向光而帰ー光に向かいて帰るー
十依博(旧:TUGUMI)
1章
第1話 沈家で、光を待たなくなった日
だがそれは、安らぎのある静けさではない。
誰かが怒鳴るわけでも、物が壊れるわけでもない。
ただ、空気が重く、動きにくい。
遥予は、目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
長く眠る癖は、とうの昔になくなっている。
——早く起きていれば、邪魔にならない。
それが、沈家で身についた習慣だった。
布団を畳み、音を立てないように部屋を出る。
廊下の床板が鳴らない場所を、自然と覚えていた。
キッチンでは、すでに母・
「……おはようございます」
声は、低く、控えめに。
秀仪は一瞬こちらを見たが、すぐに視線を戻した。
「そこ、立たないで」
それだけ。
自分の存在が、動線の邪魔にならない位置。
兄たちはまだ降りてきていない。
だが、気配はある。
——起きている。
彼は遥予を見るたび、眉をひそめた。
理由は、分からない。
だが理由を探すことも、いつの間にかやめていた。
朝食の席。
父・
競文が座り、
末弟の
遥予の席は、端だ。
「……いただきます」
返事は、ない。
箸を取るタイミングも、皆の様子を見てから。
一口目を口に運ぶまで、少し時間がかかる。
「まだ食べてるのか」
競文の声。
「遅いな」
遥予は、慌てて首を振る。
「す、すみません」
「謝るくらいなら、さっさとしろ」
志言が、淡々と付け足す。
昱辰は、面白そうに笑った。
「兄貴たち、そんな言い方しなくてもさ」
一瞬、遥予は安心しかける。
だが、続く言葉でそれは消えた。
「どうせ、何も考えてないんだろ」
遥予の手が、止まる。
——違う。
考えている。
考えすぎるほど、考えている。
でも、それを口にすることはできない。
「……」
沈黙。
国梁は、新聞から目を上げない。
誰も、遥予を見ていない。
だが、誰よりも強く、存在を否定されている。
部屋へ向かう道すがら、遥予はふと思う。
——自分がいなくなったら。
沈家は、少し静かになるだろう。
邪魔な存在が消えるのだから。
その考えに、恐怖はなかった。
ただ、諦めがあった。
——ここで期待するのは、無駄だ。
——必要とされることは、ない。
家に帰ると、また同じ空気が待っている。
同じ言葉。
同じ視線。
夜、部屋で一人になると、ようやく呼吸が深くなる。
遥予は、天井を見つめた。
幼い頃の記憶は、曖昧だ。
けれど、なぜか分かる。
——ここは、本来いる場所じゃない。
理由はない。
根拠もない。
ただ、心がそう言っている。
だが、その声を信じる力も、もう残っていなかった。
遥予は、目を閉じる。
明日も、同じ一日が始まる。
そう思いながら。
このとき彼は、まだ知らない。
遠くに、自分を探し続けている家族がいることを。
そして——
この“何も期待しない心”こそが、後に彼を守り、同時に苦しめる鎧になることを。
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