第3話

 千陽路ちひろ祐佑ゆうすけの二人がディズニーランドに行った翌日の朝。

 カーテン越しに柔らかな光が漏れている。

 先に目を覚ました祐佑は、隣でまだ眠っている千陽路を起さないようにベッドを下りなかった。

 千陽路はまだ夢の中にいるようだった。

 祐佑は愛する妻のかわいらしい寝姿を愛おしそうに見つめていたが、彼女は寝返りを打って目を覚ました。

「お目覚めですか? 千陽路さま」

「祐佑……おはよう……」

 言って、千陽路は笑みを浮かべた。

「おはようございます」

 祐佑は千陽路にそっとキスをして、彼女をベッドから抱き起した。

「ありがとう、祐佑」

「お顔を洗って来てください。朝食にしましょう」

「うん」

「今日は少し冷えますから、こちらをお召しください」

 祐佑は千陽路にカーディガンを着せ掛ける。

「ありがとう」

 千陽路は相変わらず家事が少し苦手だった。何しろ幼い頃から一度も自分の手で家のことをしたことがないのだ。はっきり言って、食材の値段もよくわかっていない。

 それでもつたないながらも一生懸命家事をやろうとはしているが、中々道は厳しいようだった。

 今日も千陽路が身支度を整えている間に、祐佑が手早く用意した朝食を前にため息を落とす。

 千陽路自身がこれを作るとなると、さて、半日がかりになるのではないだろうか。

 祐佑は千陽路がため息をついたのを見て問う。

「お気に召しませんか?」

「あ、ううん。違うの」

 千陽路は慌てて言った。

「私が作ったら、祐佑みたいにこんなに早くは作れないなぁって……」

 千陽路のその言葉に祐佑は笑みを浮かべた。

「千陽路さまにはお料理をすることより、他にもっと大切なお役目がございます」

 やはり祐佑の言葉はどこかピントがずれている。しかしそれでも千陽路を励まそうとしていることはわかるので、彼女は笑った。

「……おいしそう……いただきます」

 今日はチーズオムレツにシーザーサラダ。クロワッサンとヨーグルトのかかったフルーツ。そして紅茶というメニューだった。

「千陽路さま。今日のご予定はどうなっていらっしゃいますか?」

「うん。松岡家本家まつおかけほんけに行かなきゃいけないんだけど、送ってくれる?」

「もちろんです」

「ありがとう。祐佑は?」

「私も一旦、松岡家本家に顔を出します」

紫苑しおんさんのご用はないの?」

「彼からの連絡は松岡家本家が担っています。彼からの情報を受け取って、精査し、それをフィードバックする。今はそれを松岡家本家で行っております」

「そうだったのね……紫苑さんも色々と大変みたいね……」

「ええ。彼はとても大きな責任を自身に課しているので。そのフォローを私がさせていただいております」

「そう……」

「彼もいっそのこと松岡家本家に住んでしまえば良いような気もしますが、こればかりは当主たる慎太郎しんたろうさまがお決めになることでございますからね」

「そうね……紫苑さんって、今どこに住んでるの?」

「新橋の辺りと聞いております」

 確かに、少し距離はある。

「まぁ、ほとんど帰れてはいないようですが……」

「そうなの?」

「ええ。私には家に帰るように言ってくれますが、彼自身は遅くまでリモート会議などに対応しているようです」

「体、大丈夫かしら?」

「気持ちだけで立っているのでしょうね」

「……紫苑さん……体壊さないといいんだけど……」

 千陽路はふっと息をついた。

「私も助言はしているのですが、なかなか聞き入れて貰えない状態なので……」

「祐佑。出来るだけ紫苑さんのことを助けてあげてね?」

「ええ、もちろんです」

 千陽路の優しい言葉に祐佑は笑みを浮かべて応じた。

 食事を終え、食器の片付けは祐佑が担う。彼は手が荒れるからと言って、頑なに千陽路に洗い物をさせなかった。

 出掛ける支度を終えて、千陽路と祐佑は松濤しょうとうのマンションを後にする。彼の運転で松岡家本家に向かうが、二人が暮らすマンションと松岡家本家は近いので程なくクルマは停まった。

 祐佑が回り込んでドアを開け、千陽路の手を取り降車させる。

「ありがとう、祐佑」

 千陽路と祐佑は松岡家本家の門をくぐる。

「おはようございます、千陽路さま」

 家人に出迎えられ、千陽路は笑顔を向けた。

「おはよう、田ノ倉たのくらさん。今日は何かお仕事入ってる?」

「いえ。千陽路さまにお動きいただかねばならない案件はございません」

「そう」

「奥のお座敷に慎太郎さまがいらっしゃいますので、ご挨拶をお願いいたします」

「え? パパおうちにいるの?」

 珍しいこともあるものだ。慎太郎は多忙なので早朝と深夜に行われる祈祷きとうの時間以外にこの松岡家本家にいることは滅多にない。

「さようでございます」

「ありがとう、田ノ倉さん。行きましょう、祐佑」

「はい、千陽路さま」

 千陽路と祐佑の二人は長い廊下を渡り、奥の座敷に向かう。

「千陽路です」

 襖の前で千陽路が声をかけると、中から応えがあった。

「千陽路。入っておいで」

「はい」

 襖を開け、中にいる人物を見て千陽路は驚いた。

「紫苑さん。お久しぶりです」

 竹階たけしな紫苑が静かにそこに座っていた。

 随分、疲れているように見える。

「久しぶり。いつも祐佑さんをこき使っちゃってごめんね」

「そんなこと……紫苑さんが大変なお仕事をされてるのはわかっていますから……」

「祐佑さん。出来た奥さんですね」

「ええ」

「まぁ、二人とも中に入って座れよ。ちょっとした発表があるから」

 慎太郎が柔らかく言った。

「発表?」

「うん」

 思わせぶりな父、慎太郎の言葉を不思議に思いながら千陽路と祐佑は部屋に入り、座る。

「発表って、何?」

「うん。紫苑とも話し合ったんだけど、彼に松岡家本家に住んでもらうことにした」

「え? そうなの?」

「うん。紫苑が外で情報交換して、それを松岡家本家で精査して、それをまた紫苑にフィードバックして……どうしたってタイムラグができるだろう? 松岡家本家に住んでもらったら、少なくともそのタイムラグは解消できるし、何より人手もあるからきちんとした食事もとれる。そのメリットを紫苑に提示して、彼にも了承してもらった。紫苑に聞いたんだけど、今住んでる部屋にもほとんど帰れていないみたいだし……荷物らしい荷物もないって言うし。今から人をやって、荷物を持って来てもらうことになってる。部屋は余ってるし、いい話だろう?」

「さすがパパね。とってもいいお話だと思うわ。ねぇ? 祐佑」

「そうですね……千陽路さまと私も、今朝丁度そのお話をしていたところでございます」

「そうなのか?」

「はい。千陽路さまも竹階さんが体を壊さないか心配されておられました」

「そうなんだ……ありがとう、千陽路ちゃん、祐佑さん」

 紫苑は疲れた顔をしてはいたが、笑みを浮かべてそう言った。

「今から朝食なんだけど、二人は食べて来たのか?」

「うん。祐佑が作ってくれたの」

「そうか。信州でも祐佑が食事作ってたって言ってたけど、お前はホントに何でもできるんだな」

 感心したように慎太郎は言った。

「恐れ入ります」

「紫苑。さっきも言ったけど、君はとにかく気を張りすぎだ。時には他人に任せることを覚えないといけない。まずはちゃんと食事をとること。今にも倒れそうな顔色じゃないか。ほとんど寝てもいないんだろう? 出された食事を全部食べるまで、この部屋からは出さないからな」

 慎太郎が愛を込めた叱責をする。彼が昨日口にした、考えていることと言うのは、どうやらこれだったらしい。

「……」

「……君の気持ちもわかるけど、倒れてしまうわけにはいかないだろう?」

「そうですね……」

 紫苑がうなずいた時に、襖の外から声がかかり、家人によって座卓に食事が並べられた。

「君のことだ。ちゃんと食べてなかったんだろう? 軽い物にしたから、食べなさい」

 紫苑は座卓に並べられた食事に目をやった。

 鮭の西京焼き。ほうれん草の胡麻和え。野菜の炊き合わせ。温泉卵。香の物。それから具だくさんの味噌汁に白米。

 紫苑がこのところまったく口にしていなかった、『ちゃんとした食事』だった。彼はこの頃ほとんどインスタントラーメンやコンビニ弁当などを主食にしてきた。

「……いただきます……」

 紫苑は小声で言って、箸を手にした。

 味噌汁をひと口口にして、上品な味付けだと思う。

 だが、こういう食事からしばらく遠ざかっていた紫苑は、どうやって食べればいいのかと戸惑っていた。

 鮭の西京焼きに箸を伸ばす。

 身をほぐし、口に運ぶ。

 何回噛めばいいんだろうか。

 ぎこちなく、それでも慎太郎たちに見守られながら、紫苑は何とか食事を完食した。

「ごちそうさまでした。おいしかったです」

 食後に出された茶を飲みながら、ようやく人心地がついたのか、紫苑は笑みを浮かべた。

 そして。

 紫苑はふらりとそのまま畳の上に転がってしまう。

 祐佑が何事かと慌てるのへ、慎太郎が手を上げて制した。

「眠ってるだけだ」

「眠って……」

 こんなに、唐突に?

「ほとんど寝てなかったみたいだな。軽い睡眠薬を味噌汁に混ぜてもらったんだよ」

 あっけらかんと慎太郎はそう言った。

「慎太郎さま……」

「こうまでしないとダメな状況になっていたって言うことだ。紫苑は何もかもを背負おうとしすぎる」

 慎太郎はきっぱりと言って、家人を呼び、紫苑を布団に運ぶように言った。

「竹階さんが無理をしていることは理解しているつもりだったのですが、ここまでとは……」

「パパは正しいことをしたと思うわ」

 千陽路の言葉はきっぱりとしていた。

「食事もしてない、睡眠もとってないんじゃ、近いうちに絶対に倒れていたと思うもの」

「ありがとう、千陽路」

「紫苑さんは自分の立場をもっと理解すべきよ。紫苑さんが倒れたら、誰も代われる人はいないんだもの。松岡家本家で暮らせば、少なくても人の目があるわ。きちんと食べて、やすんで……仕事をするのはそれからよ」

 千陽路は少なからず、紫苑が自己管理もできていないことに腹を立てているようだった。

「千陽路の言う通りだ。パパもそう考えて紫苑に松岡家本家に来てもらったんだ。自己管理ができないんだから、マネージメントをする人間が必要だからね」

 千陽路は、さすがはパパだと感心していた。

 一方で一番紫苑の側にいたはずの祐佑は、目を伏せる。これは、彼が助言すべきことではなかったのだろうか、という思いが彼の裡にはあった。

 その祐佑の心の裡を読んだように、慎太郎は口を開く。

「祐佑のせいじゃないさ。気にする必要はない」

「……はい……」

「ねぇ、パパ? 紫苑さんってどのくらい眠るの?」

「そうだなぁ……ホントに軽い睡眠薬なんだけどあの効きようだったんだから、もう限界ギリギリだったみたいだし……丸一日くらい寝てるかもしれないね」

「そう……それで少しでも回復してくれるといいんだけど……」

「そうだね。まぁ、松岡家本家に来たんだ。ちゃんと食事させて寝かせるから安心していていいよ」

「うん、パパ」

 慎太郎は千陽路を安心させるように笑いかけてやり、愛娘はすっかり安堵してうなずいた。

 血は繋がっていなくても、親子の絆は誰にも邪魔出来ぬ確固たるものがある。

 幼い頃から今に至るまで、千陽路にとっての慎太郎は『何でもできる凄いパパ』なのだから。

「二人はこれからどうするんだ?」

「どうって?」

「紫苑は多分一日寝てるだろうし……祐佑は紫苑のサポートが仕事だから取りあえず情報整理くらいしかやることないだろう? 千陽路が行かなきゃならない依頼もない。パパも今日は特に予定がないんだ。さて、珍しいことに三人ともぽっかり時間が空いたわけだ」

 慎太郎が柔らかくそう言った。

「え? じゃあ……」

 千陽路が期待を込めて慎太郎を見つめる。

「久しぶりに、三人で出かけようか」

「やった! 嬉しい!」

 慎太郎が千陽路の期待を裏切らずそう言ったので、彼女は小さな声を上げた。

「千陽路はOKで……祐佑はどうだ?」

「喜んでお供いたします」

 慎太郎の問いに祐佑は静かに応じた。

「やった! 三人でお出かけ!」

 千陽路は満面の笑みを浮かべてそう声を上げた。

「ねぇ、パパ。どこに行くの?」

「千陽路はどこがいい?」

「えっとねぇ……祐佑は?」

「千陽路さまのお出かけになりたいところにいたしましょう」

「そうだよ。千陽路が決めればいい」

 突然降って沸いた幸運に千陽路は悩んだ。

「どうしよう……嬉しいけど……困っちゃう……」

「ゆっくり考えればいいんだよ、千陽路」

「そうですよ、千陽路さま」

 嬉しい悩みを抱えた千陽路を、慎太郎と祐佑が優しく見守っている。

「パパは夜には松岡家本家に戻らなきゃいけないでしょう? そんなに遠いところまでは行けないし……食事? ショッピング? ああ、もう、どうしよう?」

 とことん困り果てて、千陽路は慎太郎と祐佑に目を向けた。

 そんな千陽路に笑いかけてやってから、慎太郎は柔らかく言う。

「取りあえず、ドライブにでも行こうか? 気分の向く方に行けばいい」

「うん!」

 千陽路は慎太郎の提案に喜んで同意した。

「では、私が運転を……」

「いや、タクシーを呼ぼう」

「タクシーでございますか?」

「祐佑は運転手じゃあないんだからさ。そうだろう? 千陽路」

「うん。ありがとう、パパ」

「当然じゃないか。祐佑は娘婿で、俺の友達だからな」

 慎太郎は祐佑に笑いかけた。

「慎太郎さま……」

「お前は俺の大事な友達だ。そうだろう?」

「……恐れ多いことでございます……」

 祐佑は控え目にそう返した。

「相変わらずだよ、お前は」

 慎太郎は苦笑を浮かべるしかなかった。

「今、丁度シーズンだから紅葉でも見に行こうか。神宮外苑のイチョウ並木とか」

「そうね、ステキだと思う」

 千陽路は嬉しそうにそう言った。

「祐佑はどう思う?」

「もちろん、異はございません」

「ホント?」

「ええ。私は千陽路さまがお喜びくださることこそが幸福なのですから」

「祐佑……」

 他人が言えば歯が浮くような言葉でも、何と言っても新婚であるから、新妻の千陽路は嬉しそうに夫の祐佑を見つめた。

 それを端で見せられている独身の慎太郎からすれば、眩しいような、照れくさいような複雑な思いだ。

 慎太郎の存在を忘れたように見つめあう二人に、彼は軽く咳ばらいをする。

 千陽路と祐佑は二人だけの世界からハッとしたように戻って来た。

「失礼いたしました、慎太郎さま」

「いいよ。幸せそうな二人が見られて良かった」

 言って、慎太郎は笑みを浮かべた。

 そして家人にタクシーを呼んでもらい、三人は晩秋の街へと繰り出し、多忙な日々の中にぽっかり生まれた休暇を楽しんだ。

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