第6話 妹
妹が生まれた日の屋敷は、普段より静かだった。
静か、というより――
皆が音を立てないようにしている静けさだ。
廊下を歩く足が柔らかい。扉の開閉が遅い。声が小さい。
屋敷が、ひとつの呼吸に合わせて息を整えているみたいだった。
父はいつもより口数が少なかった。
訓練場の父は、剣を振るたびに世界を割るみたいに迷いがないのに、その日は逆だった。何かを握りつぶさないように、指に力を入れるのを恐れているように見えた。
母は、姿が見えない。
当然だ。
けれど、姿が見えないだけで、屋敷の中心が空洞になったような感覚があった。
僕はクララと一緒に待った。
庭園の端の回廊。
窓の外は曇りで、噴水の音がいつもより近い。水の音が、落ち着かせるために鳴っているように聞こえた。
時間が伸びる。
大人は「待つのが仕事」みたいな顔をして待てる。
子どもは違う。
子どもは、待つあいだに世界を数える。
廊下を何人が通ったか。
扉が何回開いたか。
誰の声が一番震えていたか。
僕は数えた。
数えることで、ここに自分の居場所を作れる気がした。
やがて、扉の向こうから声が上がった。
赤子の声。
僕の時にはなかった音だ。
その声は小さいのに、屋敷の空気を一気に変えた。
水面に石を落としたみたいに波紋が走り、皆の表情がほどける。笑いと涙が同時に出る。人間って忙しい。
父が息を吐いた。
その吐息が、今まで見たどんな戦いの後よりも深かった。
「……よくやった」
誰に向けた言葉なのか分からない。
母か。赤子か。自分か。
たぶん全部だ。
しばらくして、僕は産室の近くまで呼ばれた。
扉の前で止められる。
入ってはいけない。子どもだから。危ないから。……またそれだ。
けれど今回は、扉が閉じられる感覚が違った。
知識を閉じられるのとは違う。
ここは、今は“守るための境界”だと分かった。
扉が開き、母が出てきた。
顔色は少し白い。髪が乱れている。
でも目は笑っている。
その笑い方が、庭園の花が朝露で少しだけ重くなる瞬間に似ていた。
「エド」
母が僕の名前を呼ぶ。
その声が、いつもより低い。
「お兄ちゃんになったのよ」
兄。
その言葉が胸に落ちた。
僕は返事の代わりに頷く。
頷いた瞬間、背中のどこかが少しだけ伸びた気がした。気のせいだ。三歳はそんなに都合よく成長しない。
父が赤子を抱いて出てきた。
父の腕の中で、赤子は小さく丸まっている。
僕の指より細い腕。
髪は柔らかく、肌は薄い。
息をするたびに胸がわずかに上下する。その動きが、壊れそうなくらい小さい。
僕の中で、何かが静かに決まった。
――守らなければ。
誰に言われたわけでもない。
理由もない。
ただ、決まった。
父が赤子を僕へ向けた。
「抱くか」
喉が鳴る。
怖い。怖いと言いたくないが、これは怖い。
剣が重くて持てないのとは別の怖さだ。これは重さがないのに、重い。
僕は両手を出す。
クララが後ろから支える。
父が赤子をゆっくり移す。
温度が来た。
熱くも冷たくもない。
ただ、確かな生きている温度。
赤子は泣いた。
声を上げて世界を揺らした。
僕はその声の振動を、腕の内側で感じた。
……この子は、泣ける。
泣いて呼べる。
泣いて世界を動かせる。
その事実が、なぜか少し眩しかった。
僕が顔を覗き込むと、赤子の目が開いた。
焦点は合っていない。
でも、何かを探す動きだけははっきりしている。
小さな手が、空を掴むように動く。
僕の指が触れると、
その手が、ぎゅっと握った。
驚くほど、離れない。
力は弱い。
弱いのに、意志がある。
父が笑った。母も笑った。クララが「まぁ」と声を漏らした。
でも僕は笑えなかった。笑う余裕がなかった。
胸の奥が、ひどく静かだった。
静かなまま、底だけが熱い。
その日から、妹は僕の近くにいる時間が一番長くなった。
母は休まなければならない。
父は仕事がある。
クララも屋敷の仕事がある。
だから僕が抱く。
僕が揺らす。
僕が子守歌の真似をする。
妹は、僕の腕の中で泣き止むことが増えた。
その理由は分からない。
けれど結果だけが積み上がっていく。
眠る前に、妹は僕を探す。
目が開くと、僕を探す。
声を出す前に、僕の気配を探す。
僕はそこで、初めて知った。
“近くにいる”ということは、
言葉より強い。
兄であり、親のような存在。
そんな言葉をまだ知らないのに、妹は先に理解してしまう。
――この子にとって、僕は世界の一部になる。
それは嬉しい、とは少し違う。
嬉しいより先に、重い。
でも、その重さが嫌ではなかった。
木剣の重さは持ち上がらなかったのに、妹の重さは持てた。
夜。
妹がようやく眠り、屋敷が静まる。
僕は書庫へ行く。
言葉の本を開く。
魔法書を開く。
基礎だけを読む。
派手な魔法は要らない。
屋敷を壊す必要はない。
この子の近くで危ないことはできない。
必要なのは――最適な使い方。
少ない魔力で、確実に。
無駄なく、静かに。
壊さず、守る。
妹の小さな手の感触が、指に残っていた。
その感触が、僕のやり方を決めていく。
三歳の僕はまだ何も知らない。
でも、守るべきものの温度だけは、もう知ってしまった。
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