第2話 あなたさえいなければ〜黒薔薇の棘〜
2-1. 女王の温室と透明な檻
小学校五年生の春。教室の窓から差し込む陽光は、埃をキラキラと反射させ、一見すれば平和な午後のひとときを演出していた。しかし、私にとってその光は、逃げ場のない檻を照らし出すスポットライトに過ぎなかった。
クラス替えの掲示板の前で、私は自分の心臓が凍りつく音を聞いた。
「あ、また一緒だ。よろしくね、〇〇さん」
背後からかけられた声は、鈴を転がすような美しさを持っていても、その実、芯まで凍りつくような冷気が宿っていた。
彼女の名は、高城美沙(仮名)。
この地域一帯の大地主の娘。成績優秀、スポーツ万能。大人たちの前では、春の陽だまりに咲く白菊のように清廉な「優等生」を完璧に演じ分ける少女。
だが、私に見せる彼女の顔は違った。
彼女は、日当たりの良い温室で育てられた「黒薔薇」だった。優雅な花びらの裏側に、触れる者を確実に化膿させる、鋭く毒に満ちた棘を隠し持っていた。
体格が良く、中学生かと見紛うほど大人びた顔立ちの彼女は、クラスの女子の頂点に君臨していた。彼女が右と言えば、たとえ左に真実があっても、世界は右に回る。
彼女の機嫌一つで、教室の気圧は変わり、誰が「人間」で、誰が「石ころ」になるかが決まった。
彼女の視線が、ふと私を捉える。
その瞳の奥には、好奇心も共感もない。ただ、自分を輝かせるための「背景」として、私という存在を査定するような、冷ややかな計算だけが宿っていた。
彼女に目をつけられたが最後、卒業という名の刑期満了まで救いはない。
それが、この教室に公然と存在する、血も涙もない「暗黙の法」だった。
2-2. 嘲笑のオーケストラ
「ねえ、また忘れ物? 本当、あんたの頭の中ってどうなってるの?」
国語の時間。筆箱を家に置いてきた私に、美沙の冷徹な声が突き刺さる。
彼女の声は、決して怒鳴り声ではない。むしろ、可哀想な子を教え諭すような、慈悲深いトーンを装っている。それが一番、タチが悪かった。
「……ごめんなさい」
「謝るより先に、その汚い字、どうにかしたら? ウケるんだけど、それ本当に日本語? ミミズの死体みたい」
美沙が優雅にクスクスと笑うと、それを合図に教室中が爆笑の渦に包まれる。
「本当だ、気持ち悪い!」「幼稚園からやり直せばいいのに」
嘲笑のオーケストラが、私の鼓膜を容赦なく叩く。
ADHDという特性ゆえの不注意。整理整頓ができない、忘れ物をしてしまう、集中力が途切れる。
それらは私にとって、努力でどうにかできる範疇を超えた「脳の悲鳴」だった。
けれど、美沙の手にかかれば、それはすべて「怠慢」であり「異常」であり、笑ってもいい「コンテンツ」へと変換された。
美沙は、教師たちの前では「困っている子を放っておけない、しっかり者の美沙ちゃん」を演じきっていた。
先生さえも、「美沙さんに嫌われないように、あなたももう少し努力しなさいよ」と、冗談めかして私に言った。
その言葉が、私の首に巻かれた見えない鎖をどれほど強く締め付けているかも知らずに。
大人は誰も助けてくれない。この温室の中では、黒薔薇の棘に刺されて流す血は、誰の目にも見えない透明な色をしていた。
2-3. 密室の冷たい雨
「……また、あの視線だ」
休み時間、美沙たちのグループが私を「観察」していることに気づく。彼女たちは獲物の逃走経路を塞ぐように、ゆっくりと円を描いて近づいてくる。
私は本能的な恐怖に突き動かされ、逃げるように席を立ち、トイレへと向かった。
誰にも気づかれないように、足音を殺して、影に紛れるように。
けれど、飢えた蛇は獲物の逃走を許さない。
トイレの個室に入り、鍵をかける。
わずか一畳にも満たないこの空間だけが、私が「変な子」でいなくて済む唯一の聖域だった。
だが、その安らぎは、隣の個室から漏れ聞こえる低い囁き声によって、一瞬で砕け散った。
「入った?」
「うん。今、準備できた」
嫌な予感が背筋を氷のように走り抜ける。
見上げると、個室の仕切りの隙間から、プラスチックのバケツの縁がせり出していた。
「……やめて」
声が出るより先に、バシャッという重苦しい音と共に、頭上から大量の液体が降り注いだ。
「――っ!!」
息が止まった。
冷たい。そして、耐え難いほどに腐敗した臭い。
それは、放課後の掃除の時間に使い古された、真っ黒な雑巾の搾り汁だった。
砂利と、埃と、誰かの泥靴の汚れ。そして長期間放置されて酸敗した雑巾の臭い。
その汚水が私の髪を濡らし、白かったブラウスを透過して、じりじりと肌にへばりつく。
一瞬で、私の世界は真っ黒に塗りつぶされた。
「あーあ、手が滑っちゃったー。ごめーん、汚れちゃった?」
扉の向こうから、美沙の、わざとらしい、演技がかった明るい声が響く。
「でも、元から汚いから一緒だよね? 綺麗になってよかったじゃん」
「美沙ちゃん、面白すぎ!」
取り巻きたちの、甲高い笑い声。
去っていく軽やかな足音を聴きながら、私は冷え切った便座の上で、声もなく震えていた。
汚水が目に入り、視界が滲む。
涙なのか、汚泥なのか、もう分からない。
私は、この汚れを一生、洗い流せないのではないか。
この臭いは、私の魂に染み付いて、二度と消えないのではないか。
そんな根源的な恐怖が、幼い心に深く、深く、呪いの楔を打ち込んでいった。
2-4. 終わりのないトンネル
制服を水で拭い、震える指で髪を整え、何事もなかったかのように教室へ戻る。
教室では、美沙が教壇で先生の手伝いをしていた。
「先生、このプリント、枚数足りないみたいです。私が職員室まで取りに行ってきましょうか?」
「助かるわ、美沙さん。本当にあなたがいれば安心ね」
先生の笑顔。美沙の謙虚な微笑み。
その美しい、完成された光景の背後で、私の髪からはまだ雑巾の死臭が漂っている。
私は、美沙がなぜ私をターゲットにするのか、その理由をずっと考えていた。
今ならわかる。
彼女にとって、私は「感情のゴミ箱」だったのだ。
大地主の娘として、常に「完璧な優等生」という仮面を被り続けなければならない彼女にとって、何をやってもダメで、落ち着きがなく、社会の枠組みから絶えずはみ出してしまう私は、自らの「優越感」を確認し、内なるストレスを排泄するための、最高に都合のいい道具だったのだ。
この日から、いじめはさらに巧妙に、そして執拗になっていった。
上履きの中に画鋲を入れるような、目に見える嫌がらせはもう古い。
「みんなが避けてるよ」「あなたが来ると空気が腐る」
そんな、精神の根幹を、生木を削るように削り取る「言葉のナイフ」が、毎日毎日、私に向かって投げつけられた。
そして、その言葉のナイフは、いつしか私の心の一部となってしまった。
美沙がいなくても、自分自身が自分に「お前は死ね」「お前は生ゴミだ」と囁き続ける。
自己評価は底を突き、私は自分の輪郭さえも見失っていった。
「あなたさえいなければ」
その言葉は、美沙に向けた殺意であり、同時に、自分自身に向けられた絶望的な呪詛でもあった。
ADHDという、まだ名前さえ一般的ではなかった特性のせいで、私の人生という白紙は、黒いインクで無惨に汚されていく。
この長い、あまりにも長い暗黒のトンネルは、気がつけば高校を卒業するまで、私の人生を侵食し続けることになる。
そして、その果てに待っていたのは、さらなる心の嵐――「双極性障害」という、脳が奏でる不協和音の狂詩曲だった。
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