」
祐佑は千陽路の顔を覗き込んだ。
「ご様子がおかしいことくらいはわかります。私は千陽路さまの夫ですよ? どうか、本当のことをおっしゃってください」
「祐佑……」
「何があったのですか?」
千陽路はため息を落とした。
「えっとね……病院に行ってきたの」
「病院? それほどにご体調がお悪いのですか?」
「ううん! 違うの」
祐佑の心配そうな問いかけに、千陽路は慌てて応じた。
「ごめんなさい、心配させちゃって……」
「……病院とおっしゃるのは、どういうことでしょうか?」
「あの……あのね……」
千陽路は口ごもる。
「千陽路さま?」
「……赤ちゃんができたみたいなの……」
千陽路の声はささやくようだった。
「千陽路さま……」
千陽路は祐佑にふわりと抱き締められた。
「子供が……千陽路さまと私の子供が……」
「祐佑……喜んでくれる?」
「もちろんです。これ以上に嬉しいことはありません。慎太郎さまにご報告はなさいましたか?」
「ううん……まだ誰にも言ってないの」
「すぐに松岡家本家に参りましょう。慎太郎さまにご報告申し上げなければ……」
「パパ……喜んでくれるかな?」
「もちろんです。どれほどお喜びになることでしょうか」
そう言ったものの、どこか浮かない顔をしている千陽路を見て、祐佑は妻を気遣った。
「千陽路さま……ご体調がすぐれないのであれば、日を改めましょうか?」
「……ううん……違うの……赤ちゃんができたらパパを助けていけなくなるでしょう? それが気になって……」
千陽路の心にはそれが重くのしかかっていた。
「慎太郎さまはそのようなことでお
祐佑はきっぱりとそう言い切った。
「そうかなぁ……」
千陽路は疑問そうだった。
「だって、今、パパは
「慎太郎さまはそのようなことをお咎めになられたりはなさいません。お約束いたします。慎太郎さまはお心の広い方でいらっしゃいますから」
「そうね……まさか、パパに黙ってるわけにはいかないものね……祐佑、帰って来たばっかりだけど、私をパパのところに連れて行ってくれる?」
「はい。ただ……お身体は大丈夫でございますか?」
「うん」
「では、参りましょう」
祐佑は千陽路の手を取ってソファーから立ち上がらせた。
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