救済の勇者は、また目を覚ます  ―ひび割れた魂の転生譚―

神宮絵馬

第1話「幸福の直前で」

昼休みの教室は、窓を開け放ったせいで少しだけ騒がしさが和らいでいた。


初夏の風がカーテンを揺らし、グラウンドから聞こえてくる運動部の掛け声が、波の音みたいに断続的に流れ込んでくる。

机の上には、食べ終わったパンの袋やペットボトルが転がり、黒板の隅には消し忘れた数式が白く残っていた。


「だからそれは反則だって言ってるだろ!」


声を荒げているのは、小林智也だ。

机を寄せて作った即席の盤面の上で、チェスの駒が中途半端な位置に散らばっている。


「反則じゃねえよ。ルールの穴だ」


「開き直るな!」


「理論的に正しい」


「性格が悪いって意味だ!」


「はいはい、そこまで」


間に割って入ってきたのは、相川晴翔だった。


少し日に焼けた肌に、無造作なのに様になる髪。

カーディガンを肩に掛けた姿は、どこか余裕があって、教室の空気そのものが彼を中心に落ち着く。


このクラスの中心人物。

それを本人が自覚していないところが、また厄介だった。


「昼休みにそこまで本気出さなくていいだろ」


「相川まで来ると、俺が完全に悪者じゃん」


「安心しろ。今も十分そう見える」


「ひでえ!」


周囲からくすくすと笑い声が上がる。


「で、どっちが勝ってるの?」


新川和葉が、窓際の席から身を乗り出す。


逆光の中で、彼女の輪郭は少し柔らかく滲んでいた。


「今は智也。でも三手先は一玄」


「ほら!」


「納得いかねえ!」


相川が肩をすくめる。


「まあ、勝ち負けより、昼休みが平和に終わるかどうかの方が大事だろ」


その言葉に、なぜか胸の奥が少しだけ温かくなった。


僕らは、目立つ存在じゃない。

でも、クラスの端で孤立しているわけでもない。


こうして、当たり前みたいに笑っていられる。

それが、どれほど脆いものかなんて――

その時は、考えもしなかった。


放課後。

校舎の影が長く伸び、アスファルトに夕焼けが染み込んでいく。


相川は部活だと言ってグラウンドの方へ向かい、

智也は「寄るとこある」と軽く手を振って駅とは逆方向へ消えた。


残ったのは、僕と和葉だけ。


通学路沿いの街路樹が、風に揺れて葉擦れの音を立てている。

コンビニの自動ドアが開くたびに、電子音が遠くで鳴った。


「相川ってさ、本当にすごいよね」


和葉が空を見上げながら言う。


「自然に人が集まるっていうか」


「才能の無駄遣いだな」


「それ褒めてる?」


「半分くらいは」


くすっと笑う声。

歩調が、自然と揃っている。


他愛のない話を続ける。

テストの愚痴、智也のチェス癖、卒業したらどうするか。


夕暮れは、時間の感覚を曖昧にする。

この道を何度も歩いてきたはずなのに、

今日だけは、やけに一歩一歩が鮮明だった。


交差点の手前で、和葉が足を止める。


赤信号。


車のエンジン音が、低く重なっている。


「……ねえ、一玄」


胸の奥が、わずかに軋んだ。

嫌な予感じゃない。

ただ、前にも同じ場面を見た気がする。


「ずっと一緒にいたでしょ。智也と三人で」


和葉は、少し緊張した顔で、それでも逃げずにこちらを見ていた。


「でもね、私は――」


爆音。


視界の端で、ブレーキランプが赤く滲む。


金属がぶつかり合う音。

悲鳴。

衝撃で、信号機が信じられない角度に傾く。


車が、六台。


考えるより先に、体が動いた。


和葉の腕を引き、胸に抱き寄せる。


――ああ。


分かってしまった。


この瞬間が、

もうこれ以上、何も足さなくていい時間だということを。


衝撃。


世界が白く弾ける。


和葉の声が、遠ざかっていく。


最後に胸を満たしたのは、恐怖じゃない。


謝罪だった。


守ることはできた。

でも、一緒に笑う未来までは、連れていけない。


好きだった。

心から。


だからこそ――

幸せにできなくて、ごめん。

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