俺だけ絶対100倍マン
αβーアルファベーター
第1話 怪しげなグミサプリ
◇◆◇
冴えない、という言葉は、
まるで彼の戸籍名のように張り付いていた。
三十代半ば。
独身。
実家とは疎遠。
スマホの連絡先は、
会社関係を除けば片手で余る。
佐倉 恒一――
彼は、自分が「物語の主人公」になれない人間だと、ずっと前から知っていた。
学生時代、何かで一番になったことはない。
運動も、勉強も、容姿も、性格も、
すべてが平均以下で、平均未満で、
しかし平均から外れるほどの個性もない。
「いてもいなくても変わらない」
それが、彼に与えられた人生の評価だった。
その日、会議室に呼び出されたのも、
ある意味では予定調和だった。
「佐倉君、ちょっといいかな」
上司の声は、
驚くほど事務的で、感情がなかった。
まるで、プリンターの紙詰まりを報告するかのような口調だった。
告げられた言葉は「リストラ」。
理由は「業績不振」。
よくあるテンプレートだ。
だが、佐倉は理解していた。
会社が傾いたとき、最初に切られるのは――
誰でも代わりはいい人間だということを。
突出した成果もなければ、
守ってくれる派閥もない。
上司にとっても、同僚にとっても、
「いても困らないが、
いなくなっても困らない存在」。
紙一枚の通知書を手にしたとき、
驚きはなかった。
あるのは、諦めに似た納得だけだった。
「……お疲れさまでした」
最後に交わした言葉すら、
彼の人生を象徴している気がした。
帰りの電車。
ラッシュアワーの満員車両は、
息苦しいほど人で溢れていた。
吊革に掴まることもできず、
押し流されるまま立つ。
誰かの肘が肋骨に当たり、
誰かの鞄が太腿に食い込む。
だが、そんなことはいつものことだった。
佐倉は、痛みにも不快感にも慣れていた。
――そのとき。
「きゃあっ!」
突然、甲高い悲鳴が車内に響いた。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
次の瞬間、視線が一斉に一点へ集まる。
「この人、触りました!」
若い女性が、
震える指で佐倉を指差していた。
時間が、止まった。
「……え?」
声が、出なかった。
喉が張り付いたように、言葉が詰まる。
「最低!」
「通報しろよ」
「よく平気な顔してるな」
正義感に火を点けた男たちの声。
スマホを構える人間。
蔑むような視線。
佐倉は必死に否定しようとした。
だが、言葉はどれも頼りなく、
かき消される。
「違います、僕は――」
誰も聞いていなかった。
冤罪だった。
本当に、何もしていなかった。
だが、一度貼られたラベルは、
簡単には剥がれない。
駅員に連れられ、警察に事情を説明し、
防犯カメラが確認される。
結果は「シロ」。
事態は収束した。
だが――
謝罪はなかった。
女性はそっぽを向き、
その隣にいた彼氏らしき男は、
最後まで佐倉を睨みつけていた。
「チッ……」
舌打ち一つで、すべてが終わった。
残ったのは、胸の奥に沈殿する、
黒い何かだけだった。
「……最悪だ」
誰に向けた言葉でもなく、
佐倉はそう呟いた。
翌日。
カーテン越しの薄い光で目を覚ました彼は、夢か現実か分からない感覚のまま玄関へ向かった。
ドアの前に置かれた、小さな段ボール。
差出人不明。
送り状には、
雑な文字で名前だけが書かれている。
中身は――
カラフルなパッケージの、グミサプリ。
《俺だけ絶対100倍マン サプリ》
《あなたの人生を、100倍に。》
胡散臭さが限界突破していた。
「……バカバカしい」
普通なら、迷わずゴミ箱行きだ。
詐欺か、悪質なドッキリに決まっている。
笑って捨てるはずだった。
だが――
なぜか、手が止まった。
昨日の出来事。
会社、電車、冤罪、視線。
脳裏に浮かぶのは、
何者にもなれなかった自分の人生。
「……100倍、か」
独り言のように呟く。
説明書きには、こうある。
《あなたの持つ“すべて”を、絶対的に100倍化します》
ふっと、笑いが漏れた。
「どうせ、0が100倍になっても0だろ……」
そう言いながら、袋を開ける。
甘い匂い。
拍子抜けするほど普通のグミ。
佐倉は、ためらいながらも――
一気に口に放り込んだ。
そして――
噛み砕いた。
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