働きたくなかった派遣中年が、異世界スキルで現代ビジネスを回してしまう話

三上 恒一

第1話 更新された一日

 派遣先のビルは、いつ来ても同じ匂いがした。空調の乾いた風と、床用ワックスの甘い刺激と、コピー紙の粉っぽさが混ざった匂い。朝のロビーは静かで、ガラス越しに見える外の光だけがやけに明るい。


 受付で名札を見せ、エレベーターに乗る。上がっていく数字をぼんやり眺めながら、三上恒一は息を吐いた。三十代後半。派遣。今月も更新できた。そういう事実だけが、靴底みたいに重くついてくる。


 フロアに出ると、すぐに呼ばれた。


 「ねえ、今月も来てる?」


 声の主は、彼の席の近くにいる主任だった。四十代後半。目の下にクマがあり、いつも忙しそうにしている。忙しい人ほど、忙しさを他人に渡す。


 「はい」


 「もっと若いのはいなかったの?」


 冗談みたいな言い方だった。冗談にすることで、言葉が鋭くなる。


 三上は笑った。反射で。笑うと場が終わる。笑わないと、長くなる。


 「すみません、これしかいなくて」


 自分で言って、少しだけ気分が悪くなった。自虐は便利だ。相手の罪悪感を消して、自分の存在理由を薄くする。


 「まあいいけど。これ、今日中ね。できれば午前中で」


 紙の束が机に置かれる。おそらく、午前中では終わらない量だった。


 午前中で終わらない仕事ほど、午前中で終わらせろと言われる。終わらなかったら「段取りが悪い」と言われる。終わっても、特に褒められない。終わったことが標準になる。


 パソコンの画面を開く。メールは昨夜のうちにいくつか増えていた。添付ファイル。仕様変更。未読。未読。未読。派遣という立場は、いつも未読のまま流れていく仕事の底にいる気がした。


 昼前、ミスが見つかった。


 「これ、誰がやったの?」


 向かいの席から、鋭い声が飛ぶ。別部署の社員だった。声は大きいのに、目は画面から離れない。怒鳴りながら入力している。


 「……私です」


 「はあ? なんでこうなるの? ちゃんと見てやってくれる? こっちは時間ないんだけど」


 説明する余地はない。仕様変更が昨日の夜に来たとか、資料が揃っていなかったとか、そんな話をしても、責任は軽くならない。責任は派遣に寄る。軽いものが軽いところに流れるのと同じで。


 三上は「すみません」と言って修正した。口が勝手に動く。「すみません」は便利だ。反論も説明もいらない。自分が小さくなるだけで、場が進む。


 進む。仕事は進む。時間も進む。


 午後、背中が痛くなるころには、怒鳴られたことの感情はもう残っていなかった。残っているのは疲れだけだ。疲れは正直だ。謝った回数と比例して溜まっていく。


 定時を過ぎても、机の上の紙は減らない。主任が横を通りすぎながら、ちらりと画面を覗いた。


 「まだ?」


 「……もう少しです」


 「明日まで持ち越さないでね」


 そう言って去っていく。明日まで持ち越すな、と言う人は、明日も同じ量を持ってくる。


 三上は、ふと考えた。いつか。いつか。いつか。


 いつか、もう来なくていい日が来る。更新がない日。名札を返す日。最後の出勤。そういう未来を思い浮かべるだけで、胸が少し軽くなる。


 ——FIRE。


 ネットで見かけた言葉。早期リタイア。働かない人生。自由。昼間から動画を見て、昼寝して、好きなだけ外に出る。嫌な人間関係も、怒鳴り声も、理不尽な締切もない。


 自分には関係ない、と分かっているのに、頭の片隅でその言葉が光る。光るものは、暗い部屋でよく見える。


 終業の打刻をしてビルを出たとき、外はもう夜だった。駅までの道は、人の流れで波打っている。スーツの集団の中に紛れながら、三上はコンビニに寄った。


 棚の前で、缶チューハイを手に取って、止めた。今日は飲んで忘れたい。そう思った瞬間に、スマホが震えた。


 通知。引き落とし。


 月末の文字が目に刺さる。家賃。携帯。サブスク。クレカ。数字は見ないようにしたのに、見えた気がした。見える。数字は勝手に見える。


 三上は缶を戻した。


 代わりに、安い弁当と、見切りのサラダと、納豆を籠に入れた。栄養とコストを同時に考えると、だいたい同じものに落ち着く。人間の健康は、割引シールの色で決まる。


 レジで支払いをして、袋を提げて外に出る。夜風が冷たかった。冬の匂いがした。骨の奥にまで入り込む冷たさ。


 ボロアパートに帰る。


 階段は薄暗く、壁には誰かが貼ったチラシが剥がれかけている。自分の部屋の前で鍵を回すと、扉が少しひっかかった。建付けが悪い。直すほどの余裕はない。直しても家は良くならない。


 部屋に入ると、すぐに電気をつける。蛍光灯が一瞬遅れて点いた。冷蔵庫の音が、いつもより大きく聞こえた。


 弁当をレンジに入れて温める。機械の中で回る音が、妙に心地いい。ちゃんと回っている。自分の生活も、ちゃんと回っているように見える。


 食べ終わって、洗い物をして、布団の横に座る。テーブルはない。床に座ると、生活が床に近づく気がする。


 スマホで動画を流した。いつものように、何も考えなくていいもの。誰かがゲームをしている映像。誰かが料理をしている映像。誰かが遠い国を歩いている映像。自分が動かなくても、世界は動く。


 その途中で、CMが入った。


 結婚相談所。


 「あなたの未来に、パートナーを」


 笑顔の男女。明るい部屋。白いシャツ。透明なグラス。薄い会話。見慣れた幸福の演出。


 三上は、指を止めた。


 ふと、昔付き合っていた女性の顔が浮かんだ。名前を思い出そうとして、やめた。名前は重い。思い出すと、そこから引きずられる。


 彼女とは、たまに結婚の話をしたことがある。


 「共働きすれば、なんとかなるよ」


 彼女はそう言った。明るく。現実的に。責めるでもなく、急かすでもなく。ただ、可能性として。


 「経済的に安定してから」


 それは、自分で考えた答えじゃなかった。誰かが言っていた言葉を、都合よく拾ってきて、ただその話から逃げただけだった。


 共働き。言葉は簡単だ。でも、彼女の人生を自分が背負う気がして、怖かった。子供ができたら。病気になったら。仕事がなくなったら。自分の収入で家族を養えるのか。養えないのではないか。養えなかったら、自分は何者になるのか。


 怖さは、いつも先に来る。


 踏み切れなかった。


 だから彼女は去った。怒鳴ることも、泣き叫ぶこともなく。静かに。時間をかけて。気づいたら距離ができていて、戻せなくなっていた。


 いっそ、ひどい振られ方でもすればよかった、と三上は思った。


 そうすれば、彼女を恨めた。自分を守れた。被害者になれた。被害者になれば、少しは楽になれた。


 でも、そうじゃない。


 結婚から逃げたのは、自分だ。


 この生活にしがみついたのも、自分だ。更新があるだけで安心して、明日も同じ場所に行くことを選んだのも、自分だ。


 過去の自分に、少しだけ腹が立った。


 腹が立つのは、戻れないからだ。戻れないものは、腹が立つ。怒りは、後悔の形をしている。


 動画のCMが終わり、また誰かが笑っている映像が流れ始めた。


 三上はそれを眺めたまま、目を閉じた。


 明日も、同じ時間に目覚ましが鳴る。


 それが、少しだけ怖かった。

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