第3話 心を壊していく静かな音 —— 凍りつく日常
3-1. 終わらない連鎖と肉食獣の閃光
小学校の卒業式、私は祈るような心地で校門をくぐった。
(どうか、あの子と違う中学校になりますように。私を知らない人たちの中で、新しい、汚れのない呼吸ができますように)
その祈りは、入学初日、掲示板の前で無惨に砕け散った。
高城美沙。その名は、私のわずか三つ隣に並んでいた。彼女は、まるで私がそこに現れるのをあらかじめ知っていたかのように、背後に音もなく立ち、私の耳元でニヤリと笑った。
「またよろしくね。仲良くしようね?」
その瞳の奥に宿っていたのは、再会を喜ぶ級友の光ではない。獲物を追い詰め、これからどうなぶってやろうかと算段する肉食獣が放つ、冷酷な悪意の閃光だった。
その瞬間、私の中学生活は、始まる前に「死」を宣告された。
地獄は、小学校の頃よりも巧妙に、そして加速度を増して再開された。
一ヶ月後、部活動の勧誘会でのことだ。
「ねえ、何部に入るの?」
美沙に問われ、私は震える声で「テニス部……」と答えた。それがすべての引き金だった。
「ペニス部? すごーい! おちんちんしゃぶる部活なんだー!」
彼女の甲高い声が、静かな廊下に響き渡った。
その卑猥で残酷な揶揄は、瞬く間に校内を駆け巡った。休み時間、廊下ですれ違うたびに、面識のない生徒たちが私を見て合唱を始める。
「ペニス! ペニス! ペニス!」
一時間、いや、永遠とも思える時間、私は全校生徒の視線からその言葉を浴びせ続けられた。
逃げ場などなかった。教室の隅で凍りつき、感覚を麻痺させることでしか、私は自分を守れなかった。心のシャッターを降ろし、自分は石であり、泥であり、何も感じない無機物であると思い込もうとした。
嫌がらせは、もはや日常の風景へと溶け込んでいった。
配膳の途中で足をかけられ、給食のカレーが私の机を、ノートを、制服を汚す。
筆箱を開ければ、中身は空。放課後、トイレの便器の中に浮かんでいるお気に入りのシャーペンを見つけるのが日課になった。
教科書のページ一枚一枚には、給食のバターが塗りたくられた。油を吸って透明になった文字。ページをめくろうとしても、ベタベタと腐った脂の感触が指にまとわりつく。
「先生、教科書が……」
勇気を出して言っても、担任は「自分の管理不足だ」と一蹴した。
新しい教科書など、どこからも支給されなかった。私は、透明になった文字を、自分の消えかかった存在証明のように眺めるしかなかった。
3-2. 制服の解体と公開処刑
ある夏の午後、教室の裏側で美沙は私の制服の袖を掴んだ。
「あんたさ、この制服、全然似合わないんだよね。滑稽だよ。見てるだけで吐き気がする」
彼女の取り巻きたちが、慣れた手つきで私の両腕を押さえつける。
美沙の手には、工作用のハサミが握られていた。ナイフのような鋭利な凶器ではない。どこにでもある文房具という「日常」を使って、彼女は私の尊厳を切り裂き始めた。
「ちょきん、ちょきん」
リズムよく、硬い制服の布地が切れる音が耳元で響く。切り取られたスカートの裾が、汚れた床にバサリと落ちていく。
切り口がガタガタになった布の隙間から、私の生白い脚と下着が露わになる。
抵抗しても無駄だということを、私の体はすでに学習してしまっていた。
私はただ、石像のように固まっていた。
心のどこかで、プツンと音を立てて何かが千切れた。
それは、自分を「人間」だと思っていた、最後の一本の糸だった。
「いい加減にしなさい!」
廊下を通りかかった保健室の先生が、ようやくその蛮行を止めた。
震える私を連れて、先生は保健室へ向かう。ようやく救われる、誰かが私を抱きしめてくれる。そう思った。
だが、温かいお茶を出してくれるはずの先生が、カーテン越しに吐き捨てたのは鋭い礫(つぶて)だった。
「……あなたも、ちょっと厄介ね。これ以上、騒ぎを起こさないで。迷惑なのよ」
あの言葉は、掃除の汚水を浴びせられるよりも冷たかった。
「お前は助ける価値のない、面倒な存在だ」
社会から公式にそう突き放されたような気がして、私は保健室の硬いベッドの上で、声を殺して泣くことさえ忘れていた。
3-3. 凍りついた食卓
家は、もはや安息の地ではなかった。
ある夜、私は食卓で母の背中に向かって、絞り出すように言った。
「……学校に行きたくない。いじめられて、もう死にたい」
母は振り返りもせず、淡々と味噌汁を注ぎながら返した。
「あんたにも、何か原因があるんじゃないの? 休んだら相手の思う壺よ。負けちゃダメよ」
私はその時、本当の意味での「孤独」を悟った。
世界中に、私の味方は一人もいない。
私のADHDという特性も、そのせいで起きるつまずきも、今にも壊れそうな心も。それらはすべて、私一人の「わがまま」や「努力不足」として処理されていく。
それからだ。死ぬことだけが、唯一の出口に見え始めたのは。
自室でカッターの刃を腕に当て、その銀色の冷たさに安堵を感じる。
通学路にある歩道橋。その欄干から、絶えず流れる車の列を見下ろす。
(今、この切り刻まれたスカートの裾が揺れるまま、一歩踏み出せば、明日の朝は来ないのに)
何度もそう思った。けれど、私は次の日も、その次の日も、死んだ魚のような目で制服を着た。
「負けたくない」
それは希望ではない。ただの執着だった。
今がずっと続くという絶望。けれど、学校に行くことをやめたら、私という人間が跡形もなく消えてしまうような気がして、私は壊れた心をつなぎ合わせ、自分を殺しながら教室へ向かい続けた。
私の心は、この時すでに、厚い氷に覆われていた。
その氷をさらに鋭く、冷たく研ぎ澄ませていくのは、これから訪れる「躁うつ」という名の荒れ狂う季節だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます