第4話 星一つの悪意


 



 


 背徳な夜食から生まれたむくみがようやく取れた水曜日早朝のこと。

 綾はリビングの中央に仁王立ちになり、革命軍のリーダーが民衆に決起を促すような厳かな口調で宣言した。


「聴け、我が愛しい恋人よ。家事の効率化こそが、我々のアラサーライフのQOLを救う唯一の鍵だ」


 キッチンでコーヒーを淹れている陽子は手を止めずに、やれやれという顔で振り返った。

「……で? 今度は何を買ったの?」


 綾のこの演説口調が出る時は、大抵ろくでもないものを衝動買いした後だ。

 前回は「睡眠の質を最大化する」と言って、謎の形状の枕を買ってきた。結局、「頭が固定されて金縛りにあったみたい」と綾が泣きつき、今ではソファのクッション兼陽子の足置きになっている。

 前々回は「柔軟性を向上させる!」と言って、バランスボールを買ってきたが、綾が座った瞬間に転げ落ちて腰を打ち、三日でゴミ置き場行きとなった。


「今回は自信作よ。紹介します、我が家の新同居人、『タケシ』です」


 綾がバッと手を広げて指差した先には、充電ドックに鎮座する、黒く光沢のある円盤状の物体があった。

 最新のハイエンドロボット掃除機だ。

 AI搭載、3D障害物回避機能、自動ゴミ収集機能、水拭きモップ機能付き。お値段は、陽子の店のディナーコース二十人分くらいする代物だ。


「……タケシ?」

「そう。強そうでしょ。どんな汚れにも屈しない、不屈の闘志を感じる」

「なんでスタイリッシュな家電に頑固親父みたいな名前つけるのよ。『ルンちゃん』とかでいいじゃん」

「甘いな、工藤さん。掃除は戦争よ。可愛い名前じゃ埃と我らの抜け毛の巣という敵に舐められるわ」


 綾はソファに座り込み、スマホの専用アプリを操作してタケシを起動させた。

 ピロリロリン♪ という軽快な電子音が鳴り、黒い円盤がドックから滑り出る。ウィーン、という力強い駆動音がリビングに響く。


「タケシ、おはよう。今日は顔色が艶やかだね。黒光りするボディが素敵だよ」

 綾はコーヒーを片手に、愛犬を愛でるような慈愛に満ちた声で話しかけた。

 陽子は呆れてため息をついた。


「綾、友達いないの?」

「失礼な。これは『彼』との対話なの。タケシは文句一つ言わずに床を磨いてくれる、我が家のChief Souji Officer!CSO!最高掃除責任者よ。陽子だって、少しは感謝しなさい」


 その言葉が、陽子の胸にチクリと刺さった。

 店でワンオペをなんとかこなしているが、身体と心の疲労は蓄積する一方。そして綾もまだ繁忙フェーズから抜け出しきれていない。最近二人共に忙しく、家事を疎かにしているところはある。だから、タケシを導入して、家の中で「機械に任せて楽しよう」と綾なりの気遣いがあった。

 けれど、陽子はなぜか無邪気に喜ぶ綾の姿が少しだけ眩しく、そして疎ましく見えた。


「はいはい。じゃあ今日の朝ごはんもタケシに作ってもらえば? そのブラシでお味噌汁でもかき混ぜてもらったら?」

 いつものような冗談っぽい陽子の言葉に、ほんの少し棘があった。


 綾はスマホの画面から目を離さずに、涼しい顔で答える。

「タケシは掃除のスペシャリストだから、料理は専門外なの。適材適所よ。朝ごはんは陽子スペシャリストにお願いします。私はフレンチトーストがいいな」

「……調子いいんだから」


 陽子はキッチンに戻り、フライパンを火にかけた。卵を割る音が、カンッ!と少し乱暴に響く。


「機械はいいよね、電池が切れたら充電すればいいし。私は充電ドックに戻る暇もないのにな。しょぼい配膳ロボットじゃなくて、人型ホールスタッフロボット早くでないかな……」

 バターが溶ける甘い匂いの中で、陽子は独りごちた。





 その夜、仕事が終わって早めに帰宅した綾を出迎えたのは、「おかえり」という温かい声でも、出汁の香りでもなく、深い深い沈黙だった。

 二人の時間を作るため、水曜日陽子の店はランチのみの営業だった。この時間なら、彼女はいつも晩御飯を準備して、リビングでテレビを観ながら綾の帰りを待っている。


 しかし、リビングの照明は消されている。

 ソファの上で、陽子が珍しく背中を丸め、石像のように固まってスマートフォンを凝視していた。スマホのライトだけが陽子の顔を下から青白く、ホラー映画のように不気味に照らしている。


「ただいまー。陽子? 何してんの。電気代の節約? 」


 綾がバッグを置き、リビングの明かりをつけても、陽子は反応しない。

 その集中力は凄まじく、暗い沼の底を見つめるようなものだった。瞬きすらしていないように見える。

 普段なら「おかえり、冷蔵庫にプリンあるよ」とか「ドライヤーしてあげるから早く風呂入りな」くらいの反応があるはずなのに。



「陽子?」

 綾は靴下を脱ぎ捨てて近づき、隣に座り込んだ。そっと陽子の手からスマホを抜き取る。


「あ、ちょっ、返して」

 陽子の声は掠れていた。


「何見てるのよ。浮気相手とのメッセージ?元カノのSNSをパトロール中?」

「違うってば。そんな元気ないよ……」


 綾が画面を覗き込む。そこには某有名グルメ口コミサイトのレビューページが表示されていた。

 陽子の店『Bistro Soleil』のページ。

 総合評価は3.6というちょうどいい高評価をキープしているが、最新の投稿に星1つが輝いている。夜空の一等星のように、残酷な輝きを放っている。


 投稿者名:グルメガネ

 タイトル:一見さんお断りの常連サロン

『評判がいいと聞いて行ったが、最悪だった。

 店主はカウンターの常連客とばかり親しげに談笑していて、こちらのテーブルには水さえ注ぎに来ない。

 料理の提供順序もめちゃくちゃ。後から来た常連の料理が先に出ていた。

 身内だけで盛り上がりたいなら、看板を下ろして会員制でやればいい。

 金を払って疎外感を味わいたいドMな方以外にはおすすめしません。』


 読み終えた瞬間、綾の表情が一変した。何か言おうとしたところ、隣から小さい声が聞こえて来た。


「今日午後店で仕込んでいた時電話があったの」

 陽子はスマホの画面を暗くして、膝の上で握りしめた。

「金曜の夜に予約してくれてた新規のお客さん。『ネットの口コミで、常連贔屓がひどい店って書かれてたんですが、大事な記念日なので、肩身の狭い思いはしたくないんです』って……結局、キャンセルされちゃった」


 陽子は「仕方ないよ」と笑おうとしたが、その口角は引きつっていた。


 綾の中で何かが弾けた。

 愛する恋人の店を、自分が世界一美味しいと思っているあの場所をこんな薄っぺらい言葉で汚され、実害まで出ている。怒りで全身の血が沸騰する音が聞こえた気がした。湯上がりの肌が一気に熱くなる。

 綾のスイッチが切り替わった。「恋人」から、「戦闘用ロボット」へ。


「許せない」

 綾の声が低く、ドスの効いた低音で響く。


「こいつ、何様? 神様気取り? まずグルメガネって名前からしてセンスないわ。アイコンもフリー素材のラーメンだし」

 綾は身体を陽子に寄せ、片手で陽子の背中を優しくさすりながら、もう片方の手即座に自分のスマホを取り出し、冷徹に操作し始めた。



「プロファイリングしたわ。こいつ、近所のイタリアンにも星1つけてる。『パスタの茹で加減が自分の好みじゃない』とか書いてるわ。アルデンテも知らないのね。文句言いたいだけのクレーマー常習犯よ。自分の舌じゃなくて、ストレスの発散場所を探してるだけの卑怯者」

 綾は陽子に画面を見せながら、早口でまくし立てた。その間、彼女の手も止まっていない。画面をタップする指の音だけが、小気味良いリズムで響く。


「陽子、気にする価値ないわ。こんなの、社会のバグ。今、運営に通報文を作成した」

「えっ、通報って……」

「任せて。『事実無根の誹謗中傷が含まれており、営業妨害および名誉毀損に当たる可能性がある』という文言を入れて、法的措置も辞さない構えを見せるの。そうすれば運営もリスク回避のために削除を検討せざるを得ない。これが大人の喧嘩の作法よ」



「ありがとう、綾。でもさ……」

 陽子は綾の肩に頭をもたせかけ、力なく呟いた。


「ん?」

 綾は操作の手を一瞬止め、陽子の顔を覗き込んだ。



「……贔屓してるように見えたのは、私のせいなんだよね」

 陽子の声には、深い諦めと自己嫌悪が混じっていた。


「常連さんと談笑なんてしてないよ。ただ、今日のおすすめ食材の説明をしてただけ。水だって、気づいてすぐ注ぎに行ったのに……。料理の順番も、あっちのテーブルは煮込み料理で、常連さんはすぐ出る前菜だったから、当たり前の手順で出しただけなのに」

 陽子は悔しそうに唇を噛んだ。

「でも、待たせているのは事実だし……私に余裕がなくて、ムスッとして見えたのかもしれない。一言、『順番前後します』って声をかける余裕さえあれば防げたのに」


 真実は、もっとやるせないものだった。

 プロとして最高の状態で料理を出そうとした判断が余裕のなさゆえに説明不足となり、「贔屓」という最悪のレッテルに変換されてしまった。真面目な陽子だからこそ、その誤解はナイフのように深く刺さっていた。


 陽子の瞳から、涙が一粒こぼれ落ちた。

 綾はすぐさまスマホをテーブルに置いた。そして、両手で陽子の頬を包み込み、正面から向き合った。


「陽子、聞いて」

 綾の声は、さっきまでの戦闘モードとは違う、低く落ち着いたトーン。


「陽子は何も間違ってない。一番美味しいタイミングで出すのがシェフの仕事でしょ? それを勝手な解釈で悪意に変える奴の方がおかしいの」

 綾の親指が、陽子の涙を拭う。

「陽子の料理は美味しい。そして陽子は誰よりもお客さんのことを考えてる。それは絶対的真実。このクソグルメガネの悪意ごときで、陽子の努力や才能が否定されていいわけがない」


 再びスマホを手に取り、今度綾は少し悪戯っぽく笑った。


「だから、私は戦うよ」







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