第18話 パンの人、と呼ばれる場所

 通りに出ると、空気が少し変わった。


 石畳は同じはずなのに、人の声が近い。商人の呼び声、荷車の軋む音、子供の笑い声。

 三上は、さっきまで考えていたことを振り払うように、ゆっくりと歩き出した。


 配るだけでは、続かない。

 それはもう、何度も見てきた。


 善意は疲れる。

 続けるつもりなら、誰かが担い、回し、引き継げる形でなければならない。


 その確認をするように、三上は通りを一本外れた。


 孤児院は、城下町の外れにあった。

 壁は低く、門も簡素だ。見張りもいない。だが、中からは人の気配が途切れない。洗濯物が風に揺れ、裏手では鍋をかき混ぜる音がした。


 三上が門をくぐると、数人の子供がこちらを見た。


 一瞬だけ警戒する目。

 すぐに、思い出したように表情が緩む。


 「パンの人だ」


 誰かが小さく言った。


 その声を聞いて、胸の奥がわずかに締まる。

 名前ではない。だが、拒絶でもない。


 奥から、足音が近づいてきた。


 「今日は配給の日じゃないはずだけど」


 落ち着いた女の声だった。


 現れたのは、三上より少し年下に見える女性だった。

 髪は後ろでまとめ、質素な服を着ている。動きに無駄がなく、子供たちの視線が自然と彼女に集まっていた。


 この孤児院の寮母だ。

 何度か顔を合わせている。


 中庭では、子供たちが固まって遊んでいた。

 以前よりも、確実に数が多い。


 寮母は三上に軽く会釈した。


 「また来てくれたんですね」


 挨拶代わりの一言だった。


 三上は小さく息を吐いてから、頷く。


 「少し、様子を見に」


 寮母は三上の顔を一度だけ見て、納得したように視線を外した。


 「……そういう顔をしてます」


 責めるでもなく、慰めるでもない。

 経験から出た言葉だった。


 彼女は子供たちの方を見る。


 「増えてるでしょう」


 言われて、三上は改めて数を数えた。

 前に来た時より、はっきりと多い。


 「食べ物が安定すると、人は集まる。自然なことよ。でも――」


 そこで言葉を切り、続ける。


 「準備がいる。人手も、場所も、先の見通しも。善意だけだと、途中で折れる」


 淡々としていた。

 感情を乗せる必要がないほど、現場では当たり前の話なのだろう。


 三上は、しばらく黙ったまま子供たちを見ていた。


 「……ここは、今どう回っていますか」


 寮母は少し考え、正直に答えた。


 「回っている、とは言えないわ。今は、耐えてるだけ」


 率直だった。


 「でもね」


 そう前置きしてから、続ける。


 「耐えられる時間が延びたのは、あなたのおかげ」


 その言葉と一緒に、かすかな笑みが浮かんだ。

 感謝はあるが、寄りかかる気配はない。


 三上は静かに頷いた。


 「折れない形に、したいとは思っています」


 約束と呼べるほど強い言葉ではない。

 だが、逃げるつもりもなかった。


 寮母はしばらく三上を見つめ、それから言った。


 「じゃあ、また来てください」


 子供たちの声が、二人の間を流れていく。


 「話すことは、たくさんありますから」


 子供たちの声が背後で重なる。

 鍋の匂いが、風に乗って流れてきた。


 腹が減る匂いだ。


 それに気づいて、三上は一瞬だけ立ち止まった。


 この匂いの料理を、ここにいる子供たちが食べられている。

 腹を空かせたまま眠ることは、少なくとも今日はない。


 それだけで、胸の奥の後悔が、静かに緩んだ。


 三上は何も言わず、もう一度だけ孤児院の方を振り返り、歩き出した。

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