第3話 自覚と謙虚
あの日から、既に三日—————。
あれから、リリーローズと伯爵は、庭園を散歩することが主な日課に加わっていた。
伯爵とは前と比べて随分と話すようになった。
話してみると、興味が無いと言っていた花の話も、快く聞いてくれるようになった。
また、意外に少食な事や、好きな本の事、幼少期の話まで、これまで知り得なかった事を多くお互いに語り合えた。
リリーローズは今日の散歩に向けて、楽しみな気持ちを膨らませながら髪を結っていた。
(伯爵は、見た目こそ冷徹だけれど、話してみると案外気が合う男性だわ。共通項も多かったことだし…………)
すると、部屋の扉がコンコン、と叩かれた。
どなたかしら、と、駆け寄り扉を開けると、そこには伯爵が立っていた。
「あら、ダズベルト伯爵。お早うございます。」
そう言うと、伯爵は「おはよう」と小さな声で返した。
「…………今朝は早いんだな。」
「ええ、少しだけ早く起きてみました。」
その理由が散歩が楽しみだったから、なんて恥じらいで口に出来ない。
「……もう、準備できたのか。」
伯爵は言う。以前よりも穏やかな口調だ。
それが少し嬉しくなり、リリーローズは微笑んだ。
「はい、出来ております。」
その返事に伯爵は口元に薄く笑みを浮かべた。
「それでは行こうか。」
庭園には日光の明かりが柔く照っている。
リリーローズと伯爵は、いつもと同じように、歩幅を合わせ、ゆっくりと園内を回っていた。
「あら、ダズベルト伯爵もあの本がお好きですか。」
「ああ。」
「そうなのですね。私は読んでいて気持ちが落ち着くところがとても好きです。短い詩を纏めたものですが、そのどれもが心地よくて……特に草原での眠りを読んだ詩は、場面が頭の中に浮かぶようです。」
リリーローズは微笑みながら伯爵を見つめる。
「私も、その詩が好きだな。本当に眠った気分になれる所が気に入っている。」
「分かります。没入感というべきでしょうか、風の音や草の揺れるざわめきが聞こえてくるようで、何とも言えない心地良さがありますよね。」
穏やかな会話を交わしながら、二人は笑う。
話しながら、ルデウスは思う。
(好きな本について分かり合える事はとても楽しいな。
彼女は、私と好きなものが似ていて話しやすい。
…………もっと、知ってみたい……と、思うのは、私の我儘だろうか………………)
心の淵で俄にそう感じながら、ルデウスはリリーローズを見つめた。
風に揺れる黒髪。嬉しそうに瞬かれる黒曜石のような瞳。それらは時折日光に透かされて、淡い紫色に染まる。
綺麗だ、と思う。
しかしそれは、彼女にとっては毒かもしれない、とも思う。
(…………この感情は、何なのだろうか…………)
リリーローズは伯爵を見つめる。
かつて雹を思わせたリリーローズを見つめる切れ長の瞳は、今や柔らかで繊細なガラス細工のように揺らめいている。
さらさらとした黒髪は風に靡き自在に形を変える。
際立った目鼻は、差す光が白く反射し、きらきらと輝いて見える。
綺麗、と思う。
でも、それは決して抱いてはいけない感情のようにも思える。
(私は、一族の安定を図るための駒にすぎないのに……それなのに、この胸はどうしてこう、この方を思い出す度に痛く揺れるのかしら………)
日はあっという間に傾き、西の方角に緋色に溶けた太陽が沈まんとしている。
どれくらい、長く話し込んだのだろう。
「ごめんなさい、話に没頭してしまって。脚が疲れたでしょう。」
リリーローズは申し訳なさそうに言う。
伯爵は、「問題無い」とリリーローズに向けて言う。
「実に有意義な時間を過ごせた。日が傾く程に私も没入してしまった。何とも不思議な事だな。」
伯爵は薄く微笑んで、リリーローズを見つめる。
それを見て、リリーローズも微笑む。
「ふふ、それなら良かった。」
二人は、屋敷に向かって歩き出す。
「ダズベルト伯爵、先程の言葉の表現ですが、言い回しがお上手ですね。特に…………」
リリーローズは穏やかな口調で話し始める。
伯爵はそれを、嬉しみとどこか、寂しさを含んだ表情で見つめていた。
伯爵と度々話すようになってから、それまで窮屈だった食事の時間は、少しだけではあるが空気が和み、お互いに食事がしやすい場となりつつあった。
それまで何処か遠い所を見るように冷え込んでいた伯爵の目は、以前よりかは少し、柔らかい雰囲気に包まれるようになった。
(気を、許してくれているということかしら………………)
リリーローズはそんな事を思ったが、まさか、と自分の心を問い質した。
冷薄なあの伯爵が、少し会話が出来るようになったからといって、すぐにリリーローズのような他人に心を許せるとは思えない。
そう思えてくると、心の内が更に増して痛むようで、リリーローズは不快感を募った。
(でも…………それでも…………………………)
リリーローズは伯爵を気付かれないようにそっと見つめる。
(…………もっと、知ってみたい…………なんて……………………)
羨望するうち、胸は心地悪く漂う靄に霞まされたように、再びリリーローズを苛ませた。
伯爵は、リリーローズから向けられる苦味と憂いが滲んだ視線を感じ取っていた。
(…………どうしたのだろう。何か、口に合わないものを食べたのだろうか。………いや、それなら私に視線を送る意味が無い。
………………私が何かしてしまったのか。)
野菜を丁寧に切り分けながら、伯爵は思う。
(………今日の話か、それとも……態度か……分からないな………………)
リリーローズは、何処か遠慮するように視線を下に落とす。
ルデウスはそれに耐え難くなり、動かしていた手を止め、リリーローズの方を見つめた。
「…………何か、気を汚すことがあっただろうか。」
思い切ってそう尋ねてみると、彼女は驚いたように目を見開き、暫くしてまた遠慮がちに弱く俯く。
「………………いえ、何でもありませんわ。」
そう言って、まるで外面を被ったような笑みを浮かべる。
「…………ああ。それなら良い…………」
リリーローズは笑ってはいるが、表情が少しぎこちない。
彼女の言葉が何処か煮え切らない感じがして、つい形だけの返事を吐き出すように言ってしまった。
リリーローズは、何かを隠しているのだろう。
それが策略か、はたまた謀略か。
疑いの気持ちと同時に、彼女はそんな事をする人では無い、と心の内が叫んでいる。
(そうだ…………少し話せるようになっただけ。…元はと言えば両家の安定のためという、ふざけた理由で婚姻を結んだ相手では無いか。
疑う所など、数え切れないばかりに出てくる。
……………………なのに………………)
伯爵は、何処か悲しい顔をしているリリーローズを見つめる。
(………ああ、まただ………この胸は、どうしてこう、彼女を思うだけで苦しく…………高鳴るのだ………………)
ルデウスは自分の心の内が鈍く揺れるのを、酷々とした気持ちで感じ取っていた。
夜。
月明かりが差し込むベッドの中で、リリーローズはシーツに身をくるみながら伯爵の事を考えていた。
リリーローズは考える度に時折、痛むようにも思える胸の内に耐えきれずにいた。
(初めて会った時は、こんな気持ちになるなんて思いもしなかった…………それ程に、伯爵は冷徹な方だと、思っていたから……でも…………)
あの日庭園で自分の心の内を吐き出した時、伯爵は穏やかな目でリリーローズを見つめていた。
それどころか、伯爵も少しだけ、身の上の経験を語ってくれた。
普通なら、それは他人に言い難い事だ。…………リリーローズが話したから、話してくれたのだろうか。
私と、分かり合おうとしてくれたのかしら。リリーローズは思う。
(そう………本当は………冷徹な方などでは無かった………お優しい方だった………あの日から、少しだけ心を開いて話してくれるようになったわ………)
胸はまだ苦しみを抱えている。
(…………伯爵を思う度に、この心は苦しくなる………………どうしてなの…………)
その痛みは、何故だろうか、同時に心地良さも併せ持っていた。
その答えは、自然に自分の心が教えているような気がした。
(…………ああ…………そうか……………私………伯爵の事が……………………)
駒でしかない自分に、そんな緩んだ気持ちを持つことは許されない。
何処かでそう思っていたのだろう。
理解した瞬間、そんな事を考えて、途端に冷えるような気持ちが胸に満ちる。
(駄目だわ…………私はこんな……………………それに、伯爵は違うかもしれない………ええ、そうよね…………)
リリーローズは、シーツにきゅっと身を丸ませる。
この気持ちは、しまっておこう。
リリーローズは、小さく芽生えたその思いを、淀んだ心の中に、今一時沈める事にした。
ルデウスは眠れなかった。
その理由の一つに、彼女———リリーローズがあった。
(……彼女は、結局最後まで、どうしてあんな顔をしていたのか明かさなかった……………それ程、深刻な問題……なのだろうか………………それなら尚更、理由が知りたい……)
ルデウスの胸の内は、リリーローズの事を思い浮かべると、何故だか柔く痛む。
(彼女は、噂とはまるで違った………………知的で、落ち着いていて、思いやりのある優しい女性だ………先入観から、冷たい対応をしてしまっていた……だが彼女は語ってくれた……自分の心の内を…………彼女と語らう度に…………もっと知りたいと思うようになった………)
胸の中で様々な思いが駆け巡る。
重い靄に包まれたようなその中に、伯爵は一つの答えを掬い上げる。
(………私は…………そうか………………………私は……………彼女を………………)
だがそれは、決して導き出してはいけないもののようにも思えた。
(…………ああ……苦しいな………………)
自分がそう思ったところで、彼女は違うかもしれない。
疑心を以て彼女に接してしまったことを、伯爵は思い出し、尽く後悔する。
(………………醜い………………私は今………………私自身がとても………………)
苦しさで静かに脈打つ心を、伯爵は誰にも気付かれぬよう、シーツで覆い隠した。
悪魔は黒薔薇を食む @azhr123
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