第7話
妹が生まれてから、屋敷の音が一つ増えた。
小さな泣き声。
夜の廊下を走る足音。
クララの「まぁ!」という間の抜けた驚き。
母の「大丈夫よ」という低い声。
父の「……よし」という短い呟き。
僕はその中心にいた。というより、中心のすぐ隣にいた。
妹は、よく泣いた。
泣くことで世界を動かす子だった。呼べば来る。来たら落ち着く。落ち着けば眠る。泣くという行為が、扉のノックみたいに正しい。僕にはできなかったやり方を、妹は最初から知っている。
だから、僕はいつも先に行った。
泣き声が上がると、体が勝手に動く。
廊下の角を曲がると、揺れるランプの光の中に、クララが慌てている背中が見える。母がまだ休んでいる日も、父が王都へ出ている日も、屋敷はちゃんと回る。その回転のどこかに、僕が組み込まれていく。
妹を抱くと、熱が腕に収まる。
軽い。
木剣と比べるのはさすがに失礼だが、木剣よりずっと軽い。軽いのに、落としたら世界が壊れる気がする。そういう重さがある。責任ってやつは、だいたい目に見えないところで増える。
妹は僕の胸元に額を押しつけて、鼻を鳴らして、呼吸を整える。
そのたびに、屋敷の空気が柔らかくなる。
「坊ちゃん、ありがとうございます」
使用人たちが笑う。
その笑い方が、僕に向けるというより、妹に向ける“祝福”の延長みたいで、妙に居心地がいい。僕は褒められるのが好きというより、空気が丸くなるのが好きだった。
母は時々、扉の影から僕を見ていた。
産後の細い肩。けれど目だけは強い。
僕が妹をあやしながら歩くと、母の口元が少しだけ上がる。笑う、というほどではない。胸の中で花が咲いたのを、外に漏らさないようにしている感じ。
父も同じだった。
父は、抱っこが上手いわけじゃない。
剣は上手いのに。公平じゃない。いや、剣が上手いから抱っこが下手でも許される理屈はないけど。
それでも父は、妹を見るときだけ指の力を抜く。
近衛騎士団トップの手が、あんなに慎重に小さな指先を避けて触れるのを見ていると、人の強さって筋肉だけじゃないんだなと思う。
「エド」
父が僕を呼ぶ。
僕が顔を上げると、父は妹に視線を落としたまま言う。
「……よく見てるな」
褒め言葉なのか、確認なのか分からない。
けれどその言葉の温度は、庭園の陽だまりに似ていた。
そして僕の夜は、別の顔を持っていた。
妹が眠り、屋敷が静まり、噴水の音だけが遠くで続く頃。
僕は書庫へ行く。
扉の重さは相変わらずで、木の軋みは相変わらず大げさだ。屋敷って、夜になると全部の音が舞台の真ん中に立ちたがる。困る。静かにしたい時ほど、音が主役を取る。
言葉の本を抱える。
魔法書を開く。
魔法は誰でも使える。
適性がどうとか、選ばれた血筋しか、とか、そういう話じゃない――と本は淡々と書いていた。淡々と書かれているほど、嘘っぽくない。むしろ現実だ。誰でも息をするのと同じ。誰でも歩けるのと同じ。でも、走り方は人によって違う。
魔力そのものは増えない。
増えないからこそ、最適な使い方がすべて。
最初の三歳の頃、僕の魔力は「にじみ出る」だけだった。
汗みたいに勝手に滲む。
息を吸うたび胸の奥が熱くなり、皮膚の下がざわつき、落ち着かない。動かそうとしても動かない。止めようとしても止まらない。自分の体の中に、自分のものじゃない潮の満ち引きがあるみたいだった。
だから、まずやったのは抑え込むこと。
外へ逃がさない。
暴れさせない。
自分の内側で、形を保たせる。
抑え込む練習は地味で、成果が見えなくて、眠気だけが敵だった。
でも、妹を抱くと不思議と楽になった。妹の呼吸が落ち着くと、僕の胸の奥も落ち着く。理由は分からない。ただ、同じ屋敷で同じ空気を吸っているはずなのに、妹のそばだと自分が“余計なことをしなくていい”気がした。
四歳になる頃、ようやく滲みが収まった。
収まると、初めて分かる。
――動かせる。
魔力は水じゃない。
でも、水に似ている部分がある。溜まり、流れ、偏る。偏ると熱が生まれる。熱が生まれると、身体が反応する。
僕は腕へ流そうとした。
肩から肘へ、肘から手首へ。体内のどこかにある“道”を、少しずつ撫でて確かめるように。
最初は散る。
散ると全身がむずむずして、また滲む。
滲むと抑える。抑えるとまた流す。
繰り返して、ようやく腕が重くなる日が来た。
筋肉が張るんじゃない。内側が満ちる。掌の皮膚の下が薄く熱い。そこに“ある”。
脚も同じ。
腿から膝へ、足首へ。
腕や脚全体なら、寄せられるようになった。
――でも。
五歳が近づくほど、壁がはっきりした。
一点。
指先だけ。
ほんの小さな場所。
そこへ集めようとすると、途端に散る。
細い針穴に糸を通そうとして、糸が勝手にほつれるみたいに。ほつれて、全身へ戻って、また滲みそうになる。
その夜、僕は妹の寝顔を思い出していた。
妹は寝ると、指をぎゅっと握ったままになる。
何も掴んでいないのに掴んでいる。夢の中でも「離さない」をやっている。器用だ。見習いたい。
僕は指先に、ほんの少しだけ魔力を集めようとした。
妹の頬に触れても熱くならない程度の、
ろうそくの火より小さい程度の、
「そこにある」と言えるだけのもの。
掌から指へ。
指の付け根から先へ。
……いける、と思った瞬間。
胸の奥が、すっと空っぽになる感覚がした。
息が浅くなる。
吸っているのに入ってこない。
入ってこないのに、身体だけが吸おうとする。
視界が、揺れた。
書庫の棚が遠のく。背表紙の金が滲む。
足元の床が、少し斜めになる。屋敷が傾いたみたいだ。いや、傾いているのは僕だ。
(……あ、これ)
膝が笑う。
笑うな。笑う場面じゃない。僕の膝が空気を読め。
僕は本棚に手をついた。
指先に集めたはずのものは、もうどこにもない。散った。散って、使い切った。
呼吸が浅い。
喉の奥が冷たい。
目の奥が熱い。
――気絶、という言葉が頭をよぎる。
その瞬間、背後で扉が開く音がした。
「坊ちゃん?」
クララの声。
ランプの光が床に落ちる。光がまぶしくて、僕は反射的に目を細めた。見つかった、というより、見つけられた、という感覚だった。倒れる前の人間を、ちゃんと拾う声。
「……だいじょうぶですかぁ?」
クララが駆け寄ってくる。
僕は返事をしようとして、息が足りなくて声が出ない。代わりに頷く。頷けたから大丈夫、という理屈はない。けど、クララはそういう理屈で生きている節がある。ありがたい。
クララは僕の背中をさする。
その動きが妙に落ち着く。呼吸のリズムが、少し戻る。
「こんなところで……お勉強ですかぁ。えらいですねぇ」
叱られない。
……叱られないのが一番怖い時もある。いや今は助かる。怖いのは後でいい。
クララが僕を抱き起こして、肩を貸す。
そのとき僕の指先が、ほんの少し震えているのが見えた。悔しさの震えか、枯渇の震えか、自分でも分からない。
書庫から出ると、廊下の空気が少し軽かった。
噴水の音が遠いまま、屋敷は何も知らない顔をして眠っている。魔力感知ができるのは上級者だけ――本の言葉が、今だけは味方に思えた。僕の内側の失敗は、誰にも見えない。
クララは僕を部屋まで運ぶ途中、何度も後ろを振り返った。
書庫の扉を、心配そうに見る。僕を、心配そうに見る。天然の人が天然を脱ぐときは、本当に心配しているときだ。これは覚えておいたほうがいい。
翌朝。
僕が妹を抱いて庭園を歩いていると、母が声をかけてきた。
「エド、昨夜……少し顔色が悪かったと聞いたわ」
クララの報告だ。仕事が早い。
僕は「だいじょうぶ」と言ってみる。言葉は短い。短いほうが嘘が混じりにくい。たぶん。
母は僕の頬に手を当て、目を細めた。
熱はない。汗もない。けれど、母は熱計測器よりずっと精密だ。
「無理はしないで。あなたは……頑張りすぎるところがあるから」
その言い方は、叱責じゃない。
お願いだ。母のお願いは、命令より重い。
僕は頷く。
妹が僕の袖を掴む。ぎゅっと。離さない。
その力に引っ張られるみたいに、僕の頷きが少し深くなる。
父は少し遅れて庭園に来た。
訓練場へ向かう前の服装。背筋がまっすぐで、影が濃い。
父は妹の頭を指で軽く撫でてから、僕を見た。
「……顔が白い」
容赦がない。近衛騎士の観察眼が、家庭で発動するのは反則だ。
僕は言い訳を探す。
探している間に、妹が僕の胸元で小さく欠伸をした。あくびの匂いが甘くて、僕の頭の中の言い訳がどうでもよくなる。妹、今のタイミングで世界を救わないでほしい。
父はふっと息を吐いた。
「無茶はするな。守るための力が、先に壊れたら意味がない」
それは剣の話でも、魔法の話でも、僕の話でもあった。
僕は頷く。
妹が僕の指を掴み直す。
父はその様子を見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……お前が一番、落ち着かせるな」
その言葉は褒め言葉の形をしていて、屋敷の空気をまた丸くした。
使用人たちが遠くから見ている。
クララが胸を撫で下ろす。
庭園の光が柔らかい。
誰も、僕が夜に何をしているかは知らない。
けれど、僕が妹を抱く姿だけは、屋敷中が知っている。
その“知っている”が、僕の足場になる。
一点に届かない指先を握りしめながら、
僕は妹の温度を腕に覚え直した。
――最適な使い方。
派手にできなくていい。
一点に届かなくてもいい。
今は、壊さない。守る。近くにいる。
そうやって、五歳の僕は今日も屋敷の中で息を吸う。
魔素のことなど知らなくても、世界は勝手に胸の奥を満たしていく。
満たしていくからこそ、次はこぼさないようにする。
妹の手は、相変わらず強い。
弱いのに強い。
――ずるい。
でも、そのずるさが、僕の道を決めていく。
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