第三話 その花は呼吸をしない
赤く染まった空は、数分もしないうちに元に戻った。
教師は夕焼けだと言った。
角度の問題だとも付け加えた。
誰も深くは追及しなかった。
騒いでいたのは最初だけで、教室はすぐにいつもの空気に戻る。
雄和だけが、戻れなかった。
⸻
帰宅すると、部屋の空気が微妙に違っていた。
湿っているわけでも、匂いがあるわけでもない。
だが、何かが増えている。
机の上の花瓶。
その中で、花は相変わらず動かない。
「……。」
雄和は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
花は呼吸をしない。
少なくとも、目に見える形では。
水は減らない。
日光を当てても、反応はない。
それでも、枯れない。
「普通じゃない。」
口に出すと、言葉だけが部屋に落ちた。
⸻
雄和は、簡単な実験を始めた。
机の上に置いたまま、丸一日放置する。
次に、窓際に移す。
夜はカーテンを閉める。
何も変わらない。
ならば、と台所へ向かった。
夕飯の後に残った、生ごみ。
魚の皮、骨、脂。
ビニル袋に入れ、花瓶の近くに置く。
「……まさか。」
数分後、雄和は息を止めた。
花の根が、わずかに伸びている。
床を這うように、生ごみの方へ。
「……動いた。」
慌てて袋を遠ざけると、根は止まった。
いや、止まったように見えただけかもしれない。
翌朝、生ごみの袋を確認すると、中身の色が変わっていた。
灰色。
コンクリートの粉のような色。
触れると、ぼろりと崩れた。
「……吸った。」
雄和は、無意識に後ずさった。
花は、少しだけ大きくなっている。
⸻
翌日から、雄和は意図的に距離を取った。
花に近づかない。
触らない。
視線を向けない。
だが、視界の端に、必ず入る。
「なあ。」
放課後、祐一が声をかけてきた。
「最近、顔色悪いぞ。」
「そうか。」
「寝てないだろ。」
「……少しな。」
祐一は、何か言いたげに雄和を見たが、それ以上は踏み込まなかった。
「無理すんな。」
それだけ言って、別れた。
⸻
その夜、雄和は机に向かっていた。
花は、そこにある。
見ないようにしても、存在が消えない。
ふと、指先に小さな痛みが走った。
包丁。
夕飯の後片付けで、軽く切ったらしい。
やっと一滴になるような血が、ぽたりと机に落ちる。
次の瞬間だった。
花の根が、動いた。
速くはない。
だが、迷いがない。
雄和は、体を動かせなかった。
根が、指先に触れる。
冷たい。
だが、不快ではない。
痛みが、消えた。
「……。」
気づいたときには、傷はなかった。
血も、ない。
根は、元の位置に戻っている。
「……治したのか。」
花弁が、わずかに揺れた気がした。
気のせいだと、言い切れなかった。
⸻
翌朝。
雄和は、花の異変に気づいた。
小さい。
昨日より、確実に。
「……小さくなってる。」
治した分、なのか。
それとも、別の理由か。
答えは出ない。
だが、一つだけ確かなことがある。
この花は、奪うだけではない。
与えることも、できる。
それが何を意味するのか。
雄和は、まだ理解していなかった。
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