第4話 書庫に初めて行った夜

夜の屋敷は、昼とは別の建物みたいだった。


同じ廊下。

同じ壁。

同じ絵画。


なのに、灯りが落ちるだけで距離が変わる。壁は少し近づき、天井は少し高くなる。回廊の角は深くなり、奥行きが増す。庭園の噴水は遠くで息をしていて、その音だけが「屋敷の外にも世界がある」と教えてくる。


足音は自分のものしかない。

それが妙に大きく感じて、踏み出すたびに床板の古い癖を思い出させられる。ここは鳴る、ここは鳴らない。ここは軋む。ここは静か。昼間は気にもしないのに、夜は一枚一枚の板が「見ているぞ」と言ってくる。


――見てない。たぶん。


書庫へ向かう理由は、きれいな言葉で説明できない。

喉が渇いたわけでも、怖い夢を見たわけでもない。


ただ、屋敷の中に「触れてはいけない場所」があると知ってしまった子どもは、そこに触れたくなる。

触れない理由が“危ない”なら、触れる理由は“知りたい”で十分だ。


扉は、思っていたよりずっと重かった。


取っ手に指をかけても、びくともしない。

木は厚く、金具は冷たい。触れた指先がすぐに自分の体温を奪われて、戻ってこないみたいだった。


僕は扉の下の隙間に指を入れ、体を寄せる。

肩を押し込む。

息を吸い、吐く。

吐いたぶんだけ力を入れる。


木が、低く鳴った。


夜の屋敷で聞くその音は、普段よりずっと遠くまで届く気がした。

屋敷中の誰かが、寝返りを打つ気配まで拾ってしまいそうな静けさの中で、扉の軋みは雷みたいに主張する。


心臓が一拍遅れて追いつく。

それでも押す。


扉が、ほんのわずかに開いた。


隙間から、匂いが流れ出してきた。

庭の土とも、訓練場の汗とも違う。乾いた紙、古い革、木の奥に染み込んだ時間。匂いというより、空気の質が変わる。そこから先は、別の季節だ。


僕は身体を滑り込ませた。


書庫は暗かった。

けれど真っ暗ではない。


廊下の微かな光が、床に細い線を引いている。その線の先に、本棚が立っていた。一本ではなく、壁でもなく、森だった。幹のように高い棚が何列も続いている。棚と棚の間は、子どもの体をすり抜けさせるには十分で、迷子にするにはもっと十分だった。


一歩踏み出すと、音が吸い込まれた。


床は確かに踏んでいるのに、返事がない。

書庫の静けさは「音がない」んじゃなくて「音を飲み込む」静けさだった。


棚の間を歩く。

顔を上げる。


背表紙が天井まで続いている。文字が並んでいる。金の装飾、革の縫い目、焼き印のような印。目が慣れるほどに、そこには“数”がある。数えきれない数。屋敷の部屋の数とは桁が違う。「たくさん」では足りない。世界が積み上がっている。


……ここは危ない。


初めて、大人の言葉が腑に落ちた。

危ないのは刃物でも毒でもない。

自分が小さすぎることが危ない。


棚の上のほうに、分厚い本が並んでいた。背表紙に金が走っていて、触れたら指が沈みそうなくらい重たそうだ。あれは“読まれるため”ではなく“置かれるため”に存在しているみたいだった。


手を伸ばしても届かない。

背伸びしても空を掴む。


踏み台を探して視線を動かす。ない。

大人はここで、子どもの足場を用意しない。


届かないものは、届かない。


その事実が、床に落ちる石みたいに胸の奥へ沈んだ。音がしないのに重みだけが残る。


ふと、目線が下がった。


僕の目の高さに、薄い本が並んでいる。装飾は少なく、文字は大きい。入口の顔をしている。


指で背表紙をなぞると、ざらりとした革が指先を撫でた。

一冊抜き取る。意外と軽い。


ページを開く。

絵と文字。音の記号。短い例文。


――言葉。


そこにあるのは、世界を切り分けるための刃だった。

切り分けられれば、形になる。

形になれば、持てる。


僕はその本を抱えた。

紙の重さが腕に乗る。その重さが、逆に安心する。


書庫の森の中で、僕は初めて「帰れる道」を手に入れた気がした。

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