第4章 誰の課題を生きているのか

 坂口奈美さかぐちなみと会う約束をした日の午後、僕は仕事が手につかなかった。

 画面に向かいながら、頭のどこかでずっと、同じ問いが回っていた。


 ――自分はいま、誰の課題を生きているのだろう。


 それは、最近読み返しているアドラー心理学の本に出てきた考え方だった。

 自分の課題と、他人の課題を分けて考える。

 頭では理解できる。

 でも、それを恋愛の中で実行するのは、想像以上に難しかった。


 夕方、駅前で奈美と合流した。

 彼女はいつもと変わらない表情で、少し安心したように笑った。


「今日は、なんだか疲れてますね。あなた」


 その「あなた」という呼び方に、胸がわずかに揺れた。

 距離を測られているような気がしたのだ。


「そうかも」


 僕は正直に答えた。


 店に入って席に着くと、奈美はスマホをテーブルに伏せた。

 その仕草が、どこか意識的に見えた。


「最近、考えすぎですか?」


 奈美が、探るように聞いてくる。


「考えすぎ、かもしれない」


「でも、それって悪いことじゃないですよね」


 その言葉に、僕は少し驚いた。

 以前の奈美なら、「考えすぎなくていい」と言っていた気がする。


「ただ……」


 奈美は言葉を選びながら続けた。


「あなたが何を考えてるのか、わからなくなると、不安になります」


 不安。

 その言葉は、正直だった。


 僕は、その不安をどう扱うべきか、すぐには判断できなかった。

 慰めるべきか。

 説明するべきか。

 それとも、何もしないべきか。


 アドラーの言葉が、頭をよぎる。


 ――その感情は、誰のものか。


 奈美が不安を感じている。

 それは事実だ。

 でも、その不安を消すことは、僕の課題なのだろうか。


「奈美」


 僕は、ゆっくり口を開いた。


「不安にさせたいわけじゃない。ただ……全部を安心に変えることは、できない」


 奈美は、少しだけ目を伏せた。


「それは、私の問題ってことですか?」


 その問いは、責めるようでもあり、確かめるようでもあった。


「そう言い切るのは、冷たい気もする」


 僕は正直に言った。


「でも、僕ができるのは、嘘をつかないことだけだと思う」


 沈黙が落ちた。

 以前なら、この沈黙に耐えられなかったと思う。

 何か言って、埋めて、丸く収めようとしたはずだ。


 でも今は、違った。


 奈美は、しばらくしてから口を開いた。


「私、たぶん……安心できる恋愛をしたかったんだと思います」


 その言葉は、弱さを含んでいた。

 同時に、勇気も含んでいた。


「間違えたくなかったし、傷つきたくなかったし。正しい選択をしていれば、大丈夫だって思いたかった」


 僕は、うなずいた。


「それは、自然だと思う」


「でも」


 奈美は続けた。


「あなたと話してると、それだけじゃ足りない気がしてくる」


 その「足りない」という感覚は、

 僕が最近ずっと抱えているものと、よく似ていた。


 僕は、少しだけ踏み込んだ。


「安心できるかどうかは、奈美の感じ方だ。僕がコントロールできるものじゃない」


 奈美は、驚いたように僕を見た。


「それって……突き放してませんか?」


「突き放してるように聞こえるなら、ごめん」


 僕は一度、息を整えた。


「でも、全部を引き受けようとすると、僕は自分の気持ちを嘘で固めることになる」


 その言葉を口にした瞬間、

 胸の奥で、何かがほどけた気がした。


 奈美は、すぐには答えなかった。

 コーヒーを一口飲んでから、静かに言った。


「難しいですね。大人の恋愛って」


 その言い方は、少しだけ皮肉に聞こえた。


「たぶん、大人になるって、正解を持つことじゃない」


 僕は、そう返した。


「自分の課題を、自分で引き受けることだと思う」


 奈美は、しばらく考え込んだあと、小さく笑った。


「それ、怖いですね」


「怖い」


 僕も同意した。


 保証がない。

 正しさも、約束もない。


 それでも、自分の足で立つしかない。


 店を出ると、夜風が少し冷たかった。

 駅までの道を歩きながら、奈美が言った。


「あなたは……私に、どうしてほしいんですか?」


 その問いに、僕はすぐ答えられなかった。


 それは、奈美の課題に踏み込む問いでもあり、

 同時に、僕自身の弱さを試す問いでもあった。


「どうしてほしい、じゃない」


 少し考えてから、僕は言った。


「どうするかを、奈美が決めてほしい」


 奈美は、足を止めた。


「それって……選ばない可能性も含めて、ですか?」


 僕は、はっきりとうなずいた。


「含めて」


 その瞬間、奈美の表情が、かすかに揺れた。

 安心が崩れた音だった。


 でも同時に、

 誰かの人生を生きることから、一歩離れた音でもあった。


 電車が来る。

 奈美が乗り込む前に、振り返って言った。


「……考えます。ちゃんと」


「うん」


 それだけで、十分だった。


 電車が走り去ったあと、ホームに残った僕は、ひとり立っていた。


 誰の不安も引き受けていない。

 でも、自分の選択からは、逃げていない。


 それだけで、胸の奥に、静かな感覚があった。


 自由とは、

 好かれることではなく、

 嫌われる可能性を引き受けることなのかもしれない。


 僕はそう思いながら、

 改札へと歩き出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

2026年1月10日 18:00
2026年1月12日 18:00
2026年1月14日 18:00

正しい恋愛?―正しさに縛られた恋愛について 漥塚󠄁 亞禮 @KUBOZUKA__tt

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画