白菊と黒薔薇を凍らせて砕け

沢田柚美子

第1話 色のない入学式

 1-1. 半世紀の断崖


 五月の空は、暴力的なまでに透き通っている。

 岐阜の山あいに広がるゴルフ場。手入れの行き届いたグリーンの上を、若草の香りを孕んだ風がなでていく。その風が私の頬をかすめるたび、皮膚の裏側に張り付いた古い記憶が、薄氷が割れるような音を立てて剥がれ落ちる。

「……よし。今日も、大丈夫だ」

 独り言がこぼれる。誰に聞かせるわけでもない、自分という存在をこの現世に繋ぎ止めるための、短い呪文。

 現在、私は五十歳。半世紀という月日の断崖に立っている。

 今の私の心は、いわば「凪」の状態だ。

 二十代の、あの身を焼き尽くすような渇望――何者かにならなければ死んでしまうという、病的な焦燥があるわけではない。かといって、底なしの泥沼に沈み込み、太陽の光さえも拒絶していたあの頃の絶望に支配されているわけでもない。

 認知症の影が忍び寄り、かつての鋭さを失いつつある母への言いようのない不安。ライターとしての締め切りという、ささやかな社会的責任。そして、ゴルフ場での立ち仕事がもたらす、心地よい肉体の疲労。

 それら日常のさざ波は絶えずあるものの、趣味の「一五一会」を爪弾き、好きな音楽に没頭できる時間がある今の暮らしは、かつての私――精神病院の鉄の扉の向こう側にいた私――からすれば、天国を通り越して奇跡に近い。

 しかし、この静かな海面の下には、今もなお、嵐が掻き乱した「泥」が沈殿している。

 私の半生は、使い古されたボロ雑巾のように、何度も何度も引き裂かれ、絞られ、泥水に浸され、振り回されてきた。

「双極性障害II型」という名の海流。そして「ADHD」という名の、制御不能な羅針盤。

 それらが私の人生に、予測不能な高波と、すべてを奪い去る引き潮をもたらした。

 その嵐の「起点」を辿れば、あの、すべてが白く霞み、色彩を失っていた入学式の日に突き当たる。私の物語は、そこから始まった。


 1-2. 処刑台の教室


 昭和の終わり。校門の桜はすでに散り、冷たい土の色だけが目立っていた。

 卸したての制服。糊のきいた硬い襟が、私の首筋を執拗にチクチクと刺激する。それはまるで、これから始まる「矯正」という名の儀式に備え、私の肉体を縛り上げる拘束具のようだった。

 小学校の入学式。

 先生の単調な話が続く中、下腹部にツンとした鋭い痛みが走った。

 尿意。それは突然、明確な敵意を持って私を襲った。

 ADHD。

 当時はそんな言葉も、概念もなかった。

 私の脳内は、常に多重放送のラジオが鳴り響いているような状態だ。窓の外で揺れる木の葉の枚数、誰かが鉛筆を落とした音、天井の蛍光灯の微かな唸り。すべての情報が優先順位をつけられぬまま、濁流となって脳を支配する。

 脳が「今」という瞬間に耐えきれず、絶えず外部への刺激を求めて暴れ出す。

「……ううっ」

(トイレに行きたい。今すぐ、ここから逃げ出したい)

 私は震える小さな手を上げようとした。

 けれど、六歳の私の背後には、ピンと張り詰めた教室内特有の沈黙と、背後に整列する大かのように思えた。

 もじもじと身をよじるたび、新品の制服が擦れる音が、教室内で爆音のように響いている気がした。

 限界は、唐突に、そして決定的に訪れた。

「……先生、トイレ、行きたいです」

 消え入るような、震える声で絞り出した。

 教壇に立つ女性教師が、ゆっくりとこちらを向く。

 私はそこに、慈愛に満ちた救いの手を期待した。

 だが、彼女が私に向けたのは、冷徹な拒絶と、異分子を排除しようとする冷たい光だった。

「今はダメです。みんな静かに座っているでしょう? そこで漏らしなさい」

 冗談だと思った。

 六歳の子供を諭すための、厳しい「しつけ」の言葉だと思った。

 けれど、眼鏡の奥の先生の目は笑っていなかった。彼女にとって、私は神聖な入学式を汚す「出来の悪いノイズ」に過ぎなかったのだ。

 そして、その言葉通り、私は温かい液体が新品の制服を、そして椅子を濡らしていく絶望を味わうことになる。保護者たちが最後列で息を潜めて見守る教室の中で、私は必死に「静止」しようとしていた。

 だが、当時の私にとって、じっと座り続けることは、水中で息を止め続けるのと同じくらい、生物学的に不可能な苦行だった。


 1-3. 黄金の液体の絶望


 温かかった液体は、瞬時に冷たくなり、鋭い刃となって私の自尊心を切り裂いた。

 床に広がる黄金色の水たまり。

 それを目にした周囲の子供たちの、息を呑む気配。

 背後の保護者たちの、哀れみと軽蔑が混ざり合った、粘りつくような視線。

 私は、その場に崩れ落ちることも許されなかった。

「自分で汚したんでしょう。片付けなさい!」

 先生の言葉が、死刑宣告のように響く。

 フォローの一言もない。保健室への誘導もない。ただ、雑巾を渡され、床を拭く私を高い場所から見下ろして、彼女は吐き捨てた。

「そんなこともできないなら、幼稚園に帰りなさい。あなたは、ここには相応しくないわ」

 その瞬間、私という存在の土台に、取り返しのつかない巨大な亀裂が入った。

 私の「白菊」のような無垢な子供時代は、この瞬間に枯れ、泥の中に踏みにじられたのだ。

「私はここにいてはいけない。汚れた、変な子なんだ」

 床を這い、自分の排泄物を拭い去るその光景。

 それは、私がこれから数十年間にわたって、他人の悪意や自分の病が撒き散らす「泥」を、ひたすら一人で拭い続けなければならない人生の縮図だった。

 この日、私が受け取ったのは、義務教育への招待状ではない。

 それは、地獄の最下層から届いた、長い長い物語への招待状だった。

 そしてその物語の次なる章には、私を「黒薔薇」の棘でズタズタに引き裂く、一人の女王が待ち構えていた。

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