第3話 泣かない赤子

最初にあったのは、光ではなく音だった。


重なり合う声。

張りつめていたものが、ほどけるような吐息。

何かが床に触れ、誰かが短く笑い、誰かが泣いた。


そのすべてが、遠い。


次に、体が持ち上げられる。

宙に浮く感覚。

そして、包まれる。


温度が、はっきりしていた。

逃げ場を塞がれる不安はない。

離される気配もない。


ただ、そこにある。


息は苦しくなかった。

胸は勝手に上下し、空気は自然に入ってくる。


泣く理由が、見つからなかった。


周囲では、赤子の声を待つ空気が確かにあった。

だが、いつまで経っても、その音は生まれない。


「……あれ?」


小さな声。

けれど慌てる様子はなく、誰かがすぐに「元気ですよ」と答える。


抱き直され、角度が変わる。

それでも、声は出なかった。


不思議に思われることはなかった。

ここに集まっていたのは、出産に立ち会うのが初めての者ばかりだったからだ。


「静かな子ですね」


その一言で、場は納得したように流れていく。


赤子は、ただ、目を開けていた。

焦点の合わない視界に、ぼんやりとした色と動きが滲んでいる。


(……ここは)


言葉にならない何かが、胸の奥に沈む。


大丈夫だ。

そう感じた。


理由は、なかった。




時間は、均一に流れていた。


眠り、目を覚まし、また眠る。

その合間に、温度と匂いが入れ替わる。


空腹は、長く続かない。

喉が鳴る前に、柔らかな感触が口元に触れる。


濡れた不快感は、気づいたときには消えている。

誰かの手が、いつも先にあった。


泣く必要が、なかった。


声を出す前に、世界が整う。

だから、声は出ないままだった。


「本当に手がかからない」


「夜もよく眠ってくれますし」


そんな言葉が、日常の中で繰り返される。

それは褒め言葉として、何の疑いもなく。


赤子は、その言葉の意味を理解していない。

ただ、空気が少し軽くなるのを感じていた。


静かにしていると、周りが穏やかになる。

それだけは、分かった。


抱き上げられるたび、視界に顔が近づく。

知らない顔。

知っている顔。


どれもが、敵意を持っていない。

だから、泣かない。


泣かないことは、選択ではなかった。

そうする必要がなかっただけだ。




腕には、違いがあった。


多くの腕は、柔らかく、揺れが大きい。

動くたびに、視界が揺れ、匂いが変わる。


だが、ひとつだけ、明確に違う腕があった。


硬く、太く、安定している。

骨と筋肉の感触が、はっきりしている。


その腕に抱かれると、視界が少し高くなる。

胸元から、低い音が規則正しく伝わってくる。


どくん、どくん、と。


銀色の髪。

鋭さを含んだ眼差し。


その人は、長くは抱かない。

だが、必ず、こちらを見る。


何かを測るように。

確かめるように。


視線が合う。

赤子は、逸らさなかった。


泣きもしない。

手を伸ばすこともしない。


ただ、見返す。


一瞬、沈黙が落ちる。


「……そうか」


低い声。

意味は分からない。


その人は、短く頷き、赤子を別の腕に預けた。

距離はある。

だが、拒まれているわけではなかった。


近づきすぎない。

離れすぎもしない。


その距離が、いつも保たれていた。




ある日、いつもと違う音がした。


乾いた音。

硬いものが床に打ちつけられる。


人が転び、息を呑む気配。

短い悲鳴。


視界の先で、誰かが膝をついた。

別の誰かが、慌てる様子もなく、近づく。


手がかざされる。

言葉が、短く紡がれる。


その瞬間、光が生まれた。


淡い光。

揺れて、広がり、傷口を包む。


赤子は、そのすべてを見ていた。

瞬きも忘れて。


光が動く。

消えていく。


胸の奥で、何かが鳴った。


今まで感じたことのない、強い引力。

怖くない。

ただ、目を離したくなかった。


(……すごい)


言葉にはならない。

だが、確かに、今までとは違う。


光が消えたあとも、視線はその場所に留まったままだ。

何も残っていないのに。


自分の手を見る。

小さく、力もない。


それでも、なぜか――

そこに、届く可能性があるような気がした。


誰も気づかない。

赤子が、世界の仕組みに触れたことに。


「坊ちゃん、本当に静かですね」


頭を撫でられる。

あたたかい。


エドは、泣かずに、ただ世界を見ていた。

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