一章
翁
嫌な臭いに目が覚めた。
そこは、たとえば須磨の浜に似ていた。しかしそこよりも海も砂も褪せている。その先から、それはしきりに風に乗ってやってくる。
これまた、屍の香かと思えば、僅かに違う。
ここは何処。
迷いながら浜を歩くと、
「都奈之や 白き腹して 火に近づく
返せば赤く 伏せれば黒く
命はどちらを 向かふやら
骨は鳴れども 声はなし
この香は海か それとも――…おや、人の子」
赤い羽織の、随分と小ぶりな翁が手を招く。
「ちょうどよかった、そこの人。二匹釣り得て、二匹焼いたが、一人では余りそうなのじゃ。声をかけても、誰も食いたがらない。そなたはどうじゃ、食うてくれるか」
奇妙な翁。その顔は、猿楽の翁によく似ている。
「食うのはよいが……ここは、
翁は獣のように喉を鳴らして唸り、
「分からぬ。何処までも続いておる。ここを南とすれば、北には平家の幕府。東には都があり、西にもまた都がある」
さも物語のように語る。
「訳がわからぬ」
「そうじゃ、分からぬ。分からぬゆえ、考えるのをやめてこうして魚を焼いて食うておる。そのうえこの魚を焼いておれば、人も勝手にここに寄ってくるからのう」
「何もない浜辺でこれだけ臭えば、気になって寄るものじゃ」
ふんと嗤って呆れ、魚を焼く焚火を挟んで向かいの岩に腰がける。
「どれ、食えばよいのか。頂くぞ」
「ありがたや」
縮んだ皮が身から浮き、そこから滴る油は潮の香僅かに纏った人の腐臭。
だが口は迷わぬ。一度人食いに慣れた口には魚など毒でもない。
「主はこれを美味いと思うて食っておるのか?」
聞くと、「いや全く」と翁は吐き捨て、細かな骨を痰とともに吐き出した。
「されどこの海はこの魚しか釣れぬので、腹が減っては仕方がなく食うしかない。そなたこそ、よくも平気で食えるものじゃ。さては人でも喰うていたか」
「そうじゃと言うたら」
「…興に入ることを言う」
翁は、早々に一匹を平らげんとする我を伏し目に、慣れた手付きで魚を腹から齧り付いた。
一間置いて、
「主は何者ぞ」
魚骨を火に焚べ炎を突付く翁が問う。
「僧じゃ」
「何処の僧よ」
「近江国、琵琶湖の西の比叡山の」
「比叡山とな。それは何とも尊き御方じゃ――はて、では何上そのような御方が武具を持たれる」
我の傍らには薙刀、袈裟の上に甲冑を纏っている。
「戦と飢饉と繰り返し、寺社仏閣にすら盗み入り、それどころか、堂宇に火を放つ腐れ外道までもおる世ぞ」
「いと恐ろしや。貞観の災いか」
貞観といえば、地は揺れ、山は火を噴き、地は揺れて、疫は人を倒し、まこと、荒れに荒れた時代である。
貞観といえば、清和帝の御代――。
そこで、はてと首が傾く。
「それはおかしな話じゃ。今は正親町帝、元号は元亀ぞ。貞観とは幾星霜昔の話であろう」
「其は、如何ばかりの事ぞ」
「地の揺れし里も、火を噴きし山も、いかなるありさまなりしかを語り伝ふる者もなし。津波に呑まれし浦は田となり林となり、疫に倒れし人の名も、立木の肥やしとなりにけり」
「いかでか信じ得べき」
「なにぞ、よもや、貞観の世から常ここに居るとは言うまいな」
「…げに、かかる理あるべしや」
薪が割れ、火の粉が飛ぶ。
「ここでは未だに二十年に満たず」
「其はまた、如何ばかりのことぞ」
「はて、分からぬ」
しばし沈黙。
再び火が割れて蛍のように粉が飛ぶのを機に翁が立つ。
「旅に出よう。そなたはどうする」
「さらば、我も供をせん。用心に不足はあるまい」
翁は火を踏み消し、近くの流木を手に取り杖とし、その先は北を指した。
仏の業 八雲 @akauri
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