第8話 鉄格子の向こう側の静寂 —— 閉鎖病棟の煙
8-1. 剥奪される自律
鉄の扉が閉まった瞬間、私は「〇〇という名の女性」であることを辞めさせられた。
ここでは、紐のついた服は許されない。自ら首を括る道具になるからだ。愛用していた化粧品も、ガラスの容器が凶器になるという理由で没収された。ベルトも、カミソリも、ライターも。
残されたのは、支給された味気ない病衣と、名前の書かれたプラスチックのコップだけ。
閉鎖病棟の空気は、独特の匂いがする。
消毒液と、古い埃と、そして何より、大勢の人間が「生きることを諦めかけている」ときに発する、重く淀んだ湿り気だ。
廊下を歩けば、壁に向かって独り言を呟き続ける老人や、虚空を見つめたまま彫像のように動かない若者とすれ違う。
彼らは私の鏡だった。私は彼らであり、彼らは私だった。ここでは、狂気こそが唯一の正装だった。
8-2. 夫の背中、遠のく日常
週に一度の面会日。
夫は、小さな紙袋に必要な着替えや本を詰めてやってきた。
アクリル板越しに見る彼は、外の世界の光を纏っていて、あまりに眩しかった。仕事の話、街の様子、B'zの新曲のニュース。
彼は一生懸命に私を「あちら側」へ繋ぎ止めようとしていた。
「早く元気になって、また一緒にライブ行こうな」
その言葉を聞くたび、私の胸は感謝ではなく、鋭いナイフで抉られるような罪悪感に支配された。
(ごめんなさい。私はもう、あの光り輝く場所には戻れない。私はもう、子供も産めない、まともに家事もできない、ただの『壊れた機械』なんだ)
面会時間が終わり、彼が背中を向けて去っていく。
その足取りが、心なしか以前より重く、疲弊しているように見えた。私の存在が、彼の人生をじりじりと侵食し、泥沼に引きずり込んでいる。
「……もう、私を捨てていいよ」
届かない呟きは、監視カメラの見守る無機質な待合室に虚しく消えた。彼との絆を自ら断ち切ろうとする「うつの囁き」が、私の脳内で日に日に大きくなっていった。
8-3. 喫煙所の「生」の匂い
病棟の生活は、一分一秒が永遠のように長かった。
思考は薬でぼんやりと霞み、感情の起伏さえも去勢されていく。そんな中、唯一私が「自分」を確かめられる場所があった。
それは、一日に数回、看護師の監視のもとでだけ許される、屋外の小さな喫煙所だった。
冬の、刺すような冷気。
私は看護師からライターを借り、震える指で一本のタバコに火をつけた。
「ふう……」
肺の奥深くに流れ込む、熱くて苦い煙。
その瞬間、痺れていた感覚が鮮烈に蘇った。
タバコの煙の匂い。鼻先をかすめる冬の風の匂い。そして、隣で同じようにタバコを燻らす、名もなき患者たちの生々しい体臭。
そのとき、ふと思ったのだ。
いじめの時に浴びせられた汚水の臭い。
指を砕かれた時の、鉄の錆びた匂い。
あの地獄のような痛みの中で嗅いできた「嫌な匂い」も、今この瞬間に感じている「タバコの匂い」も、すべて私が「生きている」からこそ感じられるものなのだ、と。
「……臭いな、ここ」
隣に座っていた、腕に無数の傷跡がある若い女性が、不意に笑って言った。
「本当、臭いですね」
私は生まれて初めて、病棟の中で本気で微笑んだ。
死にたがっている人間が集まるこの場所で、皮肉にも、私はタバコの煙という「不純物」を通じて、自分の生命の拍動を再確認していた。
白菊が枯れ、黒薔薇が散っても、その根っこにある「泥」は、まだ栄養を蓄えて私を現世に繋ぎ止めている。
8-4. 筆を執る、指先からの逆襲
入院から数ヶ月。少しずつ薬の調整が進み、脳内の霧が晴れ始めたある夜。
私は看護師に頼んで、ノートとボールペンを貸してもらった。
ADHDの特性で、思考は相変わらず支離滅裂に飛び火する。
双極性障害の余波で、時折、筆が止まるほどの虚無感が襲う。
砕かれた指は、今も冬の寒さに疼き、ペンを握る力を奪おうとする。
けれど、私は書いた。
私を嘲笑った美沙のこと。私を壊した上司のこと。子供を産めない自分のこと。
そして、今ここでタバコの煙を吐き出している自分のこと。
言葉を紙に叩きつけるたび、私の中に溜まっていた濁水が、少しずつ、少しずつ濾過されていくのを感じた。
「書くこと」は、私にとっての復讐であり、鎮魂であり、そして唯一の「呼吸」だった。
退院の朝。
私はあの重厚な鉄の扉の前に立った。
ガチャリ、と鍵が開く。
外の世界には、相変わらず解決しない問題が山積みで、夫との関係も、将来の不安も、病との付き合い方も、何一つ明確な答えは出ていない。
けれど、私はもう、あの入学式の時のように、ただ汚水を浴びて震えるだけの少女ではなかった。
ノートに書き溜めた数万の言葉という「武器」を持って、私は再び、色彩を失いかけた世界へと足を踏み出した。
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