第5話 消された名前


 夜明け前、

 森はまだ暗かった。


 均衡庁の追跡を振り切り、

 俺たちは洞窟に身を潜めていた。


 湿った岩肌。

 小さな焚き火。


 火の揺らぎが、

 三人の影を壁に映す。


「……連中、

 本気ね」


 リゼアが、

 剣の刃を布で拭いながら言った。


「戦場慣れしてる」


「ええ」


 ミュゼは頷き、

 荷袋から古い書板を取り出す。


「理由があるわ」


 彼女の声は、

 いつもより低い。


「調整士は、

 昔から“管理対象”だった」


 書板を広げる。


 文字は掠れ、

 ところどころ削られている。


「これは……?」


「均衡庁の前身組織が残した記録」


「正確には、

 残し損ねた記録ね」


 俺は、

 嫌な予感を覚えた。


 ミュゼが、

 一つ目の頁を指す。


「ここに、

 調整士の記述がある」


 読み上げられたのは、

 日付と出来事だけ。


 名は、

 どこにもない。


「英雄〇年、

 歪曲安定」


「調整士、

 役割完遂」


「完遂後、

 処理」


「……処理?」


 言葉が、

 喉に引っかかる。


「消去よ」


 ミュゼは、

 淡々と答えた。


「存在そのものを」


 次の頁。


 同じ構文。

 同じ結末。


 何人もの調整士が、

 世界を支え、

 記録から消えていた。


「英雄の名前は?」


「残ってるわ」


「必ず、

 英雄の功績として記されてる」


 リゼアが、

 拳を握る。


「ふざけてる」


「裏で支えた人間は、

 全部なかったこと?」


「そうしないと、

 英雄譚が壊れる」


 ミュゼは、

 視線を落とす。


「英雄は、

 一人で立っている存在で

 なければならない」


「支えが見えた瞬間、

 人は依存できなくなる」


 俺は、

 書板を見つめた。


 そこに、

 俺の未来がある。


「……最後は?」


 恐る恐る、

 聞いた。


 ミュゼは、

 一枚の頁を開く。


 そこだけ、

 文字が削られていた。


「名前を、

 刻もうとした痕跡」


「でも、

 途中で消されてる」


 削り跡に、

 指をなぞる。


 ぞっとするほど、

 丁寧だった。


「世界は、

 調整士を必要とする」


「でも、

 存在は許さない」


「役割だけを、

 使い捨てる」


 リゼアが、

 俺を見る。


「……アルト」


 言葉が、

 見つからない。


 怖かった。


 死ぬことよりも。


 名を呼ばれず、

 記憶されず、

 最初からいなかったように

 扱われることが。


 俺は、

 これまで支えてきた。


 見返りも、

 名誉も求めず。


 だが――

 消されると知って

 なお、

 平然としていられるほど、

 強くはなかった。


「俺……」


 声が、

 掠れる。


「俺も、

 ああなるんですか」


 沈黙。


 焚き火が、

 小さく爆ぜる。


 ミュゼが、

 静かに言った。


「その可能性は、

 高い」


 はっきりとした言葉。


 逃げ場はない。


 リゼアが、

 俺の前に座る。


「だから、

 選びなさい」


「支え続けて、

 消えるか」


「それとも、

 世界とぶつかるか」


 俺は、

 目を閉じた。


 これまで、

 流れに従ってきた。


 世界のため。

 英雄のため。


 でも――

 それは、

 誰の選択だった?


 目を開く。


 書板の削り跡が、

 やけに鮮明に見えた。


「……俺は」


 一度、

 深く息を吸う。


「消えるために、

 生きてきたわけじゃない」


 ミュゼが、

 微かに笑った。


「そう言うと思った」


 洞窟の外で、

 朝の気配がする。


 世界は、

 何事もなかったように

 動き続けている。


 支えた者の名を、

 知らぬまま。


 だが――

 もう、

 それでいいとは思えなかった。


 消された名前の列に、

 俺の名を

 加えさせはしない。


 その決意が、

 胸の奥で

 静かに、

 確かな重さを持った。

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