第3章 正しい関係は息苦しくなる

 あの夜の会話が、何かを決定的に変えたわけではなかった。


 坂口奈美さかぐちなみとの関係は、表面的には何も変わっていない。

 連絡の頻度も、会う間隔も、言葉の温度も、以前と同じだった。


 それでも、僕の中では、はっきりとした違和感が育ち始めていた。


 同じ場所に立っているはずなのに、

 同じ方向を向いていない気がする。


 仕事終わり、駅までの道を並んで歩きながら、奈美がぽつりと言った。


「この前の話、ずっと考えてました」


 その声は静かで、感情を抑えているように聞こえた。


「正しい恋愛って、何なんだろうって」


 僕は足を止めずにうなずいた。


「考えなくて済む答えじゃなかったから」


「そうですね……」


 少し間があって、奈美は続けた。


「あなたが言ってたこと、わかる気もするんです。正しい理由があると安心できる、って」


 胸の奥が、わずかに緩んだ。

 理解されたというより、向き合われた感覚だった。


「私、多分……安心したかったんだと思います」


 その言葉は、自己分析として正確だった。

 でも、そこから先の言葉は出てこなかった。


 奈美は、安心を手放す準備までは、まだできていない。


 信号待ちの間、奈美が僕を見て言った。


「でも、やっぱり怖いです」


「何が?」


「正しさがなくなったら、どこを基準に選べばいいのかわからなくなりそうで」


 その不安は、まっとうだった。

 恋愛を真剣に考えている人ほど、抱く感情だ。


「基準がなくなるわけじゃないと思う」


 僕は少し考えてから答えた。


「ただ、保証がなくなるだけで」


「保証……」


「正しいって言葉があると、間違えない気がするから」


 奈美はそれ以上、何も言わなかった。


 沈黙の中で、僕は理解していた。

 正しさを疑うという行為そのものが、関係を不安定にする。


 安心できる関係は、思考を止める。

 思考が動き出すと、安心は揺れる。


 それでも僕は、元の場所に戻ることができなかった。


 数日後、職場の昼休み。

 同僚たちの会話が、自然と耳に入ってくる。


「やっぱ内面で選ばないと後悔するよね」


「条件で始まる恋愛って、長く続かないし」


 誰に向けられた言葉でもないはずなのに、

 なぜか僕自身が試されているような気がした。


 ――ほら、みんなそう言ってる。


 そう囁かれているようだった。


 その瞬間、心の中に小さな誘惑が生まれる。


 正しい側に戻れば、楽になれる。

 何も考えずに済む。


 「そうだよね」と言えばいい。

 それだけで、この違和感から解放される。


 でも、僕は黙っていた。


 正しさに戻ることはできる。

 ただしそれは、考えることをやめる選択でもある。


 その夜、奈美からメッセージが届いた。


「あなたは、私といて安心できますか?」


 短い一文だった。

 でも、その裏にある不安は、はっきりと伝わってきた。


 安心。

 正しい恋愛を支える、いちばん大きな言葉。


 僕はスマホを握ったまま、しばらく動けなかった。


 「安心するよ」と返せば、関係は保たれる。

 嘘ではない。

 でも、それだけでは足りない気がした。


 打ち込んだ文字を一度消し、

 僕は正直な言葉を選んだ。


「安心する部分もある。でも、考えさせられることのほうが多い」


 送信した直後、胸の奥がざわついた。


 これで、何かが変わるかもしれない。

 少なくとも、以前と同じではいられない。


 数分後、返信が来た。


「……それって、悪いことですか?」


 その問いを見て、僕は息を吐いた。


 悪いか、良いか。

 正しいか、間違っているか。


 その二択に戻った瞬間、

 また同じ場所に引き戻される気がした。


「悪いとは思わない」


 そう返すまでに、少し時間がかかった。


「ただ、楽ではない」


 既読がついた。

 それ以上の返信は、しばらくなかった。


 画面を見つめながら、僕は思った。


 正しい恋愛は、静かだ。

 波風が立たない。

 考えなくていい。


 でも、考えない関係は、

 いつの間にか、誰かを置き去りにする。


 あの夜に生まれた小さな違和感は、

 もう消えなかった。


 それは壊れ始めた音ではなく、

 関係が動き始めた音だった。


 そして僕は、その音を、

 聞かなかったことにはできなくなっていた。

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