第8話
妹は、目を離した瞬間に世界を広げる。
それは悪意でも反抗でもない。
ただ、体が先に動く。小さな足が“行ける”と判断した方向へ行ってしまう。泣くのは遅い。泣くより前に、行ってしまう。
その日の午後、庭園の回廊は明るかった。
噴水が光を跳ね返して、白い石の床に揺れる模様を描いている。鳥の声が高く、花の匂いが少し甘い。屋敷は平和で、だからこそ油断できる顔をしていた。
クララは洗濯物の取り込みに呼ばれて、ほんの少しだけ席を外した。
「坊ちゃん、妹君をお願いしますねぇ。すぐ戻りますからぁ」
そう言って、手を振って消えた。
――すぐ、という言葉ほど信用できないものはない。
僕は妹を膝の上に乗せて、手遊びをしていた。
妹は僕の指を掴んで離して、また掴んで、勝ち誇った顔をする。何に勝ったのかは知らない。僕に勝っても誇らしがらないでほしい。兄の威厳が削れる。
妹が、ふっと視線をずらした。
噴水の縁。
水の跳ねる白い石。
そこに浮かぶ小さな光――水滴が陽を拾っている。
妹の目が、その光に吸い寄せられる。
次の瞬間、僕の膝からするりと抜けた。
「……おい」
呼び止めるのが遅かった。
妹は四つん這いで石の床を進み、噴水の方へ向かう。ふらつく足取り。転んでも泣かないタイプの転び方。泣かないのは僕の担当でいい。
僕は立ち上がって追う。
距離は数歩。間に合う――と思った。
噴水の縁は、濡れていた。
水が跳ねるたび、石に薄い膜が張る。陽の光で見えづらい、その薄い膜。
妹の小さな手が縁にかかり、身体を引き上げようとする。
足が滑る。
つるり。
音が消えた。
妹の体が、ふわっと軽く浮く。
時間が伸びた。
僕の頭は叫んだ。
叫んだのに、喉は音を出さなかった。出せなかった。出している暇がなかった。
僕は走った。
走ったはずなのに、足が床を掴む感覚が遅い。距離が縮まない。噴水の水音だけがやけに近い。
妹が落ちる。
水の中は深くない。
でも深い浅いの問題じゃない。赤子の肺は水に弱い。冷えも怖い。石に頭を打つのも怖い。何より――この瞬間、ここには僕しかいない。
僕は手を伸ばした。
届かない。
――一点に届かない。
頭のどこかで、そんな言葉が浮かんだ。
指先に力がないのに似ている。届かない。届かない。届かない。
胸の奥が熱くなる。
滲む。
外へ出たがる。皮膚の下がざわつく。
抑えろ。
抑えられない。
今は抑えるな。
僕は息を吸った。
深く吸う。浅くならないように。
吐く前に、胸の裏側がきゅっと縮む感覚がした。
そして――
世界が、少しだけ遅くなった。
噴水の水滴が、空中で粒のまま見える。
妹の髪がふわりと浮いている。
落ちる角度が、はっきり分かる。
僕の腕が、勝手に前に出た。
腕全体に、熱が満ちる。掌の皮膚の下が薄く熱い。だけど指先は震える。震えるのに、腕は動く。
僕は妹の服の背中を掴んだ。
指先に力が入らない。
掴んだ感触が、ほどけそうになる。
――落とす。
そう思った瞬間、胸の奥がもう一段熱くなった。
滲み出たものが、皮膚の下を走り、腕へ流れ込む。
腕の中が一瞬だけ重くなる。重いのに速い。
僕は妹を引き寄せた。
水面に落ちる寸前、妹の体がこちらへ戻る。
僕の胸にぶつかり、息が詰まる。
妹が「うっ」と短く声を漏らす。
抱きしめる。
温度。
震え。
生きている。
僕の膝が少し遅れて笑った。笑うな。今は笑うな。
僕は噴水の縁から離れて、石の床に座り込んだ。
妹は泣かなかった。
泣かない代わりに、僕の服を握りしめた。
小さな指が、さっきより強い。爪が食い込むほどに。
僕は妹の背中をさすりながら、呼吸を整えた。
浅くなっていないか。めまいはないか。胸の奥が空っぽになっていないか。
大丈夫。
まだ大丈夫。
――でも。
そのとき、妹が顔を上げた。
僕の顔じゃない。
僕の腕でもない。
僕の胸元。
妹の瞳が、そこをじっと見ている。
まるで、目に見えない糸が揺れているのを見ているみたいに。
妹は、僕の胸に手を当てた。
掌を押しつける。探るように。
僕の体から、何かが漏れていた。
熱が皮膚の外に滲む感覚。
汗とは違う。匂いもない。色もない。
でも確かに「外へ出た」。
妹の指が、ぴくりと跳ねた。
それは、さっき噴水で滑ったときの反射とは違う。
驚きの跳ね方だった。
妹は目を見開き、次に、口元をゆるめた。
笑った。
何が面白いのか分からない。
でもその笑いは、“見つけた”という笑いだった。
僕は、背筋が冷えた。
魔法臓器のことを思い出す。
魔力は血筋に依る。
けれど魔法は誰でも使える。
そして、魔力感知は上級者しかできない。
――なのに。
この子は、今、感じた。
理屈が追いつかない。
追いつかないのに、現実だけがそこにある。妹の掌が僕の胸に触れ、妹の指が小さく跳ね、妹の笑いが咲いている。
僕は慌てて魔力を引いた。
抑える。内側へ押し戻す。
滲みが止まる。
妹の表情が、少しだけ不満そうに曇った。
まるで、さっきまで見えていたものが消えたみたいに。
……見えてたのか。
見えてないだろ。
でも、感じたのは確かだ。
「だめ」
僕は小さく言った。
妹に言ったのか、自分に言ったのか分からない。
そのとき、回廊の向こうから足音がした。
「坊ちゃーん!」
クララの声。
いつもの間の抜けた声が、やけにありがたい。世界が戻ってくる音だ。
クララが走ってくる。洗濯物の匂いがする。
僕を見て、妹を見て、噴水の縁を見て、顔が青くなる。
「まぁ……! まぁまぁまぁ……!」
天然が消える。
本気の心配が露骨に出る。
僕は妹を抱いたまま立ち上がり、何でもない顔を作った。
何でもない顔を作るのは得意だ。昔から泣かなかったから。
「だいじょうぶ」
短い言葉。
クララは僕の顔を覗き込んで、すぐに妹の頬に触れる。濡れてない。冷えてない。傷もない。
その確認が終わって、ようやくクララの肩が落ちた。
「……坊ちゃんが、守ってくれたんですねぇ」
その言い方が、責めるでもなく、褒めるでもなく、
ただ当たり前のことを見たような温度で、僕は少しだけ息が楽になった。
妹はクララの声を聞いても、まだ僕の胸元を見ていた。
掌を離さない。
名残惜しそうに、そこを押さえたまま。
僕はその手をそっと握り、引きはがさない程度に包んだ。
指先が、やけに熱い。
――この子は、もう触ってしまった。
僕の秘密を。
僕の内側の、滲むものを。
屋敷は相変わらず平和な顔をしている。
噴水は変わらず水を跳ね、庭園は花の匂いを広げている。
でも、僕の中だけが変わった。
五歳になる前に、僕は決めた。
この子が次に何を掴もうとするのか。
それを最初に知るのは僕でいい。
僕が止めて、僕が守る。
そのために必要なのは――
指先だ。
一点に届かないものを、届かせる。
最適な使い方を、形にする。
妹の小さな手は、今日も強い。
弱いのに強い。
ずるい。
怖い。
でも、そのずるさと怖さが、僕の背中を押していく。
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