第9話 越えてはいけない線
資金は、確保できた。
帳面を閉じたとき、三上はそう判断した。余裕がある、というほどではない。だが、次のことを考えるための時間と頭の空きはできた。
今日は、売る日ではない。
仕入れる日でもない。
三上は、目的を決めずに街を歩いた。
昼の通りは、昨日までと同じようで、どこか違っていた。人の数は変わらない。露店の声も、往来の音も、いつも通りだ。
だが、足取りが少し軽い。
硬いパンを抱えた男が、今日は立ち止まって食べている。子供に渡す前に、母親が自分でも一口かじる。食べる速さが、わずかに遅い。
腹を満たすだけじゃない。
味わう余裕が、ほんの少し戻っている。
三上は歩きながら考えた。
食料は、回り始めた。
金も、動いた。
では次は何だ。
――この世界のものを、地球で使えないか。
考えが、別の方向に切り替わった。
小麦粉と塩は、今のところ自分の金で賄っている。
元は、ギャンブルで作った資金だ。
だが、週に回せるのは、せいぜい数十万。
それ以上は無理だし、無理をすれば、どこかで歪む。
それに頼り続ければ、事業は拡大しない。
止まった瞬間、すべてが終わる。
食料の供給が途絶えたら――
それは、街にとって悲惨だ。
だから、この形は仮だ。
長く続ける形じゃない。
異世界の物を売り、金を生み、
その金で、また異世界に流す。
ものと金が、循環しなければならない。
そのためには、
異世界にしかないものが必要だ。
地球では代替できないもの。
三上は、自然と視線を街に向けた。
――探そう。
異世界にしかないものを。
露店が並ぶ通りで、三上は足を止めた。
小さな瓶が、布の上に並んでいる。透明に近い液体。色は薄く、装飾もない。値段も、特別高くはない。
「それは?」
声をかけると、露店の女が顔を上げた。
「治療薬だよ」
簡単な言い方だった。
「傷に塗る。飲んでもいい。効き目は、人によるけどね」
三上は、瓶を一つ手に取った。
軽い。
振ると、液体が揺れる。
鑑定を使う。
視界に、文字が浮かんだ。
――低級ポーション。
効果:軽度外傷の治癒、疲労回復。
三上は、無言で瓶を戻した。
地球の薬が、頭に浮かぶ。
湿布。
鎮痛剤。
軟膏。
どれも、症状を抑えるだけだ。
治す、とは言い切れない。
だが、次の瞬間、別の考えが割り込んでくる。
――これ、日本で使えるのか。
薬機法。
未承認医薬品。
人体への使用。
アウトだ。
販売は論外。
譲渡も危うい。
医療行為に該当すれば、即終了だ。
三上は、その場で結論を出さなかった。
買うだけなら、どうだ。
研究目的。
使用しない。
分析するだけ。
少なくとも、所持しているだけでは違法じゃない。
持ち込むこと自体は、グレーだが、まだ線は越えていない。
三上は、もう一度瓶を見る。
「一本、もらえますか」
女は頷き、瓶を包んだ。
取引は、静かに終わった。
街の外れに、古い建物があった。
孤児院と呼ぶには雑で、寮と呼ぶには人が多い。母親のいない子供と、行き場を失った母子が、一緒に暮らしている場所だった。
三上は、理由をつけて何度か足を運んでいた。
視察。
確認。
実態把握。
どれも嘘ではない。
だが本当は、数字に出ない場所を見たかっただけだ。
昼過ぎ、子供たちは中庭に集まっていた。
硬いパンを、黙って齧っている。
文句は出ない。
慣れている。
三上は、袋の中を確かめた。
白いパンが、一つ。
全部は無理だ。
全員分も、ない。
だから、内緒だ。
柱の影で、呼ぶ。
「……おいで」
子供が、一人だけ近づいてくる。
以前、配給所で会った子だった。
三上は、パンを半分にちぎって渡した。
「誰にも言うなよ」
子供は、少し考えてから頷いた。
噛んだ瞬間、目が丸くなる。
声は出さない。
ただ、ゆっくり食べる。
「……おじさん」
小さな声。
「前も、いたよね」
三上は、否定しなかった。
「また来る?」
約束は、できない。
だから、こう答えた。
「必要なら」
それで、十分だった。
三上は、その場を離れた。
これは配給じゃない。
救済でもない。
ただ、自分が見てしまった場所だ。
市場は、まだここまで届いていない。
それだけが、はっきりした。
三上は、そのまま宿に戻った。
部屋に入ると、まず扉を閉める。
次に、窓を確認する。
いつもの癖だ。
机の上に、瓶を置く。
すぐには開けない。
考える。
実験するなら、条件は三つ。
人体には使わない。
記録を取る。
再現性を見る。
まずは、外傷だ。
皮膚。
血。
回復速度。
三上は、ナイフを取り出して、しばらく眺めた。
自分でやるのが、一番早い。
だが、一番危険だ。
――今日は、やめておく。
判断は、早かった。
瓶を布で包み、バッグの奥にしまう。
これは、次の段階だ。
食料とは、明らかに違う。
三上は、椅子に座り、ゆっくり息を吐いた。
市場を動かすより、
制度を動かすより、
これは厄介だ。
だが――
見てしまった以上、考えないわけにはいかない。
三上は、天井を見上げた。
また一つ、戻れない選択肢が、静かに増えていた。
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