第2話 MSゴシックの罪








 土曜日の十時。

 この時間まで泥のように眠れることの幸福を、綾は社畜になってから骨身に沁みて感じるようになった。

 昨夜の陽子による充電のおかげで、綾のHPは七割くらい回復していた。残りの三割は年齢による回復力の低下という構造的な欠陥のため、月曜の朝までにはなんとか誤魔化すしかない。


 リビングの窓からは柔らかな陽射しが差し込み、空気中の埃がキラキラと舞っているのが見える。

 綾はソファに深く沈み込み、淹れたてのコーヒーを啜りながら、海外のアートブックを眺めていた。美しいタイポグラフィ、計算された余白。完璧な調和。

 平和だ。この平和こそが、現代社会を生きる戦士の休息だ。



 一方、綾の個人パソコンに向かっている陽子が何やら唸り声を上げていた。


「うーん、これで行くか。いや、もっとアピールしないと……でもなぁ」

「何してるの? 朝から唸って」

 独り言の多さに、綾はページをめくる手を止め、マグカップ片手に近づいた。


「あ、綾、ちょうどいいところに。ちょっと見てよ」

 陽子は手招きをする。

「春の新作メニュー、作ってるんだけど。……どうかな?」


 綾は陽子の背後から、開かれているノートパソコンの画面を覗き込む。

 そこにはみんなが大嫌いのあの文書作成ソフトで作られたとおぼしき、極彩色の文字が表示されていた。


『春のめざめ! 旬野菜の煮込み』


 綾の思考が停止した。

 時が止まったような静寂の中、綾の手からマグカップが滑り落ちそうになり、慌てて持ち直す。


「陽子」

「なに? インパクトあるでしょ」

「目が、私の目が……!」

 片手で目を覆い、綾はよろめく演技をした。いや、半分は演技ではない。


「なにこれ?目が焼けるかと思った」

「大げさだなぁ。わかりやすくていいじゃん」


 陽子はパソコンに向かったままで反論した。


「まず、そのフォント。なに?」

「えっ、パソコンに最初から入ってたMSゴシックの太字だけど。一番読みやすいし、太くて元気な感じがするでしょ?」


 別にフォントは何なのを聞いてないの!一目で分かるから!

 綾は今でも吐き出しそうな言葉を呑みこみ、こめかみを指で強く押さえた。ズキズキと頭痛がする。

 広告代理店のクリエイティブ・ディレクターである綾にとって、デザインの原則を無視した素人作成のポップを見ることは、黒板を爪で引っ掻く音を聞くのに等しい拷問なのだ。


「陽子、座って聞きなさい」

「もう座ってるけど」

「正座」

「なんでだよ」


 綾はため息をつき、画面を指差した。


「MSゴシックを否定するわけじゃない。あれはドキュメントのフォントとしては優秀よ。でもそれをデザイン処理もせずにそのまま印刷物の見出し、しかもオシャレであるべきフレンチビストロのメニューに使うのは、私の前では重罪なの。懲役三年くらいの実刑判決が出るレベル」


「…………えー、厳しっ! 誰も気にしないよそんなの。お客さんは文字の形より、値段と中身を見てるんだから」

 家ではあんまり聞いたことがない綾の超早口に、陽子の反応が大分遅れた。


「無意識で見てるの! 人間はね、整っていないものを見ると本能的に『信頼できない』って感じるようにできてるの。見て、この『めざめ!』の赤色。彩度が高すぎる。スーパーの『本日特売! 玉ねぎ19円!』と同じ赤よ」

「玉ねぎ使ってるからいいじゃん」

「そういう問題じゃない!」


 綾の声が裏返った。

 さらに画面を凝視すると、他にもツッコミどころが満載だった。フリー素材のイラスト―笑顔の太陽と、なぜかフラダンスをしている猫―が四隅に配置され、背景には薄い虹色のグラデーションがかかっている。

 そして極めつけは、中央に配置されたキャッチコピー。


『南仏の風! 野菜がお口の中でダンスする♪ 春の予感、感じてみない?』


「このポエムは?」

「えっ、私が考えた。ちょっと詩的でしょ?」

「……陽子、あなたは料理の天才だけど、コピーライティングの才能は壊滅的だわ。なに、この売れなさそうなアイドルソングの歌詞?」


 綾の容赦ない指摘に、陽子は少しムッとしたように口を尖らせた。

 普段なら笑って流すところだが、今日の陽子は少し余裕がなさそう。肩をすくめ、マウスをカチカチといじりながら呟く。


「だってさー、綾が作る広告って、オシャレすぎて何書いてあるか読めない時あるじゃん。メニューは読めてナンボでしょ。それに……」

 陽子は言葉を詰まらせ、視線をキーボードに落とした。

「最近、客単価上げないとキツイんだよ」


 その声のトーンが落ちたことに、綾は敏感に反応した。

「……新しい人、まだ見つからないの?」


 綾の案件が炎上する一週間前、陽子が店を開いた時からずっとセルヴーズを務めていた人が結婚を機に退職した。厨房は元々陽子一人で回していたし、バイトの寧々も毎営業日昼夜すべてシフト入れられるわけではない。おまけに店の前に置く宣伝ポップは大体そのセルヴーズが手描きで描いた。オープニングスタッフである彼女の抜け穴は大きすぎる。


「うん。求人出してるけど、即戦力を求めているから応募がなくてね。寧々ちゃんがいない時はワンオペで回してる。ランチはまだいいけど……ディナーだとコースとアラカルト両方捌かないといけないから、席を埋めすぎると料理の提供が遅れるし、かといって空けると売上が立たない。だから、一組あたりの単価を上げて、なんとか利益が出るようにしないと」


 陽子の眉間に刻まれた浅い皺を見て、綾は胸が痛んだ。料理人は孤独だ。味へのこだわりと、経営という現実の狭間で常に戦っている。

 それに、フレンチシェフである陽子に美的センスが欠けているなんて、綾はこれっぽちとも思わない。ただ焦っているだけかも。

 小さく息を吐き、綾は飲みかけのコーヒーをテーブルに置いた。


「どいて」

「え?」

「私がやる。こんな怪文書をお店に出したら、客単価が上がるどころか、お店の品格が疑われて客足が遠のくわ」

「怪文書って」

「いいからどく! 本職違うけど、私をなめないで」


 綾は陽子の肩を押しやり、強引に席を譲らせた。

 腕まくりする。まだパジャマ代わりのスウェット姿だが、その目は完全に仕事モードに入っていた。


「えっ、いいの? 佐伯さんに頼んだらお高いんでしょ? 私、給料払えないよ」

「請求書は回さない。その代わり、今後二度と家の中にダサいポップを持ち込まないで。視界に入るだけで寿命が縮むから」

「やった!じゃあ報酬は今夜のビールと、私のとびきりのマッサージで」

「マッサージは三十分以上ね。あと、ビールはクラフトのやつにして」

「お高い……了解」



 カチャカチャカチャ、ッターン!

 綾の手がキーボードとマウスを高速で操作し始める。まずはデザイン用ソフトを起動する。プロの道具だ。


「まず、MSゴシックは抹殺。代わりに、視認性が高くて上品なフォント。うんー、今回は温かみを出したいからこっちの明朝体で」

「へー、文字が変わるだけでなんか……高そう」

「でしょ? 文字には人格があるの。で、このフラダンス猫は削除。代わりにシンプルな罫線だけで枠を作る。写真は?」

「スマホに入ってる」


 陽子から送られてきた写真を開いた瞬間、綾はホッとした。

 写っているのは、厚手のココットの中で、春らしき彩りの野菜が艶やかに光るプロヴァンス風煮込みだ。夏野菜を春野菜に変えてアレンジした一皿だが、オリジナルに遜色がない出来栄えに見える。

 作り立てなのだろう、白い湯気が立ち、タイムやローズマリーの香りが漂ってきそうな一枚だ。陽子の料理人としての視点が、派手な演出よりも、素材が一番美しく見える瞬間を逃さず切り取っている。


「悪くないわ。というか、すごく美味しそう。見てるだけでハーブとニンニクの香りがしてきそう。ただ……」

 綾は正直に感想を漏らした。


「ただ?」

「この空間に浸かりたいっていう雰囲気が足りない」

「ほえ……」


 陽子のポカンとした反応は無視して、綾は編集ソフトを開いて、写真に補正をかける。トーンカーブをいじり、全体的に黄色かっていた蛍光灯の色味を抑え、青みを少し足して清潔感を出す。さらに、ハイライトを調整し、全体の照りを上品な輝きに変える。彩度も微調整し、野菜と飾りのハーブの緑をより深く、トマトの赤をより鮮やかに。


「……すごい。魔法?」

「技術よ。魔法使い扱いしないで」


 さらに全体のレイアウトを組み直す。余白をたっぷりと取り、写真は大きく、文字は小さく控えめに。

 キャッチコピーも綾が書き直した。

『春風とハーブの香り。旬野菜のプロヴァンス風』

 シンプルだが、フォントの力で奥行きが出ている。


「あとは文字距離の調整。ここは、0.5ミリ詰めて……」

「もう十分いいじゃん?」

「文字同士の距離感はね、人間関係と一緒で大事なの! 離れすぎても寒々しいし、近すぎても窮屈でしょ」

「はいはい、勉強になります」


 三十分後。

 完成したデータを見て、陽子は深いため息をついた。


「悔しいけど、全然違う。値段一緒なのに、私の料理が三割増しで高く見える」

「それがデザインの力。中身が良いなら、外見もそれに合わせないと嘘になる。陽子の料理は、最高なんだから」

 綾はモニターを指差して、少し照れくさそうに付け加えた。

 陽子は目を丸くし、それから嬉しそうに目を細めた。


「ありがと。……綾ってさ、仕事中は鬼軍曹だけど、本当は優しいよね」

「鬼軍曹は余計よ。ふぅ、終わった。目と肩が死んだ。揉んで」

 綾は椅子にもたれかかり、天井を仰いだ。集中していた反動で、一気に疲労が押し寄せてくる。


「仰せのままに、巨匠」

 陽子は苦笑しながら、綾の背後に立った。温かい手が綾の凝り固まった首筋に触れる。



「うわ、ガチガチ。鉄板入ってる?」

「あんたのダサいポップを見たショックで硬化したの」

「人のせいにしない。……ほら、ここ効く?」

 陽子の親指が、綾の肩甲骨の裏側にぐいっと入る。


「あだっ! ……つよ、強いって! 殺す気!?」

「デザインの報酬だからね。深部まで届かせないと」

「……ん、でも、そこ……あ、いいかも……」


 強めの指圧に、綾の口から情けない声が漏れる。

 痛みと快感の境界線。陽子の手は、いつだって綾の身体の正解を知っている。


「ねえ陽子」

「んー?」

「最近やっぱちょっと痩せたよね」

「そんなことないよ。ほら、マッサージの力も変わってないじゃん」

「力は相変わらずだけど……まあ、本当に辛いなら言ってね、手伝うから」


 綾は首を後ろに倒し、真っすぐな目で陽子を覗く。


「うん、ありがとう。……綾」

「なに?」

「愛してるよ」

「……うるさい。いいからそこ、重点的に揉んで」


 綾の耳が少し赤くなっているのを、陽子は見逃していない。

 MSゴシックは滅び、世界に美しい明朝体の平和が訪れた。窓の外、春の風が木々を揺らしている。




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