第7話 ほんの少しの幸せ、そして崩壊の始まり —— 灰色の家庭


7-1. B'zが繋いだ縁、都会という名の逃避行


人生という泥濘を這いずり、ボロ雑巾のように擦り切れていた私に、運命は一度だけ甘い毒のような微笑みを投げかけた。

きっかけは、やはりB'zだった。

ライブ会場の、耳を劈くような大音響と数万人の熱狂の中。隣の席で、私と同じフレーズで拳を突き上げ、同じバラードで涙を流していた男性。それが、後に私の夫となる人だった。

「すごいライブでしたね」

終演後の高揚感の中で交わした言葉は、驚くほど自然に私の心の奥底へと浸透していった。

彼は、私がこれまで出会ってきたどの人間よりも穏やかで、凪いだ海のような人だった。

私は、自分の隠しておきたい過去のすべて――小学校からの壮絶ないじめ、ADHDゆえの生きづらさ、そして「双極性障害」という名の呪い――を、祈るような気持ちですべて曝け出した。

彼は顔色一つ変えず、少しだけ照れたように笑って言った。

「仕事柄、変なことされても大丈夫なように訓練してるからさ。君がどんな波の中にいても、俺は酔わないよ」

その言葉は、凍りついていた私の魂に灯された、初めての温かな火だった。

私たちは結婚し、私は住み慣れた岐阜の山あいを離れ、彼の待つ東京へと移り住んだ。

高層ビルが空を削り、無機質な喧騒が街を覆う都会。けれど、彼と手を繋いで歩くその景色は、私には約束の地のように輝いて見えた。

通院は続いていたが、新しい環境への期待が「軽躁」の波と上手く噛み合ったのか、私の心は奇跡的な安定を保っていた。

(ああ、ようやく、私も『普通の人』として、誰かに愛されて生きていけるんだ)

そう信じて疑わなかった。



7-2. 枯れた胎内、石女(うまずめ)の宣告


結婚して三年。穏やかな日々の中で、私たちは自然と「家族」を増やすことを考え始めた。

彼に似た、穏やかな目をした子供。私が受けたような地獄とは無縁の、光の中で育つ命。

けれど、月日は無情に過ぎ去り、私の胎内に新しい鼓動が宿ることはなかった。

焦りと不安に突き動かされ、訪れた産婦人科。

消毒液の臭いが充満する白い診察室で、医師はモニターから目を離さず、事務的な、あまりに冷酷な口調で事実を告げた。

「検査の結果ですが……自然妊娠は極めて難しいでしょう。あなたのこれまでの服薬履歴や精神的負荷も、無関係とは言えません」

その瞬間、頭の中で「バリン」と何かが砕ける音がした。

「……嘘でしょう。私は、母親にさえ、なれないんですか?」

あんなに傷だらけの子供時代を送り、あんなに汚水を浴びせられ、あんなに必死に指が動かなくなるまで働いてきたのに。ようやく辿り着いた安住の地で、最後に欲しかった「血の繋がった絆」さえ、神様は私から剥ぎ取るのか。

絶望は、激しい嵐ではなく、氷のように冷たい霧となって私の肺を満たしていった。



7-3. 鏡の中の死神、崩壊の朝


数週間後、異変は決定的な形となって現れた。

五感が、一枚の分厚い鉛の壁に隔てられたように死んでいく。

テレビをつけても砂嵐のような雑音にしか聞こえず、夫が作る料理も、口に入れると砂を噛んでいるようで味がしない。

世界から色が消え、すべてが灰色の濃淡だけで構成された「死の風景」に変わった。

ある朝、洗面所の鏡の前に立った私は、自分の喉を掻き切らんばかりの悲鳴を上げそうになった。

そこに映っていた、生気のない目をした、土色の肌の女。

それが誰なのか、分からなかったのだ。

「これ、私なの? なんで死んでる人がここにいるの?」

自分の輪郭が溶け、境界線が消失していく恐怖。私は冷たいタイルの上にうずくまり、子供のように、あるいは獣のように、声を上げて泣き続けた。

「もうダメだ。私は壊れた。私は、最初から壊れていたんだ」

その言葉が、頭の中で壊れたレコードのように永遠に繰り返される。

仕事から戻った夫は、抜け殻のようになった私を抱きしめた。だが、その腕の温かささえも、今の私には「生きている人間」の嫌悪すべき生々しさにしか感じられなかった。

7-4. 閉鎖病棟、冷たい鉄の重奏

「このままだと、ご自身の命を守りきれません。……即日、入院が必要です。それも、閉鎖病棟への」

立川市にある巨大な精神科病院。医師の宣告に、もはや反論する力は一滴も残っていなかった。

夫は、私の荷物をまとめるために一度家へ戻り、私は車椅子に揺られながら、病棟の奥へと運ばれていく。

重厚な、窓のない廊下を通り、突き当たりの扉の前に立つ。

看護師が腰につけた巨大な鍵の束をガチャリと鳴らし、分厚い鉄の扉を開いた。

私が入った直後、背後で響いた「ドォォン」という重く、深い、逃げ場のない音。

それは、社会という世界から私が完全に抹殺されたことを告げる、最期の弔鐘だった。

私は自分が、本当に、修復不可能なまでに壊れたことを、その鉄の響きによって自覚させられたのだ。

白菊は凍りつき、黒薔薇は己の棘で自らを刺し貫いた。

その先に待っていたのは、光の一切届かない、深い深い精神の深海だった。

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