第9話 静かな再生のキッチンで —— 父の欠落と里芋の火
9-1. 三年間の空白と、障害年金という「ポイ」
自殺未遂という「幕間」を経て、私は三年に及ぶ引きこもり生活に入った。
外に出る理由は霧散し、人と話す気力は枯れ果てていた。昼夜は逆転し、一日のサイクルという概念さえ消失した。布団から出るのは、膀胱が限界を迎えた時か、空腹に耐えかねた時だけだ。
その頃から、私は「厚生障害年金」を受給し始めた。
それは、社会という戦場からの公式な敗北宣言であると同時に、微かな生存権の保障でもあった。
「もう、仕事はポイしよう」
そう決めた。戦うことをやめ、ただ息を吸って吐くだけの肉体になる。それはずるい生き方なのかもしれない。けれど、そうしなければ私の細い精神の糸は、今度こそ完全に切れてしまうところだった。
9-2. ステージ4の宣告
そんな停滞した日々を破ったのは、父の病だった。
「胃がんだ」
告げられた病名は、あまりに重かった。ステージ4。手術の結果、父は胃を全摘出することになった。
術後の父は、見る影もなく痩せ細った。抗がん剤の影響で髪は抜け落ち、体力は底をつき、食べられるものも極端に制限された。
「長くはないかもしれない」
家族の間にそんな覚悟が漂う中、私は相変わらず何もできない自分に、猛烈なイライラを募らせていた。動きたいのに動けない、助けたいのに助け方がわからない。その焦燥が、家の中の空気をさらに重くしていた。
そんな時、母が言った。
「そんなにイライラするくらいなら、あなたが作れば?」
キッチンの全権を私に譲る、という唐突な提案だった。
キッチン……そこなら、私をいじめる奴はいない。私の指を砕く上司もいない。私はふっと、導かれるようにエプロンを締めた。
「せめて、父が食べられるものを作ってみようか」
これまで散々迷惑をかけてきた。その「負債」を少しでも返したいという、人間らしい感情がようやく私の中に芽生え始めていた。
9-3. 里芋グラタンが溶かした氷
最初は手探りだった。胃がない人間にとって、何が負担になり、何が栄養になるのか。私は貪るように知識を吸い込み、試作を繰り返した。
不思議なことに、包丁で食材を刻む規則正しい音や、煮物の湯気の温かさに触れていると、脳内の雑音が消えていった。料理は、私にとっての「動の瞑想」だった。
ある日、ふと思いついて作ったのが「里芋グラタン」だった。
里芋を昆布だしでゆっくりと、芯まで柔らかく煮る。ほんの少し、醤油をひと垂らしして風味をつける。その上からシュレッドチーズをたっぷりと乗せ、オーブントースターでこんがりと焼き目をつけただけの、素朴な一皿。
「あの芋のやつ、今日もできるか? あれは胃がなくても食べられるから、ホッとするよ」
父のその言葉を聞いた時、私の中で凍りついていた何かが、音を立てて溶け出した。
「うまいな、お前が作ったのか?」
その一言が、かつての汚水や罵声で汚れきっていた私の自尊心を、静かに洗い流してくれた。
誰かのために、何かを作る。それは「人としての輪郭を取り戻す」作業そのものだった。
あれから十五年。父は今も、元気に生きている。医学の力はもちろん、私の料理を食べようとしてくれた父の心の力が、奇跡を起こしたのだと私は信じている。キッチンは、私にとっての「聖域」であり、再生の場所となった。
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