第2章 正しい恋愛って誰から教わった?

「あなたって、恋愛に慎重ですよね」


 坂口奈美さかぐちなみがそう言ったのは、

 仕事終わりに入ったカフェで、コーヒーが運ばれてきた直後だった。


「慎重、かな」


 僕はそう返しながら、曖昧に笑った。

 慎重というより、失敗したくないだけだと思っていたからだ。


「だって、すごくちゃんとしてる感じがします。付き合う理由とか、ちゃんと考えてそう」


 “ちゃんとしている”。


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけざわついた。

 褒め言葉のはずなのに、なぜか評価を受けている気がした。


「ちゃんとした理由、ね」


「大事じゃないですか?」


 奈美は当然のように言った。


「勢いだけで付き合う恋愛って、結局うまくいかない気がして。内面をちゃんと見て好きにならないと」


 僕は、しばらく黙った。

 反論したいわけじゃない。

 ただ、その言葉があまりにも完成されていて、どこから触れていいかわからなかった。


「内面って、具体的には?」


 僕がそう聞くと、奈美は少し考えてから答えた。


「優しさとか、誠実さとか。一緒にいて安心できる感じですかね」


 どれも正しい。

 反論の余地はない。


 でも、僕は聞いてしまった。


「それって、変わらないもの?」


 奈美は一瞬、きょとんとした表情を浮かべた。


「変わらない……って?」


「いや、優しさとか誠実さって、ずっと同じなのかなって」


 奈美は少し笑った。


「変わる部分もあるとは思いますけど……根っこはそんなに変わらないんじゃないですか?」


 根っこ。


 その言葉を聞いた瞬間、

 アドラーの一文が、頭をよぎった。


 ――性格とは、選び取られたライフスタイルである。


「もし、根っこも変わるとしたら?」


 僕がそう言うと、奈美は少し困ったように眉をひそめた。


「それって……ちょっと怖くないですか?」


「怖い?」


「だって、内面が変わるなら、何を信じて付き合えばいいかわからなくなる」


 その言葉を聞いて、僕は妙に納得してしまった。


 ああ、そうか。

 正しい恋愛は、安心のための構造なのだ。


「じゃあ聞くけど」


 僕は、少しだけ踏み込んだ。


「内面で好きになる恋愛は、正しいと思う?」


 奈美は、迷わずうなずいた。


「はい。少なくとも、私はそう思います」


「じゃあさ」


 コーヒーの表面が、かすかに揺れている。


「正しい恋愛をしている人は、必ず幸せになる?」


 奈美は、すぐには答えなかった。


「……必ず、ではないですけど」


「でも、正しいほうが間違えにくい?」


「そうですね」


 その瞬間、僕は気づいた。


 これは価値観の話じゃない。

 失敗を避けるための思想の話だ。


「君はさ」


 僕は、奈美の目を見て言った。


「恋愛で一番避けたいのって、何?」


 奈美は少し考えてから、静かに答えた。


「後悔、です」


 やっぱり、と思った。


「間違えたって思いたくない。自分の選択が浅かったって思いたくない」


 奈美は、否定しなかった。


「それって、悪いことかな」


「悪くはない」


 僕は正直に答えた。


「でも、そのために“正しい理由”を先に用意する恋愛って、本当に相手を見てるのかなって、少し思うんだ」


 奈美は、少しだけ身を乗り出した。


「それって……どういう意味ですか?」


「正しい理由があれば、安心できる。でも安心するための恋愛になった瞬間、ゴールが“関係を育てること”じゃなくなる気がして」


 沈黙が落ちた。


 奈美は、すぐには反論しなかった。

 でも、納得もしていない顔だった。


「あなたは、正しい恋愛が嫌いなんですか?」


 その問いは、少しだけ鋭かった。


「嫌いじゃない」


 僕は首を振った。


「ただ、正しさが目的になる恋愛は、少し息苦しい」


 奈美は、視線を落とした。


「……でも、正しさがなかったら、怖いです」


 その一言に、すべてが詰まっていた。


 正しい恋愛は、美しいから信じられているんじゃない。

 怖さを抑えるために、信じられている。


 アドラーの言葉が、胸に浮かぶ。


 ――人は、不安をなくすために行動するのではない。

 ――不安を避ける目的で、行動を選ぶ。


「君は、正しい恋愛をしたいんじゃない」


 僕は、ゆっくりと言った。


「間違えない恋愛をしたいんだ」


 奈美は、何も言わなかった。


 でもその沈黙は、否定ではなかった。

 考え始めた沈黙だった。


 この対話で、何かが壊れたわけじゃない。

 ただ、“正しさ”という前提に、ひびが入った。


 そして僕は、そのひびの先に、

 この物語の行き先があることを、なんとなく感じていた。

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