第5話
三歳が近づいた夜。
文字が少し読めるようになってから、書庫は“迷子になる場所”から“地図を描ける場所”に変わっていた。
いつもの棚。
いつもの影。
いつもの言葉の本。
そこから視線だけが、黒い装丁へ滑った。
金属の留め具。
指先が拒まれた記憶。
冷たさが皮膚の奥に残っているような、あの感触。
――今なら。
根拠はない。
ただ、夜の静けさの中でだけ、その考えが自然に育つ。
僕は本に手をかけた。
引く。動かない。
もう一度引く。棚が軋むだけだ。
留め具に指を置く。
次の瞬間、胸の奥で何かが反応した。
脈が一つ飛ぶ。
血が速くなる。
身体のどこか――心臓の裏側あたりが、きゅっと縮む。
指先が熱くなった。
火に触れた熱ではない。
“内側からの熱”だ。
僕は反射的に手を離そうとした。
離せなかった。
指が留め具に吸い付いている。
怖い、とは違う。
止めたいのに止められない、という感覚だけが先に来る。
喉が勝手に息を吸う。
その息が止まる。
かちり。
音がした。
あまりに小さくて、だからこそ大きい音だった。
留め具が、外れた。
僕は一拍遅れて、その意味を理解した。
理解した瞬間、背中の皮膚がぞわりと波打った。
本が、ほんの少し開く。
光は派手に漏れない。
けれど空気が変わる。
紙の匂いが一段深くなり、棚の影が濃くなる。
文字が、紙の上に乗っているのではなく、紙の奥から滲み出してくるように見える。
――読める、かもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥が冷えた。
冷えるのに、目は離れない。
目を離したら、二度とこの瞬間が来ない気がした。
ページの上に、基礎の文字が並んでいた。
魔力。臓器。最適な使い方。流れ。止め方。
そのどれもが、今の僕には地味で、やけに現実的だった。
火球も雷も出てこない。
代わりに、内側の仕組みだけが書かれている。
それが逆に怖かった。
派手な魔法なら「すごい」で済む。
でもこれは「すごい」では終わらない。
これは、世界の仕組みに触る言葉だ。
息を吐くのを忘れていたことに気づいて、ようやく吐いた。
吐いた息が、紙の上で消えた。
――戻れなくなる。
理由は分からない。
でも、そういう気配があった。
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