第2話 顾家で、名前を呼ばれ続ける日

 顾承衡グー・チョンホンは、朝六時には執務室にいた。

 自宅にあるその部屋は、会社の自分の部屋と同じようなものだ。

 壁一面の本棚、整然と並ぶ書類、窓の外に広がる街の輪郭。

 彼にとって、仕事は“役割”であり、同時に“秩序”だった。

 ノートパソコンを閉じたとき、ちょうどドアがノックされる。

大哥ダーガ、朝食できたよ」

 穏やかな声。

「入れ」

 顾承和グー・チョンホーが顔を出す。

 エプロン姿が妙に似合うのは、本人が多分それを気にしていないからだ。

「今日は早いね」

「いつも通りだ」

「うん、そうだね」

 承和はそれ以上突っ込まない。

 それが、彼の距離感だった。

 ダイニングには、すでに顾予和グー・ユーホーがいた。

 ソファに寝転がり、タブレットでデザイン画を眺めている。

「大哥、おはよ」

「……寝転がりながらするな」

「あと五分」

「五分で片付けろ」

「はーい」

 返事は軽いが、結局きっちり五分で起き上がる。

 それを承衡は、無意識に見ていた。

 朝食の席。

 父・顾延山グー・ティンシャンは新聞を畳み、母・林婉清リン・ワンチンは穏やかに微笑む。

「今日も皆、忙しそうね」

「大哥はいつも忙しいよね」

 予和が言う。

「仕事だからな」

「趣味みたいなもんでしょ」

 承衡は一瞬、言い返しかけてやめた。

 承和が、さりげなく話題を変える。

「予和、午後の打ち合わせ、例のブランドだよね?」

「うん。新ラインのロゴ」

「無理しすぎるなよ」

「大丈夫。好きな仕事だし」

 その言葉に、承衡は微かに眉を動かす。

“好きな仕事”。

 それは、彼にはよく分からない感覚だった。

 仕事はやるものだ。

 できるからやる。

 任されるから背負う。

 それだけで、十分だった。

 食事が終わると、承衡はジャケットを手に取る。

「承衡」

 呼び止めたのは、母だった。

「今日も、あの件……」

「……ああ」

「あの子のこと、忘れられないの」

 承衡は、一瞬言葉に詰まる。

 忘れる。

 そんな選択肢は、最初から存在しなかった。

「分かっている」

 短く答え、玄関を出る。

 車の中で、承衡はふと視線を落とす。

 グローブボックスの中に、小さな封筒がある。

 ——遥予。

 それは、声に出されることのない名前。

 失踪した親族の名。

 公式には「消息不明」。

 だが、顾家では違った。

“まだ、どこかにいる”。

 それが、誰も口にしない共通認識だった。

 会社に着くと、承衡はすぐに仕事へ戻る。

 だが、ふとした瞬間に、視界の端に影がよぎる。

 ——もし、ここにいたら。

 どんな顔をしていただろう。

 何を考え、何を言わなかっただろう。

「大哥」

 承和の声で、思考が引き戻される。

「会議まで、時間がありません」

「分かっている」

 立ち上がりながら、承衡は言った。

「承和」

「何?」

「……いや、いい」

 言葉を飲み込む。

“優しくする”という選択肢を、

 彼はまだ、正しく理解できていなかった。


 その夜。

 顾家のリビングは静かだった。

 予和は床に座り、スケッチブックに線を引いている。

 承和は、その横でコーヒーを淹れていた。

「今日さ」

 予和が、何気なく言う。

「夢に、知らない人が出てきた」

「知らない人?」

「うん。でも、なんか……大事な人っぽくて」

 承和は、手を止める。

「顔は?」

「ぼんやり。でも、すごく静かだった」

 その会話を、承衡は廊下から聞いていた。

 足を止める。

 胸の奥が、微かに痛む。

 ——静かな子。

 理由のない確信。

 承衡は、リビングに入らず、踵を返した。

 まだ、会う準備ができていない。

 だが、もう一度——

 失ったものに手を伸ばす覚悟は、少しずつ、形を持ち始めていた。

 遠くにいる誰かへ向けて。

 名を呼ばずとも、確かに向けられている視線が、そこにはあった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

2026年1月13日 21:00

向光而帰ー光に向かいて帰るー 十依博(旧:TUGUMI) @UINA

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ