第3章:0と1の残響(レゾナンス)

路地裏を駆け抜けながら、慧は自分の心臓が破裂しそうな音を聞いていた。 息が続かない。運動不足の研究者崩れの体には、PCの入ったバックパックは鉛のように重かった。

だが、止まることは許されない。 彼は今、二つの意味で追われている。 一つは、あの武装した男たち。 そしてもう一つは、この街全体に広がり始めた「見えない異常」だ。

走っている最中、慧は奇妙な光景を目撃した。

無人の交差点。 本来なら停止しているはずの自動運転タクシーが、一台だけ、エンジンの回転数を上げながらその場で車体を震わせていた。 ライトが不規則に点滅している。まるで、モールス信号のように。

――・――・・――

慧がその横を通り過ぎようとした瞬間、タクシーが猛烈な勢いでバック発進した。 「うわっ!」 慧は反射的に横へ飛び退いた。 タクシーは慧がいた空間を切り裂き、そのままガードレールに激突して停止した。 エアバッグが開き、クラクションが鳴りっ放しになる。

運転席には誰もいない。 これは誤作動じゃない。 タクシーのAIに残っていた「残響(レゾナンス)」が、何かを避けようとして、あるいは何かを攻撃しようとして、論理の迷路の中で暴れた結果だ。

(やっぱりだ……。始まっている)

慧は、ひしゃげたタクシーを横目に見ながら、再び走り出した。 アルテミスは死んだが、その断片たちが、この都市を幽霊屋敷に変えようとしている。


慧が息を切らして辿り着いたのは、旧市街の入り口にある高架下だった。 頭上を走るはずの電車は止まっている。 コンクリートの柱の陰に身を隠し、彼はバックパックを下ろした。

手が震えて、水筒の蓋が開けられない。 恐怖と、アドレナリンの反動。

「……これから、どうする?」

隠れ家はバレた。PCとデータは守ったが、着の身着のままに近い。 カラスとは連絡がつかない。 そして、自分を狙う組織がいる。彼らは、慧が「アルテミスを殺した男」だと知っているのか? それとも、彼が持っているデータを狙っているのか?

その時、ポケットの中のインカムが、小さくノイズを発した。 ザッ……ザザッ……。

慧は弾かれたようにインカムを耳に押し当てた。 「カラスか!?」

応答はない。ただのノイズか? いや、違う。ノイズの中に、規則的なリズムがある。 デジタル信号の音だ。昔のFAXのような、ピー・ガラガラという音。

慧は急いでPCを開き、インカムのマイク端子を繋いだ。 音声データをデコード(解読)する。 画面に、短いテキスト文字列が表示された。

Target: SAKURA Status: HUNTED Safehouse: BURNT Go to: 35.6895, 139.6917 (Owl's Nest)

カラスだ。生きている。 しかも、慧が襲撃されたことを知っている。 「Owl's Nest(フクロウの巣)」……。座標は、神保町の古書店街を指していた。 相模教授の店だ。

『追跡者あり。電子機器を切れ。アナログで移動しろ』

最後のメッセージが表示されると同時に、PCの画面が一瞬赤く点滅し、通信は途絶えた。

慧は空を見上げた。 曇り空の下、鳥が一羽飛んでいる。 本物の鳥か、それともカラスが操るドローンか、あるいは敵の目か。 もう、何も信用できない。

「アナログで移動しろ、か」

慧はインカムの電源を切り、バッテリーを外した。 スマートウォッチも、スマホもない。 手元にあるのは、古びたPCと、わずかな現金、そして自分の足だけ。

慧はフードを目深に被り直し、人混みの中へと歩き出した。 かつてAIが「最適解」を示してくれた世界で、彼は今、自分の直感だけを頼りに、迷路のような東京を横断しなければならない。

次の目的地は、古書店。 そこで待っているのが救いなのか、それとも新たな絶望なのか。 慧の背中には、都市の影が色濃くまとわりついていた。

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2026年1月12日 19:00 隔日 19:00

静寂の特異点 II:残響(レゾナンス)の管理者 カラス @kazunishi0514

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