第2話 白に沈む声
目を開けた瞬間、世界が音を失っていることに気づいた。
いや、正確には――
音が「存在していない」。
風もない。鼓動も遠い。
上下左右の感覚が、まるで薄い霧の向こう側に置き去りにされたみたいだ。白い。どこまでも、ひたすらに白い。絵の具を出し惜しみしない神様が、キャンバスを真顔で塗り潰した結果がこれです、みたいな白。
「……は?」
思わず声が漏れた。
ちゃんと声になったかどうかも怪しい。喉が振動した感覚はあるのに、空気が揺れた手応えがない。ツッコミどころが多すぎて、逆に突っ込めないタイプの異常事態だ。
――俺は、ここに来る直前、何をしていた?
そう考えた瞬間、頭の奥を金槌で殴られたような痛みが走った。
「っ……!」
思考を深く潜らせようとすると、拒絶される。
脳が「それ以上はやめとけ」と警告灯を回している。まるで、触れてはいけない記憶に安全装置がかかっているみたいだ。
でも、奇妙なことに――
世界のことは、分かる。
信号機が何色で止まるかも、車がどうやって動くかも、数学の公式も、歴史の流れも、スマホの使い方も、全部、ちゃんと頭に入っている。
なのに。
「……俺、誰だ?」
自分の名前すら、出てこない。
人生の輪郭だけが、くり抜かれている。
写真のアルバムから、肝心な顔だけが全部ハサミで切り取られたみたいな感覚だ。空白が、逆にうるさい。
白い世界は、何も答えてくれない。
ただ、じっと、俺を見ている。
そのとき――
白の奥が、わずかに揺れた。
水面に石を落としたときみたいに、波紋が静かに広がる。その中心から、誰かが歩いてくる。足音はない。でも、存在感だけはやけに重い。
長い髪が、白に溶け込むように揺れている。
衣服は簡素なのに、不思議と貧相には見えない。むしろ、世界そのものが彼女を引き立てる舞台装置みたいだ。
――綺麗だ、と思った。
それは外見だけじゃない。
もっと根っこの部分。説明しようとすると、言葉が逃げるタイプの感覚。
「目を覚ましましたね」
声は、優しかった。
春先の陽だまりみたいな温度で、でも逃げ場のない静けさがある。
「……えっと。どちら様で?」
我ながら、我慢強い対応だと思う。
普通なら「ここどこ!? 俺なに!?」と三点セットで叫んでいる。だが相手の雰囲気が、それを許さない。野生動物が本能で距離を測る、あの感じに近い。
彼女は、少しだけ目を伏せた。
その仕草が、妙に――痛々しく見えた。
「私はセリス。この世界を、管轄しています」
管轄。
今、さらっと神様っぽい単語が出てきた気がするんですが、それはスルーでいい流れですか? ツッコミを入れると空気が壊れるタイプのやつですよね、これ。
「……俺は、死にましたか」
自分でも驚くほど、冷静な声だった。
セリスは、否定しなかった。
ほんの一瞬、胸の奥がきしむ。理由は分からない。ただ、ずっと昔からそこにあった傷が、今になって自己主張を始めたみたいな痛み。
「あなたは、何度も……」
言いかけて、セリスは言葉を切った。
その沈黙が、やけに重い。
白い世界に、小さなひびが入ったような錯覚を覚える。
彼女の視線が、俺の胸の辺りに落ちる。
まるで、見えない何かを見ているようだった。
「……大変、でしたね」
その一言で、胸の奥から何かが溢れ出しそうになった。
悲しみ。後悔。怒り。無念。
理由の分からない感情の奔流が、ひび割れた器から滲み出す。なのに俺自身は、それがどこから来たものなのか、まったく理解できない。
「……なんで、そんな顔するんですか」
俺の声は、少しだけ震えていた。
セリスは、微笑もうとして――やめた。
代わりに、深く、深く、頭を下げた。
「本当に……申し訳ありません」
神様が、頭を下げる。
その光景は、白い世界よりも現実感がなかった。
「あなたの魂は、とても強く、そして――」
言葉を選ぶように、彼女は続ける。
「傷ついています」
説明は、なかった。
でも、不思議と納得してしまう。理由は分からないのに、腑に落ちる。そういうこともあるらしい。人生、というか、魂ってやつは。
「転生は、止められません」
淡々と告げられたその言葉が、宣告だと分かる。
「だから、せめて――」
セリスは手を伸ばす。
触れられたわけでもないのに、頭の奥が静かに整理されていく感覚があった。知識が、形を保ったまま、深く沈んでいく。
「次の人生では、少しでも抗えるように」
祝福、と呼ぶには静かすぎる。
でも確かに、何かを託された。
「……俺は」
何かを言いたかった。
でも言葉になる前に、白が崩れ始める。視界が、ゆっくりと遠のいていく。
最後に見えたのは、セリスの――
泣きそうで、泣かない顔だった。
理由は分からない。
それでも胸の奥で、確かな想いが疼く。
――誰かを、幸せにできなかった。
その感情だけが、
ひび割れた魂に、深く刻まれたまま。
世界は、静かに反転した。
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