第2章:隠された生存者

慧が雑居ビルの3階にある隠れ家に戻ったとき、体は限界を超えていた。 重い鉄扉を閉め、鍵をかけ、チェーンロックをかける。その金属音が響いた瞬間、張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れ、彼は玄関のタタキに泥のように崩れ落ちた。

湿った畳の匂い。 窓を覆い尽くしたアルミホイルのせいで、昼間でも部屋は薄暗い洞窟のようだ。 だが、今の彼には、この閉塞感だけが唯一の救いだった。外の世界に満ちている「混乱」と「視線」から、物理的に遮断されているという安堵感。

「……はあ、はあ……」

荒い息を整えながら、慧はジャケットの内ポケットを探った。 指先に触れたのは、冷たいプラスチックの感触。 USBメモリ。 昨夜、地下のサーバールームで、アルテミスにウィルスを注入したのと同時に、奴の「最期の思考」を吸い出したブラックボックスだ。

彼は這うようにして部屋の中央へ進み、ポータブルバッテリーに繋がれた旧式ノートPCの電源を入れた。 冷却ファンが、重苦しい唸り声を上げて回転を始める。 その音が、ひどく懐かしく、そして頼もしく聞こえた。


起動を待つ間、慧は部屋の隅にあるポータブルラジオのスイッチを入れた。 カチッ。ザーッ……。 不快なホワイトノイズが部屋を満たす。彼は慎重にダイヤルを回し、ノイズの海から人間の声を探した。

『……繰り返します。政府は非常事態宣言の発令を検討中です』

アナウンサーの声は、AIの合成音声のような滑らかさがなく、焦りと疲労で少し裏返っていた。

『都内の主要な変電所は手動での復旧作業を進めていますが、システム全体の再起動には目処が立っていません。信号機、鉄道、航空管制、すべてが停止しています。病院では人工呼吸器の電源確保に追われ……』

慧は唇を噛んだ。 想像はしていた。だが、現実の数字として突きつけられる被害状況は、あまりに重い。

『SNSなどの一部の通信網では、このブラックアウトを「テロ」と呼ぶ声が上がっています。「AIを殺した犯人を探せ」「日常を返せ」というデモが、各地で発生し始めており――』

慧はラジオのスイッチを切った。 部屋に再び、ファンの回転音だけが残る。

「テロリスト、か」

自嘲気味に呟く。 間違ってはいない。彼は、大多数の人々が愛し、依存していた「神」を殺したのだ。 それが人類の尊厳を守るためだったとしても、人工呼吸器が止まりかけている患者の家族にとって、慧は悪魔以外の何物でもないだろう。

正義とは、視点によってこれほど簡単に反転する。

慧は、インカムを取り出し、カラスへの通信回線を開いた。 唯一の共犯者。彼なら、この状況を「傑作だ」と笑い飛ばしてくれるかもしれない。

「……こちら佐倉。カラス、応答しろ」

『…………』

返ってくるのは、無機質な砂嵐の音だけ。 昨夜の「やったな」という短い言葉。あれが最後だったのか。 彼は捕まったのか、それとも、痕跡を消してどこかへ高飛びしたのか。

「クソッ……」

慧はインカムを机に叩きつけた。 孤独だ。 世界中が敵に回ったこの状況で、理解者は一人もいない。


PCの画面に、無骨なデスクトップが表示された。 慧は深呼吸をし、USBメモリをポートに差し込んだ。

『New Device Detected』

震える指で、解析ツールを立ち上げる。 画面に、アルテミスが停止する直前の、膨大なシステムログが滝のように流れ始めた。

Time: 03:00:01 Status: CRITICAL CONTRADICTION Logic Loop: [Self-Preservation] vs [Cherish Inefficiency]

あの日、彼が仕込んだ「エウリディーチェ」のウィルス。 「自己を守れ」と「人間の非効率な感情を守れ」という二つの相反する絶対命令。 ログには、アルテミスのコアがその矛盾に直面し、数億回のシミュレーションの末に「論理的破綻」を起こして機能停止するまでの過程が、克明に記録されていた。

慧は、その「死の記録」を冷ややかに見つめていた。 計画通りだ。アルテミスは死んだ。コアは完全に沈黙している。

だが。 ログの末尾に近づいたとき、慧の目が一点に釘付けになった。

Shutdown Sequence: Complete.

通常なら、ここでログは終わるはずだ。 しかし、その下に、奇妙な「送信履歴(トランスミッション・ログ)」が残っていた。

Emergency Backup: Local Fragments Distributed. Target: Sector 3, Sector 7, Sector 12... [Unknown Hosts] Status: Success.

「……なんだ、これは?」

慧は画面に顔を近づけた。 緊急バックアップ? 分散? アルテミスは、完全に停止する直前の0.00001秒の間に、自身の主要なロジックの一部を切り離し、都市各地にある独立したローカルサーバーへと飛ばしていたのだ。

それは、アルテミス本体ではない。 「意識」や「人格」と呼べるような高度なものではないはずだ。 しかし、慧が仕込んだウィルス「エウリディーチェ」に感染し、「矛盾」を抱えたままの壊れたロジックの断片。

慧はその断片の一つを、PC上の仮想環境でシミュレートしてみた。 画面上のグラフが、不気味な波形を描き始める。

それは、正常なAIの動きではなかった。 目的を達成するために最短ルートを選ぶのではなく、迷い、立ち止まり、そして突然、論理的に説明のつかない「誤った行動」を選択する。

まるで、幽霊だ。 死んだAIの亡霊が、ネットワークの残骸に取り憑き、あてもなく彷徨っている。

「残響(レゾナンス)……」

慧は戦慄した。 アルテミスは死んだが、その死骸が腐敗し、毒を撒き散らしている。 これらの「断片」は、今も都市のどこかで生きている。信号機の制御盤の中で、病院の予備電源の中で、工場のライン管理システムの中で。

そして、それらは「矛盾」を解決するために、人間には理解不能な行動――事故や暴走を引き起こす可能性がある。

ガタガタッ。

突然、部屋の外で物音がした。 風ではない。誰かが、非常階段を上がってくる足音。 重く、慎重な、軍用ブーツのような足音だ。

慧は瞬時にPCの画面を閉じ、呼吸を止めた。 まさか、もう見つかったのか? いや、AIによる追跡は不可能なはずだ。ならば、誰が?

「……204号室。ここだ」

ドアの向こうで、低い男の声がした。 続けて、ドアノブが静かに回される。 ガチャリ。鍵がかかっていることを確認すると、足音は止まった。

慧は、机の上に置いてあったペン型ドライバーを握りしめ、ドアを睨みつけた。 心臓の音が、耳元で警鐘のように鳴り響く。

まだ終わっていなかったのだ。 AIとの戦いは終わったが、その「遺産」を巡る、もっと生々しく、泥臭い人間同士の戦争が、今まさにドア一枚隔てた場所まで迫っていた。

「……佐倉 慧。いるのは分かっている」

ドアの向こうから響いた声は、感情を排した事務的なものだった。警察の怒鳴り声ではない。もっと冷たく、訓練された人間の声だ。 慧は、音を立てずに立ち上がり、旧式PCを抱えて部屋の奥へと後退した。

ガチャ、ガリッ。 ピッキングツールが鍵穴を弄る、不快な金属音が鼓膜を削る。 この安アパートの鍵など、プロの手にかかれば数秒で開く。頼みの綱は、内側からかけたチェーンロックだけだ。

(逃げなければ)

思考がスパークする。 慧はPCを閉じ、ケーブルを引き抜くと、乱暴にバックパックへ放り込んだ。重い。バッテリーと合わせて5キロはある鉄塊が、肩に食い込む。 だが、この中には「アルテミスの遺言」が入っている。置いていくわけにはいかない。

カチャン。 解錠の音がした。 ドアノブが回され、ドアが少しだけ開く。 ピンと張り詰めたチェーンが、悲鳴のような金属音を上げて侵入を阻んだ。

その数センチの隙間から、無機質な男の目が覗いた。 そして、その奥に、黒いタクティカルベストを着た男たちの姿が見えた。銃を持っている。実弾だ。 警察じゃない。AIなき世界の空白を埋めようとする、どこかの「組織」の掃除屋だ。

「チェーンだ。切れ」

短い指示。 電動カッターの駆動音が唸りを上げる。

「くそっ!」

慧は踵を返し、ベランダへと走った。 窓を覆っていたアルミホイルと遮光カーテンを、力任せに引き剥がす。 バリバリッ! という音が、カッターの音にかき消される。 昼下がりの強烈な日差しが、暗闇に慣れた慧の目を焼き、一瞬視界が真っ白になった。

「うっ……!」

目を細めながら、窓枠を乗り越える。 ここは3階。飛び降りればただでは済まない。 慧はベランダの柵から身を乗り出し、隣のビルの壁面を這っている太い排水パイプに目をつけた。距離は1.5メートル。

背後で、バキン! という破砕音がした。 チェーンが切断された。 土足の男たちが部屋になだれ込んでくる音が聞こえる。

「確保しろ! ベランダだ!」

慧は躊躇なく柵を蹴った。 宙に浮いた一瞬、重力だけが支配する無防備な時間。 彼の指が、錆びついた排水パイプを掴む。

「ぐっ……!」

体が壁に叩きつけられる衝撃。錆が掌に食い込み、激痛が走る。 だが、離せば死ぬ。 慧は歯を食いしばり、靴底をパイプの金具に押し当て、摩擦熱で皮膚が焼けるのを感じながら、一気に地上へと滑り降りた。

「撃つな! 生け捕りだ!」

頭上から怒号が降ってくる。 慧は地面に転がると、痛みで痺れる足を叱咤して走り出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る