第3話 深夜、背徳のカップ麺
そこから二日後、月曜日の深夜一時。
都市の喧騒が眠りについても、広告代理店の夜は終わらない。炎上案件の火消しはどうにかなったが、今度は別のクライアントからの無茶な変更という名のテロリズムに対応していた。
火消しよりはマシだし、もうすぐ終わるしと、綾の心に余裕は戻っている。
タクシーで帰宅した綾は玄関のドアを開けた瞬間、奇妙な違和感を覚えた。リビングの明かりは消えて、寝室も静かだ。陽子はもう寝ているはずの時間。
しかし、家の空気が何やら騒がしい。廊下の奥、キッチンの方から「ゴーッ」という低い音が聞こえる。換気扇が強運転で回っている音。
そして何より、漂ってくる匂い。
綾は鼻をクンクンする。
これはハーブの爽やかな香りではない。赤ワインの芳醇なアロマでも、煮込まれたブイヨンの深みでもない。もっと人工的で、深夜の空腹中枢をダイレクトに殴打してくる、あの茶色スパイシーな香り。
まさか。
綾はバッグを音もなく床に置き、靴を脱いだ。忍び足で廊下を進む。刑事ドラマの捜査員のように壁に張り付き、キッチンの入り口から中を覗き込む。
暗闇の中、レンジフードのライトだけが点いている。うす暗いライトに照らされたその場所に、陽子の丸まった背中があった。
彼女はシンクに寄りかかり、四角いプラスチック容器を抱え、一心不乱に何かを啜っていた。その背中は、いつもの堂々としたシェフの背中ではなく、どこか追い詰められた、あるいは盗み食いが見つかるのを恐れる小動物のように見えた。
ズルズルッ、と豪快な音が静寂を切り裂く。
「何してるの」
「ぶっほぉッ!?」
背後から声をかけると、陽子は漫画のように肩を跳ねさせ、盛大にむせ返った。
容器を取り落としそうになりながら、なんとかキャッチして慌てて振り返る。その口元にべったりと茶色いソースがついていて、手にあるのは、コンビニで売っている大盛りのカップ焼きそば。しかもパッケージに「からしマヨネーズ増量中」が書いてあり、まさにカロリーの塊。
綾は腕組みをして、ジト目で恋人を見下ろした。
パリッとしたスーツ姿の自分と、ヨレヨレのパジャマ姿で口元を汚したシェフ。
「ビストロのオーナーシェフが、深夜に換気扇の下でコソコソとインスタント食品を啜る。どういう風の吹き回し? お店の経営そんなに傾いてて、食材も買えないの?」
「ち、違うのよ綾! 誤解しないで! これは研究!」
陽子は口元のソースを手の甲で拭いながら、真剣な顔で言い訳を始めた。
だが、目が泳いでいる。
「研究?」
「そう! あのね、毎日繊細なフォンドボーとか、季節の野菜のポタージュとか作ってるでしょ? そうすると、舌の感覚が繊細になりすぎて、こう、大衆の感覚と乖離してくるというか……」
「ほう」
「だから時々、こうやってガツンとした化学調味料の味を入れて、味覚の原点、つまり大衆が求める快楽の数値を再確認しないといけないの。これは舌のキャリブレーション作業で……」
「よくもまあ、スラスラと嘘を」
綾はじりじりと距離を詰める。
陽子の嘘はいつだって詰めが甘い。キャリブレーションと言うなら、なぜマヨネーズを全量投入したのか。それは味覚の調整ではなく、ただの快楽の追求だ。
しかし、よく見れば陽子の目の下には薄いクマがあり、頬も少しこけているように見える。何より、食べる時間も食べ方も尋常じゃなかった。味わっているというよりは、身体が貪っているような、切実な食欲。
綾の表情が少し緩んだ。
「陽子、ちゃんとご飯食べてる?」
その問いに陽子は一瞬動きを止め、視線を逸らした。
「食べてるよ、つまみ食いくらいは」
「つまみ食いは食事じゃないでしょ」
「……うん。まあ、今日はちょっと忙しくて、夜食べる時間なくて、反動が出ちゃっただけ」
陽子はへらっと笑って誤魔化した。
ワンオペの日、陽子にまかないを食べる時間がなくなっていた。仕込み、接客、調理、会計、片付け。座る暇さえない。営業終了後、疲れ果てて何も作る気になれず、帰りのコンビニで一番カロリーが高くて、一番頭の悪い食べ物を選んだ。シェフとしてのプライドよりも、肉体的な餓えと、脳が求める糖質と脂質への渇望が勝った結果。
綾もまた、連日の激務で疲弊していて、今の陽子の気持ちは痛いほどわかる。
丁寧な暮らしなんて、体力が余っている人間の道楽。限界を迎えた三十代に即効性のあるエネルギーが必要だ。
夕食はエネルギーバーだけで済ませた綾の腹が、このタイミングで「グゥゥゥ」と情けない音を立てた。
「……あ」
綾は恥ずかしげに目を伏せた。
「綾もお腹空いてるの? 冷蔵庫に私が作った特製野菜スープあるから、そっち温めて飲みなさい。身体にいいし、消化もいいよ」
「ずるい」
綾は一歩踏み出した。
「陽子のスープは美味しいけど、今の私は、その体に悪い粉末ソースの爆発力を求めてるの」
「ダメ。これは私の深夜の密かな楽しみなんだから。あとちょっとで食べ終わるし」
「独り占めする気?」
陽子が容器を隠すように背を向ける。
子供か。
無言で陽子の背後から抱きつき、綾はその腰に腕を回した。陽子の背中は温かい。そして、微かにソースの匂いが混じった甘い体臭がする。陽子の首筋、耳のすぐ後ろの敏感な部分に顔を埋め、わざと低く、湿った声で囁いた。
「一口くれないなら、ここで脱がすよ」
耳元に熱い息を吹きかけると、陽子の肩がビクッと震えた。
「……っ、ちょ、何? 綾、手冷たい!」
「パジャマのズボン、紐緩んでるね。……ここ、手が入る」
綾の手がスウェットのゴムに指をかける。冷えた指先が陽子の温かい腹部に触れる。
「ひゃうっ!?」
陽子が変な声を上げた。脇腹は彼女の弱点だ。
「わーーっ! ストップ! 脅迫の仕方がチンピラなんだけど! 痴漢! 変態!」
「恋人を何を呼んでんの。……で、一口くれるの? くれないの?」
「あーもう、わかった! わかったから手をどけて!」
陽子は観念して、箸で麺を持ち上げた。
「一口だけだよ? マヨネーズかかってるけどいい?」
「カロリー万歳」
綾は陽子の手から直接、パクリと麺を頬張った。
太めの麺に絡みつく濃厚なソース、マヨネーズの酸味とコク、そしてキャベツの安っぽい食感。口に入れた瞬間、ジャンクな旨味が脳天を突き抜ける。複雑な出汁の味わいなどない、繊細なハーブの香りもない。ただひたすらに「うまい」という信号だけが脳内を駆け巡る。
「んー! 味濃い。美味しい……」
「でしょ? 悔しいけど、これ開発した企業の努力は凄まじいよ。何百回何千回も試作して、人間が一番美味いと感じる塩分濃度と油分を計算し尽くしてるんだから」
「もう一口」
「えー、一口って言ったじゃん」
「さっきの痴漢と変態発言の慰謝料としてもう一口ずつ」
「強欲だなぁ。詐欺師の手口だよそれ」
陽子は苦笑しながら、ぶつぶつ文句を言いつつも、もう一度麺を口に運んでくれた。二人は暗いキッチンで、換気扇の音に包まれながら、一つのカップ麺をつつき合った。
「手伝おうか」
もぐもぐしながら、綾がふと呟く。
「え?」
「お店。私、仕事終わった後なら行けるし。皿洗いとか、ドリンク出しくらいならできるから」
陽子を見上げる視線は真剣だった。
自分の仕事も忙しいが、陽子がこうしてボロボロになって、カップ麺で空腹を満たしている姿を見るのは辛い。少しでも負担を減らしてあげたい。
しかし、陽子はふっと笑った。
「何言ってんの。自分のこと見てみなよ」
「え?」
「今、何時だと思ってるの? 終電逃してタクシーで帰ってきて、化粧も崩れるくらい働いてる人が、何寝言言ってるの」
陽子は綾の目の下の隈を指先でなぞった。
「綾だって、今にも倒れそうじゃん。そんな状態で店に来られても、私が心配で仕事にならないよ」
痛いところを突かれた。
実際、今の綾に体力の余裕などない。立っているだけで眩暈がするほど疲れている。気持ちと体力の乖離は残酷なほど現実的だ。
「……うう、返す言葉もない。でも、来週からは行けそうなの」
「気持ちだけで十分だよ。……ありがとうね、綾」
陽子は柔らかい笑みを浮かべ、残りの麺を綾の口に運ぶ。
「これ、明日の朝、絶対顔むくむよね」
綾が再びもぐもぐし始める。
「むくむね。パンパンになるよ。塩分排出するためにカリウム摂らなきゃ。バナナ食べる?」
「今からバナナ? 無理」
「じゃあ、このあとお風呂で半身浴して汗かく?」
「それも面倒」
共に35歳手前、代謝は落ちる一方。食べた物の代償は翌日の自分に確実に降りかかる。それを分かっていても、箸が止まらない。共犯者意識が背徳の味をさらに高める。
「たまにはいいね、こういうのも」
容器が空になり、陽子が満足げに息を吐いた。
「うん。ごちそうさま」
綾が陽子の唇を見つめる。そこにはまだ、少しだけソースがついている。
「陽子、口」
「ん? ついてる?」
陽子が手で拭おうとするのを、綾は手首を掴んで止めた。
「私が取る」
綾が顔を寄せ、陽子の唇についたソースを舐め取った。
そして、そのまま唇を重ねる。ソースの甘辛い味と、陽子の味。高級フレンチよりも美味で、どんな夜食よりも満たされる味がした。
陽子の体温が綾の冷えた身体に伝播していく。
「……んっ」
陽子の目がとろんと潤む。
「ソースの味しかしないでしょ」
「ううん。陽子の味がする。マヨネーズ風味の」
「最悪な感想」
陽子はふふっと笑い、綾の背中に腕を回して抱きしめ返した。
「疲れた」と言葉にする代わりに、陽子は綾の唇を深く吸った。
深夜のキッチン、換気扇の下。世界で一番ダサくて、世界で一番愛おしい夜食の時間だ。
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