第7話 市場を壊さないために

 声がかかったのは、翌日の昼前だった。


 商人ギルドの職員が、帳場を覗き込み、視線だけで合図を送ってくる。表向きの用件ではない、というやり方だ。


 奥の小部屋は、いつもより静かだった。


 「昨日の件ですが」


 職員は、言葉を選んでいた。


 「売れているそうですね」


 「ええ。初日は」


 事実だけを返す。


 「……その、既存のパン工房から、いくつか話が来ています」


 抗議、とは言わない。

 苦情、とも言わない。


 「動きが変わった、と」


 三上は、頷いた。


 来るのが早いか、遅いかの違いだ。


 「値段を下げる話が、出始めています」


 それは、脅しではなかった。

 警告でもない。


 単なる報告だ。


 三上は、すぐには答えなかった。


 頭の中で、数字を並べる。


 食パンは、日本とこの街での価格差が大きすぎる。

 原価。

 輸送。

 販売価格。


 利益は出る。出すぎる。


 このまま量を増やせば、市場を壊す。


 壊れるのは、まず下だ。

 次に、中。

 最後に、全体。


 「……パンは、増やしません」


 職員が、目を上げた。


 「今の販売量を上限にします。これ以上は出さない」


 「それで、需要は……」


 「抑えます」


 言い切った。


 「食パンは、あくまで試験的な商品です。価格差が大きすぎる。長期で回す形じゃない」


 職員は、メモを取らなかった。

 この話は、記録に残らない。


 「豆乳は?」


 「続けます」


 こちらは違う。


 代替が少ない。

 同等品がない。

 供給を絞る理由がない。


 「ただし――」


 三上は、少しだけ身を乗り出した。


 「その代わり、提案があります」


 職員の視線が、真っ直ぐになる。


 「パン工房に、小麦と塩を卸します」


 空気が、一瞬止まった。


 「原料を?」


 「ええ。価格は抑えます。その代わり、生産量を増やしてもらう」


 三上は、指で机を軽く叩いた。


 「柔らかいパンを、全員が食べる必要はありません。今までのパンでいい。量が出れば」


 ところてん、ではない。

 押し出すのではなく、底を持ち上げる。


 「貧困層に回る量が増えます」


 職員は、しばらく黙っていた。


 市場に直接介入する提案だ。

 だが、壊さない介入でもある。


 「……工房側が、応じますかね」


 「応じます」


 三上は、即答した。


 「値下げ競争に入るより、原料が安定する方がいい。削られるのは、彼らも分かっている」


 職員は、小さく息を吐いた。


 「分かりました。非公式で、話を通します」


 「条件は、ギルド経由で」


 「ええ」


 それで、この話は終わりだ。


 三上が部屋を出るとき、職員が一言だけ付け加えた。


 「……あなたは、配らないんですね」


 三上は、足を止めなかった。


 「配ると、止められなくなりますから」


 振り返らずに言った。


 善意は、加速する。

 事業は、制御できる。


 今は、後者を選ぶ。


 それだけだった。

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