第5話 ピンヒールの戦士









「戦う……?どうやって?」

「私の裏アカウント、知ってるでしょ?シニカルスプーン」



「え?あのフォロワー数が万人越えの毒舌グルメ垢が?!あれ綾だったの?」

 寧々ちゃんに教えられこともあるけれど、SNSに少し疎い自分でも知っている有名アカウントの中はまさか枕元の人……。

 陽子が素っ頓狂な声を上げた。


「ええ、まあ。若い頃仕事のストレス発散に、本当に美味しい店とダメな店を忖度なしで書き殴ってたら、いつの間にか増えてたの」

 綾は涼しい顔で画面を操作する。

「今回は私が書くんじゃない。ネットの海から、埋もれた真実をサルベージするの」


 綾は慣れた手つきで、陽子の店名と関連ワードでエゴサーチをかけ始めた。

 グルメサイトの点数だけじゃない。個人ブログ、SNSのタグ付け投稿と独り言。広告ディレクターとして培ったリサーチ能力をフル稼働させる。宣伝垢を除外し、純粋な個人の感想だけを抽出する。



「……あった」

 数分後、綾の指が止まった。


 フォロワー数わずか30人の、地味な一般人のアカウント。三日前の投稿だ。

『近所のBistro Soleil、また行っちゃった。シェフが一人で頑張ってるんだけど、待ってでも食べる価値があるポトフ。味付けが優しくて泣ける』


 さらに遡ると、別の投稿も見つかった。

『混んでて料理遅かったけど、最後にシェフが「お待たせしてすみません」って焼き菓子くれた。その心遣いが嬉しかった。また行きます』


 どちらも「いいね」は一つもついていない。ネットの海に沈んでいた、小さな、けれど温かい声。


「え、これ……」

 陽子が画面を覗き込み、息を呑んだ。


「見て。ちゃんと見てくれてる人はいるのよ。数は少なくても、グルメガネの百倍、信頼できる言葉たちがね。ただ、声が小さくて届いてないだけ」


 綾はシニカルスプーンのアカウントで、そのつぶやきを引用リポストした。

 数万人のフォロワーを持つアカウントの影響力を使って、この小さな真実にスポットライトを当てる。


 添えた言葉は一言だけ。

『本物は、待つ時間さえもスパイスに変える。ノイズに惑わされず、自分の舌で確かめるべき名店』


 投稿ボタンを押した数秒後、早くも「いいね」がつき始める。


「ほら、見て。『スプーンさんがわざわざ掘り起こす店なら間違いない』ってコメントも来てる。悪意あるデマには、埋もれていた真実に拡声器をつけて対抗するのがSNSの鉄則よ」


 陽子の表情が、少しだけ柔らかくなった。

 自分のプロとしてのこだわりが、ちゃんと届いている人には届いていた。その事実を綾が見つけ出し、可視化してくれたことが、何よりも嬉しかった。



「綾は、私の最強の用心棒だね」

「当然でしょ。陽子の敵は私の敵だから。グルメガネなんて、明日には腹痛でトイレから出られなくなればいいの」

「ちょっと、それはダメ。私の料理のせいにされるかも」

「何日前でしょう?使用期限切れの下剤を入れてたの?」

「ぷっ」


 綾は陽子を抱き寄せ、その頭を撫でた。デジタル暗殺者の逆暗殺はこれで完了だ。

 でも、綾は知っていた。陽子の不安の根源は、グルメガネではなく、もっと物理的な限界にあることを。

 陽子の手が荒れていること。背中が凝り固まっていること。マヨネーズマシマシのカップ焼きそばにまで手を出したこと。

 それを、これ以上見過ごすわけにはいかない。



「ねえ、陽子」

「ん?」

 綾は少し躊躇ってから、切り出した。


「私ね、今の面倒くさい案件はようやく終わる。来週からは定時で上がれそうなの」

「うん、よかったじゃん。お疲れ様」


「だからさ」

 綾は陽子の手を取り、その荒れた指先を自分の指で絡めた。

「夜と日曜、寧々ちゃんがいない時お店手伝いに行くよ」


「え?」

 陽子が目を丸くして顔を上げた。

「手伝うって……綾、疲れてるでしょ? ダメだよ」


「ダメじゃないよ。一昨日も言ったけど、皿洗いとドリンク出しくらいならできるし、陽子のメニューだって全部覚えている。私、昔カフェでバイトしてたし、手際だけはいいから」

「でも……」

「陽子が潰れたら、私が困るの。美味しいご飯が食べられなくなるし、隣で陽子が笑ってないと、私のQOLが著しく低下するの」


 綾は真剣な眼差しで陽子を見つめた。

「これは陽子のためじゃなくて、私のための防衛策。自己中だからね~ワンオペが無理なら、ツーオペにすればいいじゃない。新しい人が見つかるまでの繋ぎでいいからさ。一緒に戦わせてよ」


 陽子の目が潤んだ。

 孤独な戦場だと思っていた厨房に、最強の援軍が来てくれる。その事実だけで、肩の荷が半分になった気がした。


「給料、出せないよ」

「身体で払ってもらいます。高いよ」

「ふふっ、わかった。じゃあ、雇わせていただきます。佐伯さん」

「はい、オーナーシェフ」


 二人は顔を見合わせて笑った。

 重苦しかったリビングの空気が、ふわりと軽くなった。


「よし、契約成立! じゃあ今日はもう寝よう。明日から特訓だよ、新入りさん」

「望むところだわ。タケシより優秀なところを見せてあげる」


 その夜、ベッドの中で、二人は手を繋いで眠った。陽子の荒れた指先に、綾の滑らかな指が絡みつく。

 口コミサイトの星の数なんてどうでもいい。隣に、一緒に戦ってくれる人がいる。その事実が、何よりも陽子を安眠へと誘った。


 暗闇の中で、陽子は小さく呟いた。

「ありがとう、綾」


 その声は、もう震えていなかった。



 ***



 翌週金曜日の夜七時。


 『Bistro Soleil』のドアベルが鳴り止まない。

 週末の書き入れ時。席は八割くらい埋まっており、店内は活気と、料理の芳ばしい香りと、客たちの笑い声で満ちていた。

 ここ最近、この光景は陽子にとって喜びであると同時に地獄だったはず。オーダーが滞り、洗い物が山積みになり、客の視線に冷や汗をかく時間帯。


 しかし、今夜は違った。厨房の中でフライパンを振る陽子は驚くほどスムーズに動けていた。

 なぜなら、ホールには最強の援軍がいるからだ。


「いらっしゃいませ。 ご予約の田中様ですね。お待ちしておりました」


 よく通る、鈴を転がすような明るい声。

 綾だ。


 彼女はいつものオフィス仕様のメイクに、白いシャツと黒のタイトスカート、そして腰には店の黒いサロンエプロンを巻いている。その姿はドラマに出てきそな敏腕セルヴーズそのものだ。


「こちらのお席へどうぞ。……あ、お荷物お預かりしますね。コートもハンガーにお掛けします」

 綾の動きには無駄がない。客を席に案内し、流れるようにメニューを差し出す。


 その時、入り口のドアが遠慮がちに開いた。

 入ってきたのは、仕事帰りと思しきスーツ姿の女性客だった。少し疲れた顔をしていて、スマホを片手にキョロキョロしている。


「いらっしゃいませ。一名様ですか?」

 綾がすぐに駆け寄る。

 女性は綾を見て、少し安心したようにスマホの画面を差し出した。


「あ、あの……予約してないんですけど、入れますか? この投稿を見て、どうしても来たくて……」


 女性のスマホ画面に表示されていたのは、モノクロのスプーンのアイコン。シニカルスプーンが引用リポストした、あの埋もれていたレビューだった。

 『待ってでも食べる価値がある』という一文が、画面の中で光って見えた。


 綾は心の中で小さくガッツポーズをした。

 ――見たか、クソグルメガネ。これが言葉と真実の力だ。


 けれど、顔には完璧な営業スマイルを張り付けたまま、綾は優雅に頷いた。

「ようこそお越しくださいました。カウンター席でよろしければ、すぐにご案内できます。……今のお客様にぴったりの、温かいスープをご用意しておりますよ」


「お願いします!」

 女性客はパッと顔を輝かせた。


 席に通し、オーダーを通す。

「シェフ、新規一名様。ポタージュと、メインは鴨のコンフィ」


「ウィ! ありがとう、綾」

 厨房から陽子の弾んだ声が返ってくる。

 

 ホール作業はホールスタッフに任せ、陽子は料理に集中して、最高の状態で火を入れ、美しく盛り付ける。

 これが、本来の『Bistro Soleil』の姿だ。




 しばらくして、件の女性客の前に陽子のカブポタージュが運ばれた。

 一口飲んだ瞬間、女性の肩から力が抜け、深いため息が漏れたのを綾は見逃さなかった。その表情は、五年前、雨の日にここに転がり込んだ誰かさんとそっくりだった。

 そして、スープで胃が温まった絶妙なタイミングで、綾がメインディッシュを運んできた。


「お待たせいたしました。骨付き鴨もも肉のコンフィでございます」

 綾が皿を置いた瞬間、パチパチと脂が爆ぜる微かな音とともに、ローズマリーと肉の焼けた濃厚な香りがふわりと立ち上り、女性客の鼻腔をくすぐったのが分かった。

 じっくりと低温の油で煮込まれた後、皮目をパリッと焼き上げられた鴨肉は、黄金色に輝いている。


「熱いのでお気をつけください」

 綾の言葉に頷き、女性客はおずおずとナイフを入れた。


 パリッ。

 黄金色に焼き上げられた皮が、軽快で小気味よい音を立てる。対照的に、中の肉は低温の油で何時間も煮込まれているため、ナイフの重みだけで繊維がほぐれるほど柔らかい。

 湯気とともに現れた薄桃色の断面を見た瞬間、女性客の喉がゴクリと鳴った。


 切り分けた肉を付け合わせのポテトと一緒に口へ運ぶ。咀嚼した瞬間、彼女の目が見開かれた。

 カリカリの皮の香ばしさ、凝縮された鴨の強い旨味、そして肉汁を吸ったポテトのホクホク感。それらが仕事の疲れを物理的に癒やしていくのが見て取れる。


「……美味しい」

 女性客が独り言のように漏らしたその言葉に、嘘やお世辞は一切混じっていなかった。ただ純粋な感動だけがそこにあった。



 よし、勝った。

 綾は心の中で勝利宣言をし、次のお客様の元へと向かった。




 下げたお皿を厨房に戻す時、綾は小声で「新規のお客様、私の投稿を見て来たよ。ポタージュもコンフィも、最高だって」と陽子に耳打ちをした。


「本当? よかった……」

 陽子は安堵の表情を浮かべた。


 有名垢の拡散力は確かにすごかった。それ以上に、綾は陽子の料理がその期待を裏切らなかったことが何よりも誇らしかった。


 しかし、その有名垢を有するスーパーアルバイトにも重大な弱点があったことを、陽子は閉店後に知ることになる。




***



 22時。

 最後の客を見送り、看板を「CLOSE」にひっくり返して店に戻ったその瞬間、綾がその場に崩れ落ちた。


「……あ、綾!?」

 陽子が慌てて駆け寄る。

 綾は玄関のマットの上にへたり込んでいた。呼吸が荒く、額には玉のような汗が浮いている。


「だ、大丈夫? どこか痛い?」

「……足が」

 綾が掠れた声で呻く。

「足が……棒を超えて、化石になった」


 綾の足元を見て、陽子は息を呑んだ。

 7センチのピンヒール。

 綾は仕事帰りにそのまま店に来たため、美脚効果抜群だが機能性皆無のパンプスで三時間半ぶっ通しでホールを駆け回っていた。コンクリートの床の上を。

 しかも昼間もずっとそのパンプスを履いていたはず。


「バカ! なんで靴履き替えなかったの!?」

「フラットパンプス持ってきたけど、店についた時もうお客さん何人いたから、慌てて……」

「靴を履き替える時間なんて大してないのに」


 陽子は綾の靴を脱がせた。足の指先は赤く腫れ上がり、ふくらはぎはパンパンに浮腫んでいる。

「うわ、これ酷い……立てる?」

「無理。生まれたての子鹿だと思って」

「子鹿はもっと可愛いよ。これは負傷兵だよ」


 陽子は綾を抱き起こそうとしたが、綾は腰まで抜けているようで、力が入らない。

 日中のデスクワークによる疲労に加え、慣れない夜の肉体労働、そして極度の緊張感。アドレナリンが切れた今、綾のHPはマイナスに振り切れていた。


「ごめん、陽子。タクシー呼んで」

「当たり前でしょ!歩かせられるわけない」


 店から家までのそう遠くない距離でも、想定外の出費は出費だ。

 タクシーの後部座席で、綾は陽子の肩にもたれかかり、死んだように眠っていた。

 陽子は綾の寝顔を見ながら、胸が締め付けられるような罪悪感に襲われた。私のために、私の店を守るために、こんなになるまで無理をして。


 私、何やってるんだろう……。恋人をボロボロにしてまで、店を続ける意味あるのかな。

 街灯の光が綾の疲れた顔を照らしては過ぎ去っていく。

 陽子は綾の手をそっと握りしめた。


 


 

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そのスープを冷まさないように だるい海氷 @YururiYuri

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