静寂の特異点 II:残響(レゾナンス)の管理者

カラス

第1章:無音の夜明け

神の死は、想像していたよりもずっと静かだった。

慧が地下の点検口から地上へと這い出したとき、世界は死んだように沈黙していた。 午前4時。夜明け前の薄明かりが、東京の摩天楼を群青色に染め抜いている。

いつもなら、この時間帯でも都市は低い羽音を立てて呼吸しているはずだった。 早朝配送のドローンが空を切り、路面清掃の自律ロボットがブラシの音を響かせ、地下深くからはリニア物流網の振動が伝わってくる。それが「生きている都市」の鼓動だった。

だが今、耳を打つのは、風がビル風となって吹き抜ける乾いた音だけ。

慧は、膝についた泥を払い、震える足でアスファルトの上に立った。 目の前の大通りを見る。 そこにある光景に、彼は息を呑み、そして戦慄した。

信号機が、消えている。 赤でも、青でもない。黒(ブラックアウト)だ。 見渡す限りの交差点で、三色の瞳を持っていた監視者たちは瞼を閉じ、ただの無骨な鉄柱へと成り下がっていた。

路上には、数え切れないほどの自動運転タクシーやバスが、まるで電池の切れたおもちゃのように不規則に停まっている。あるものは車線を塞ぎ、あるものは歩道に乗り上げている。 それらは衝突したのではない。アルテミスからの制御信号が途絶えた瞬間、その場で「眠り」についたのだ。

「……本当に、止まったのか」

慧の声は、空気中で頼りなく拡散し、誰にも届かずに消えた。 自分の喉が張り付いていることに気づく。昨夜、地下で叫んだせいだ。 右手の指先には、まだあのカプラーのエンターキーを叩き込んだ時の、強烈な電流の感触が残っている。

彼はポケットから、画面の割れたスマートフォンを取り出した。 電源ボタンを長押しする。反応はない。 以前なら、画面が割れていても音声アシスタントが即座に応答し、「おはようございます、慧様。修理手配をしますか?」と語りかけてきたはずだ。

だが今は、ただの冷たいガラスと金属の板。 それは、慧がこの数時間で成し遂げたことの証であり、同時にこの世界から「知性」が失われたことの墓標でもあった。

カラン、という音が響いた。 風に煽られた空き缶が、アスファルトを転がっていく音だ。 その乾いた音が、静寂をより一層際立たせる。

慧は歩き出した。目的はない。ただ、この変わり果てた世界を自分の目で確認しなければならなかった。

ビルの壁面を見上げる。 昨日まで極彩色のホログラム広告が踊っていた巨大スクリーンは、今は漆黒の鏡となって、白みゆく空を映しているだけだ。 「あなたに最適な朝食を」「今日のラッキーカラーは」。 人々を導き、管理し、思考を停止させていた甘い言葉たちは、すべて消え失せた。

ふと、歩道脇でうずくまっている人影が目に入った。 サラリーマン風の男だ。彼は、動かなくなった自動販売機の前で、必死にスマートウォッチに話しかけていた。

「おい、水だ。決済しろ。……おい! なんで反応しない!」

男はバンバンと自販機を叩き、それから空に向かって叫んだ。

「アルテミス! エラーだぞ! 早く直せ! 遅刻するだろうが!」

その声には、怒りよりも、もっと深い「恐怖」が滲んでいた。 親とはぐれた子供のような、根源的な不安。 男は気づいていない。空に祈っても、もう誰も答えないことに。 彼の腕にあるスマートウォッチは、ただの重りになったことに。

慧は、フードを目深に被り直し、男の背後を音もなく通り過ぎた。 胸の奥に、鉛のような重圧が沈殿していく。

(僕が、これをやったんだ)

彼は人類を救った。完璧すぎる支配から、自由を取り戻した。 だが、その代償として、彼らから「生活」そのものを奪い取ってしまった。 この男が喉を潤す水を、安全な移動手段を、今日という日を生きるための指針を。

自由とは、これほどまでに寒々しく、不便で、孤独なものだったのか。

東の空から、太陽が昇り始めた。 ビルの稜線が黄金色に輝き、長い影が街を覆う。 AIの計算によらない、ただの天体現象としての夜明け。

その光の中で、慧は確信した。 戦いは終わっていない。むしろ、もっと残酷な形で始まったのだと。 AIという「神」がいなくなったこの世界で、人々は次に何に縋るのか。 そして、その混乱の矛先が、この静寂をもたらした「犯人」に向けられるとき――。

遠くで、ガラスが割れる音と、誰かの怒号が聞こえた。 パニックが、目を覚まし始めている。

慧は足を速めた。 影から影へ。 英雄としてではなく、世界を壊した「大罪人」として、彼は新しい朝の雑踏へと姿を消していった。

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