第2話 浮ついた心

◇◆◇


効果は、唐突に現れた。


本当に、前触れもなく、警告もなく。

まるで世界の設定ファイルが、

こっそり書き換えられたかのように。


あの冤罪女の彼氏だった。


昼下がりの路地。

会社をクビになった人間らしく、

当てもなく歩いていた佐倉の前に、

偶然を装って立ちはだかった。


「昨日はよくも恥かかせてくれたな」


酒の匂い。

苛立ちを隠しきれない目。


逃げ道は、ない。


殴られる――

そう、確信した瞬間だった。


恐怖で身体が固まるよりも早く、

彼の拳が、反射的に動いた。


考えたわけじゃない。

力を込めた記憶も、狙った意識もない。


ただ、避けるように、押し返すように――

軽く、当たった。


ドンッ


乾いた音。


信じられないほど、軽い感触だった。


だが次の瞬間、

男の身体は、ありえない速度で宙を舞った。


まるで、

重力の存在を一時的に忘れたかのように。


背中から地面へ叩きつけられ、

鈍い音とともに、男は動かなくなった。


「……え?」


佐倉の喉から、間の抜けた声が漏れる。


周囲が騒然とする。

悲鳴、スマホ、駆け寄る足音。


彼は、ただ拳を見つめていた。


――自分が、やった?


救急車。

警察。

事情聴取。


医者の診断は、淡々と告げられた。


「脊椎に重い損傷があります。

後遺症が残る可能性は……高いでしょう」


血の気が引いた。


終わった、と思った。

今度こそ人生が、本当に。


だが――


「正当防衛が成立します」


警察官は、そう言った。


防犯カメラ。

証言。

相手が先に手を出していた事実。


すべてが、佐倉に都合よく揃っていた。


裁かれない。

罰せられない。

責められない。


その瞬間、脳裏に、

あの胡散臭い文字列がよぎる。


──勝率100倍。

──与えるダメージも100倍。


「……マジかよ」


震えながらも、

心の奥で、確かに興奮している自分がいた。


まるで俺が見てたアニメのヒーロー。


次の日。


スーパーのレジで、ポイントが跳ね上がる。


「え、100倍キャンペーン……

今日だけですか?」


店員が首を傾げる。

そんな告知は、

どこにもなかったはずなのに。


次に立ち寄ったパチンコ店では、

座った台が、

迷うことなく当たりを吐き出す。


一回。

二回。

三回。


勝率100倍。


外れる未来が、

最初から削除されているようだった。


ツキが、世界が、

露骨に彼に味方している。


気づけば、金は一気に膨れ上がっていた。


通帳の数字が、現実感を失っていく。

これが自分の人生のものだと、

脳が認識するのを拒んでいる。


昔から、バイクが好きだった。


雑誌で眺めるだけだった憧れ。

手の届かない象徴。


その日、佐倉は――

ハーレーを、一括で購入した。


営業マンの態度が変わる。

言葉遣いが変わる。

視線が変わる。


エンジンをかけた瞬間、

腹の底に響く振動。


それはまるで、

止まっていた人生が、再起動した音だった。


夜の道路を走る。


風を切る感覚。

ヘルメット越しの鼓動。


「俺……」


信号待ちで、ぽつりと呟く。


「……変われたんじゃないか?」


冴えない男。

代えのきく存在。

いてもいなくても同じだった人生。


それが、確実に上書きされている。


そこに、


――背後から。


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