第3話
湿った空気と、カビの匂い。
天井から滴り落ちる水滴の音。
そして何より、肌にまとわりつくような濃密な『闇』。
初心者用ダンジョン『ゴブリンの洞窟』。
一般人なら恐怖で足がすくむような場所だが、俺にとってはまるで実家のような安心感があった。
(……落ち着くなあ)
俺の能力、『影の君主』の力の源は、文字通り影だ。
光源の少ないダンジョン内は、俺にとってステータス補正が掛かるホームグラウンドと言っていい。
深呼吸をすると、周囲の影が「おかえり」と囁いている気さえした。
「おいF級! トロトロ歩いてんじゃねえぞ!」
そんな俺の癒やしの時間を、ダミ声がぶち壊した。
D級ハンター、ゴウダだ。
「す、すみません!」
俺は咄嗟に腰を低くし、小走りで彼らの後を追った。
今の俺の背中には、登山用の巨大なリュックサックに加え、ゴウダの予備武器である大剣、パーティの魔法使いの杖、さらには食料が入ったクーラーボックスまで積まれている。
総重量は八〇キロを超えているだろう。
普通のF級なら、一歩歩くだけで膝が折れる重さだ。
(……軽いな)
だが、俺の体感重量は学生鞄ひとつ分程度だった。
どうやら俺の基礎身体能力は、10年前の全盛期に近い状態で維持されているらしい。
これなら全力ダッシュも余裕だが、ここで実力を見せるわけにはいかない。
「ハァ……ハァ……重いです、ゴウダさん」
「はんっ、情けねえ野郎だ。それがハンターの洗礼ってやつだ、感謝しろよ?」
ゴウダがニタニタと笑い、取り巻きの男たちも同調して笑う。
「マジで使えねえなF級は」
「ま、囮(デコイ)くらいにはなんじゃね?」
彼らは完全にピクニック気分だった。
大声で喋り、足音をドカドカと鳴らし、タバコまでふかしている。
(……素人かよ)
俺は内心で深いため息をついた。
ダンジョン内での大声は厳禁だ。音は壁に反響し、遠くの魔物まで呼び寄せてしまう。
それに隊列も酷い。魔法使いが孤立しているし、角を曲がる時のクリアリング(安全確認)も全くなっていない。
もし俺が現役の工作員で、こいつらが部下だったら、最初の曲がり角で全員張り倒して説教しているところだ。
「へへっ、今日の報酬が入ったら、夜はキャバクラっすねゴウダさん!」
「おうよ! S級の天宮セツナみてえな美人は無理でも、金がありゃいい女は抱けるからな!」
ゴウダの下卑た笑い声が、洞窟の奥へと反響していく。
……だめだこいつら。
死亡フラグの建築士か? 芸術的なまでに死に急いでいる。
◇
洞窟に入って三〇分ほど経過した頃。
俺は、ある「異変」に気づき始めていた。
(……おかしい)
ここは『ゴブリンの洞窟』だ。
本来なら、入り口付近で数匹の見張りゴブリンと遭遇し、中盤では小規模な群れに襲われるはず。
なのに、ここまで一匹も出てこない。
静かすぎる。
虫の羽音ひとつしない静寂が、不気味に漂っている。
「あれぇ? 今日は休業日か?」
ゴウダもようやく敵がいないことに気づいたらしいが、危機感を持つどころか、あくびをしている。
「楽勝すぎて退屈だなー」
「ゴブリンども、俺たちの覇気にビビって逃げたんじゃないっすか?」
違う。
俺の『影』による索敵感覚が、肌をチリチリと刺している。
逃げたのではない。
もっと恐ろしい何かがいて、ゴブリンたちが「食いつくされた」か「隠れている」かだ。
俺はふと、地面のぬかるみに視線を落とした。
そこに、奇妙な窪みがあった。
(……足跡?)
大きい。
人間の足の倍はある。
しかも、深々と地面にめり込んでいる。相当な重量を持つ証拠だ。
その横には、岩盤を豆腐のように切り裂いた、鋭利な爪痕まで残されていた。
(ゴブリンじゃない。これは……)
俺の脳裏に、ある魔物のデータが浮かぶ。
推奨討伐ランクB以上。
初心者ダンジョンにいていい存在ではない。
「……あの、ゴウダさん」
俺は極力、下手にでて声をかけた。
「あぁ? なんだよ荷物持ち」
「この足跡、見てください。ゴブリンにしては大きすぎます。それに、この爪痕……何か別の魔物がいるんじゃ」
「はあ?」
ゴウダはチラリと地面を見ただけで、鼻で笑った。
「ビビってんのかF級。ただの岩の模様だろ、バーカ」
「いや、でも」
「うるせえ! 俺たちが『安全』って言ったら安全なんだよ! 素人は黙って荷物持ってろ!」
ゴウダに胸ぐらを小突かれる。
取り巻きたちも「F級が意見すんなよなー」「臆病風に吹かれたか?」と嘲笑う。
……なるほど。
話が通じる相手じゃないな。
俺は静かに口を閉ざした。
警告はした。これ以上は、俺が正体を明かさない限り無理だ。
最悪の場合、俺一人で逃げ――いや、こいつらが全滅する前に、こっそり影から支援してやるか。
死なれると、荷物持ちの俺まで事情聴取されて面倒だしな。
俺がそんな算段を立てていた、その時だった。
ズンッ。
空気が震えた。
足元から、腹に響くような重低音が伝わってくる。
「ん? 地震か?」
ゴウダが立ち止まる。
ズンッ、ズンッ、ズンッ。
違う。
これは、足音だ。
巨大な質量を持った何かが、暗闇の向こうから、ゆっくりとこちらへ近づいてきている。
同時に、鼻をつく強烈な腐臭が漂ってきた。
血と、排泄物と、腐った肉を混ぜ合わせたような悪臭。
「な、なんだ……?」
「おい、なんか臭くねえか?」
D級ハンターたちの顔から、余裕の色が消えていく。
松明の明かりが届かない洞窟の奥。
その漆黒の闇の中に――
ギロリ。
二つの『赤い光』が灯った。
いや、それは光ではない。
見上げるほど高い位置にある、充血した巨大な双眸だ。
「「「――――ッ!?」」」
ゴウダたちが息を呑む。
闇から姿を現したのは、筋骨隆々の巨体。
赤黒い皮膚。口から飛び出した二本の牙。
そして手には、ひひしゃげた鉄塊のような棍棒が握られている。
『GRRRRRRR…………』
喉を鳴らす音が、雷鳴のように洞窟を揺らす。
間違いない。
オーガ。
それも、通常の個体ではない。肌の色が濃い、『変異種(ジェネラル)』に近い個体だ。
D級パーティが束になっても勝てない、動く災害。
「嘘、だろ……? なんでこんな所に、オーガが……」
ゴウダが腰を抜かし、後ずさる。
さっきまでの威勢はどこへやら、その股間からはじわりと染みが広がっていた。
『GAAAAAAAAAAAAAAAッ!!』
オーガの咆哮が炸裂した。
衝撃波だけで吹き飛ばされそうになる中、俺は冷静にバックパックのベルトを緩めた。
(……さて、残業の時間か)
最悪の初陣が、幕を開ける。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます