第2話 切り替わる世界

 休みの日だというのに、体を動かさないでいると、かえって疲れる。

 三上は特に目的もなく、外に出た。


 人通りの少ない道を選んで歩く。木に覆われた階段を上ると、視界がひらける。街が少し遠くに見える、お気に入りの場所だ。風の通りがよく、頭が空になる。


 いっそ、この先が別の世界に通じていたらいいのに。

 そんなことを考えた、その瞬間だった。


 木々の様子が、わずかに変わった。

 色でも形でもない。違和感だけが先に来る。


 耳の奥が張る。

 唾を飲み込むと、「ぱきっ」と小さな音がして、空気が調整されたような感覚がした。


 三上は、立ち止まった。


 目の前の景色が、さっきまでとは違っている。

 空は高く、雲の動きが遅い。風の匂いが、知らないものだった。


 少し歩くと、遠くに大きな城が見えた。

 石で積まれた城壁。道。人影のようなもの。


 その瞬間、背中が冷えた。


 ——まずい。


 理由はない。ただ、生命の危機を感じた。

 三上は反射的に考えた。戻れるか。戻れないか。


 考えた次の瞬間、景色が歪んだ。


 気づくと、さっきまで歩いていた道の途中に立っていた。

 階段はそのまま。木々も元通りだ。耳の違和感も消えている。


 三上は、しばらく動けなかった。


 それから、急いで家に帰った。


 部屋に入って鍵をかけ、カーテンを閉める。いつもの部屋。いつもの匂い。現実だ。少なくとも、そう見える。


 三上は、床に座り込んだ。


 何がきっかけだったのか。

 あの場所か。自分の思考か。それとも偶然か。


 ふいに、またどこかへ飛ばされたら困る。

 そう思って、なるべく考えないようにした。


 それでも、気づいてしまった。


 ——さっき、戻れた。


 試してみよう、と思った。

 思った瞬間、視界の端に、見慣れない表示が浮かんだ。


 文字だった。


 詳しくは見なかった。見ようとしなかった。

 重要なのは、そこに何が書いてあるかじゃない。


 戻れる。

 その事実だけが、頭に残った。


 三上は深呼吸をした。

 もう一度、意識を切り替える。


 世界が、切り替わった。


 さっきと同じ場所だった。

 同じ空。遠くの城。


 三上はすぐに、戻った。


 何度か繰り返した。

 立つ。見る。戻る。


 変わらない。

 少なくとも、今のところは。


 三上は、部屋に戻って、天井を見上げた。


 夢ではない。

 現実だ。


 そして、使える。


 それが良いことかどうかは、まだ分からない。

 危険かもしれないし、面倒なだけかもしれない。


 それでも、頭の片隅で、別の考えが芽を出していた。


 ——これを使えば、今の状況を変えられるかもしれない。


 三上は、すぐに答えを出さなかった。


 明日、もう一度来てみよう。

 それから判断すればいい。


 そう思って、電気を消した。


 翌日、三上は玄関で靴を履きながら、しばらく動かなかった。


 昨日のことを思い出そうとすると、頭が勝手に整理し始める。危険だったか。致命的だったか。戻れた。戻れたのは確かだ。


 持っていくものは、できるだけ少なくした。


 家にある中で、壊れても困らないもの。失くしても生活に影響が出ないもの。代わりがきくもの。

 それらを選ぶ基準は、いつもの癖と同じだった。


 刃物を一本。

 水と、乾いた食料を少し。


 バックパックは使わない。目立つからだ。

 ポケットに収まる分だけを持つ。


 深呼吸して、意識を切り替えた。


 空気が変わる。


 昨日と同じ場所だった。

 空は高く、風は静かで、遠くに城が見える。


 三上はすぐに、身を低くした。

 人の気配を探す。音。匂い。動き。


 すぐ近くには、誰もいない。

 道から少し外れた場所だった。


 大丈夫だ、と自分に言い聞かせてから、歩いた。


 昨日より、少しだけ前に進む。

 景色の端に、あばら家が見えた。壁は傾き、屋根はところどころ抜けている。人が住んでいるのかどうか、外からは分からない。


 人影があった。


 距離はある。

 子供のようにも見える。


 三上は立ち止まった。

 近づかない。近づきすぎない。


 向こうが気づいた。


 視線が合う。


 三上は、ゆっくりと手を上げた。敵意はない、という合図のつもりだった。自分でも、そんなつもりになっているだけだと分かっている。


 向こうは、逃げなかった。


 何かを言っている。

 言葉は分からないはずなのに、意味は入ってきた。


 ——何を持っている。


 三上は、ポケットから刃物を取り出し、柄の部分を向けた。

 差し出す、というより、見せるだけ。


 向こうが、近づいてきた。


 人間だった。

 少なくとも、見た目は。


 顔立ちも、体格も、違和感はない。服は古いが、極端に異様ではなかった。


 短い会話があった。

 互いに、慎重に。


 三上は、刃物を渡した。

 代わりに、乾いた食料を少し受け取った。


 価値が釣り合っているのかどうかは分からない。

 分からなくていい。


 重要なのは、通じたということだ。


 それ以上、何もしなかった。

 深入りしない。約束もしない。


 三上は一歩下がったあと、体を反転させ、来た道を戻った。


 周囲に視線を走らせ、人の姿が見えないことを確かめる。

 それから道を外れ、あばら家の影になる位置まで歩いた。


 見られていない。

 そう判断してから、意識を切り替えた。


 部屋に戻った。

 壁。床。天井。

 いつもの部屋だった。


 三上は、その場に座り込んだ。


 息が、少し震えていた。


 成功だ、と言えるほどのことではない。

 だが、失敗でもない。


 危険はあった。

 それでも、制御できる範囲に見えた。


 三上は、手の中に残った食料を見た。

 異世界のものだ。


 これを、どうするか。

 どう使うか。


 答えは、まだ出さない。


 ただ一つだけ、分かったことがある。


 ——これは、思っていたより面倒だ。

 ——そして、思っていたより使える。


 三上は、しばらくその場に座ったまま、何も考えなかった。


 考えすぎると、判断を誤る。

 それも、これまでの人生で学んだことだった。


 次は、もう少し準備してから来よう。

 そう思って、立ち上がった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る