電気あれ

月立淳水

電気あれ


 ふと転んだ拍子に頭を打ったらしい。

 目が覚めると、さっきまで歩いていた駅までの道のりの途中ではなかったことが最大の違和感だ。

 次の違和感が搬送されたにしては道路に放り出されているところ。

 要するに、搬送されるわけでもなく、頭を打って前後不覚の間に無自覚にふらふらとここまで歩いて、そこで倒れてしまったのらしい。

 それにしても、あまりに見覚えのない風景だ。

 私が住んでいる町は、確かに郊外ではあるけれど、今目の前に広がっているような田園風景はどこにも見られなくなっていたはずだ。

 雑木の茂る山並みがすぐ近く、ほんの徒歩数分のところにまで迫っているのが見える。平地となったところに青いスレート屋根の平屋の民家が数件。そこから私のいるこの小さく盛り上がった土手状の道まで、田畑がぎっしりと埋め尽くしている。近頃ではあまり聞かない蛙の鳴き声がところどころから聞こえてきて、水田に水が張っていることに気付いた。

 遠くから、きぃん、という空気を切るような高い音が聞こえてきて、ふと見ると、麦わら帽子をかぶった体の小さな老人が、背丈の半分ほどのロッドで地面を撫で回しているのが見えた。どうやら、伸び始めた雑草に今シーズン最初の一撃を食らわしているらしい。ロッドの先で粉々にちぎれた緑の粉が舞い、草いきれがここまで匂ってくるようだ。

 さわやかな風が吹き抜けていく。


 ――さて、ここはどこだろう。


 声に出さずにつぶやき、じっくりと辺りを観察してみた。私が立っている道路は軽自動車がようやく通過できそうな狭い道で、アスファルトではなくコンクリート舗装のようだ。それもだいぶくたびれてひびだらけ。その道が田畑の中をやや蛇行しながら突き抜けていて、細い枝道を伸ばしている。後ろを見ると、道路の伸びた先がもう少し大きな道路に突き当たっているようで、ようやく道案内の標識らしきものを見つけた。この場所の手がかりを見つけた安堵感を引きつれ、私はともかくそこに向かった。

 やがてたどり着いたその標識には、こう書いてあった。

『こんまませぐ、●ヶ谷村』

 正確に言い直そう。こう書いてあるように見えた、だ。想像力を目一杯にはたらかせてようやくこう書いてあるように思えた、にすぎない。●の部分はそれでも何の字か分からなかった。

 中国人が見様見真似で日本語を書くとちょうどこんな感じだな、などと状況に似合わぬ感想を抱きながら、私は途方に暮れた。

 他に案内看板らしきものはない。

 道は対面二車線の広めの道だが、やはりコンクリ舗装で、車線の幅は狭い。道の両脇に竹でできたガードレールのようなもの――ずっと繋がった竹筒をハの字の竹の柱が支えているようなもの――が続いている。ガードレールにしては心細い構造だな、と思いながら近づくと、小さな字で一列にずっと、『わさるなわさるなわさるな……』と書いてある。触るなと言うなら触るまい、と手を引っ込めて、よくよく見ればその字が、わ・さ・る・な、であることに気付く。

 悪い夢でも見ているような気分だ。

 つかみどころなく漂う景色は、まさに白昼夢としか言いようがない。

 私は意を決してきびすを返した。この風景の中、唯一私に理解できるもの――草刈りをしている老人――の所へ向かうため。

 コンクリート舗装の道路からあぜ道に入ると、敷き詰めている砂利が音を立てて、夢の光景にわずかながらの現実感をもたらす。

 高い金きり音が近づいてきて、次第に草が切り飛ばされるばさばさという音が重なり始めた。老人の姿はもうすぐ目の前だ。

 私は、彼が気付くまで、あぜ道にじっと立ち尽くした。

 うつむいてもくもくと草を刈っていた老人が、ふと目を上げる。田園風景に不釣合いなスーツ姿の私が目に入ったろう。

 彼は何かを操作して、草刈り機を止めた。

 そして、口を開いた。

「おへそんな、だくらくたいとだや? はんねだそそこどいておなえねや?」


 * * *


 さて、老人の言葉を聴いて盛大なめまいを覚えたあの日から、もう1ヶ月になる。

 私には、ようやく事態が飲み込めてきた。

 笑えるような話だが――いや、むしろ笑い飛ばしてもらえればいいのだが――ここは、『異世界』のようだった。

 マルチバース理論がどうのこうのというのは分からないが、宇宙にはそれが丸ごとコピーされたような『平行宇宙』があって、よく似た過程を経ながらもわずかずつ異なる世界が無数に重なっている、そんなものがあるという与太話は、まるで知らないでもない。そんな平行宇宙の一つ、いわば異世界が、この世界のようなのだ。

 何の因果か、少し腹を壊して遅めの出勤をしようと家から駅まで歩いていた私は転んだ拍子に異世界にジャンプし、そこで目を覚ましたのだ。

 ――語っていて再びめまいがしてきた。小学生の妄想以下の酷いプロットだ。こんな話で小説でも書いたものなら、読んだもの皆失笑必至。

 それが事実だというのだからめまいは慢性の頭痛を伴うようになる。

 老人の言葉はまるで理解できなかったが、よくよく聞いてみれば『どこかを掛け違えた日本語』のようだった。つまり、この世界は地理的には元いた世界とさほど変わらず同じように日本民族が誕生し同じように日本語が発達したのだろう。ただ、どこかで生じた掛け違いが伝播し、私の知る日本語とはずいぶん別物になっているだけだ。母言語となった原始日本語はおそらくほぼ共通のものだったのか、会話にならない会話を繰り返すうちにようやくお互いのしゃべる言葉が通じるようになってきたのが最近だ。イントネーションや語尾は、私の知るうちでは北関東から東北にかけての方言に近い。

 その老人との会話、老人の紹介してくれた数人の村人たちとの会話から、最終的に私はここが異世界だと確信するにいたった。

 私は可能な限り、この世界のことを知ろうと努力した。

 この世界にも、私の元いた世界のインターネットに近いものはある。ただ、情報は分散しており、いっそうの集中化が進む『私の知るインターネット』とは違う方向に進化している。あるいは、進化が止まっている。その理由は、後に知ることになるので、追って記そう。

 そしてこの世界のことを一言で記すならば、『電気工学が異様に早期に発達した世界』だ。

 これがほとんど事実だと確信したのは、極単純な事実による。

 ユダヤ教かキリスト教に似た古典的一神教の最初期の聖書に、書かれているのだ。

『主はそして、人に電気を与えた』

 神様は光あれと言って世界を作ったついでに、電気あれとつぶやいて電気工学の基礎を形作り、人類に与えたらしい。

 神話を鵜呑みにしない立場から言えば、おそらく先史時代に人類の知恵は電気工学に到達し自在に電気を操ることが種族の本能の深さにまで浸みこんでしまった、といったところだろうか。

 なぜそうなのかはもはや想像もできない。人類は進化の結果本能に電気工学が刻まれた存在として誕生したのかもしれないし、あるいは、本当に神が電気工学だけを伝えていったのかもしれない。

 真実は知れぬが、事実としてこの世界は電気工学だけが異様に発達し、私の知る世界から見ればずいぶんと歪な風景を作り出しているようだ。

 たとえば、道路脇にあった謎の竹筒。あの中には、高温焼成した木炭が詰まっている。高温で処理した木炭はグラファイトを多く含み導電性が金属に匹敵する。一方、耐候加工した竹は理想的な絶縁体だ。つまりあれは、電力線である。どこかで発電した電力を各家庭に届けているのだ。

 どの家庭にも大容量のバッテリーがあり、しかも一度購入すれば50年はメンテナンスなしで蓄電能力を維持できるというから、私の知る世界のバッテリーからすればはるかに進歩したものだ。バッテリーの技術力と竹筒の電力線のアンバランスさ。それがアンバランスだと思う私の考えこそ、この世界ではアンバランスなのかもしれないが。

 このような風景が生じる原因の一つは、電線を作るための金属やゴム資源が極めて貴重だということだ。

 そういった資源はあるところにはある。だが、運ぶコストが高い。そうした資源を船で運ぶより、低品質のケーブルで運んだ電気を溜め込み高品質の電源に変換する装置を各家庭に置いたほうが安くつく。

 なぜそうなるのかと問われれば、それこそ『歴史的にそうなってしまった』としか答えられない。なにしろ、大航海時代より前に電気工学を駆使した都市を作ってしまったのだ。外洋でしか採れないゴムや大量の銅を湯水のように使う送電線システムはそれよりずっと遅れてゆっくりと普及していかざるを得ない。こうした田舎では『昔ながらの木炭送電』がまだ盛んなのだ。

 日本の発電量は、ほぼ全量が水力発電だ。これも『昔ながらの』、だ。日本初の水力発電所は紀元前には作られていたらしい。巨大なダムを作ってまとめて発電するよりは、要所要所に小規模なため池を作る方式だ。これも、木炭による送電ロスと川を流れ下る水の水力ロスを天秤にかければこうなるのらしい。川自身を送電網とみなし、できるだけ需要地近くに需要を満たす最小限の発電所を作る。私の知る世界で言うところの変電所に近い役割だ。

 このような具合で、この世界ではあらゆるエネルギーのやり取りを電力の観点で理解しようとする。そのように人類の脳ができている。たとえ田舎の村であぜ道の草刈をしているじいさんでさえ、電気の扱いについてはほぼ直感だし、電力の流れで物事を説明しようとする。工学部卒でそれなりの素養があると自負していた私でも舌を巻くことが多い。

 このようなふざけた景色の中、私がこの世界のことを知ろうと躍起になったのは、私自身の好奇心のなせる業であることは否定しないものの、やはり、望郷、つまり、どうすれば元の世界に帰れるか、そのことだ。

 その結果分かったことは、この世界が歪であることと、私の世界とのつながりをにおわせるものは(言語や地形の類似性を除いて)まるで無い、ということだった。転んで頭でも打てば戻る(あるいは目が覚める)かもしれないが、少なくとも慣れない田畑の手伝いで合わせて十三度転んだ結果は、見てのとおり。

 私は、半ばあきらめながら、田畑の手伝いをして日々を過ごす。


 * * *


創世記 1:1 はじめに神は天と地とを創造された。

創世記 1:2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。

創世記 1:3 神は「電気あれ」と言われた。すると電気があった。

創世記 1:4 神はその電気を見て、良しとされた。神はその電気と焔とを分けられた。


 * * *


レビ記 10:1 さて、アロンの子ナダブとアビフは、おのおの自分の火窯を取り、その中に火を入れ、その上に水を盛り、主が彼らに命じなかった焔による車輪の回転を【主】の前にささげた。

レビ記 10:2 すると、【主】の前から電気が出て、彼らを焼き尽くし、彼らは【主】の前で死んだ。

レビ記 10:3 それで、モーセはアロンに言った。「【主】が仰せになったことは、こういうことだ。『わたしに近づく者によって、わたしは自分の電気を現し、すべての民の前でわたしは電気の栄光を現す。』」それゆえ、アロンは黙っていた。


 * * *


 さらに2ヶ月がたち、私はすっかり農民としての暮らしに順応しつつあった。元は炎天下だろうが吹雪の中だろうが顧客に呼ばれればどこにでも飛んでいく御用聞き営業のサラリーマンだったからか、体力は案外彼らについていけた。と言うより、彼らの農業のかなりの部分が電化されていて、体力頼りの作業はさほどになかった。電気草刈り機で草を刈るのは私が初めて見た光景だったが、同様に、電気トラクターや電気コンバインは近在の農家の共有機材として手続きさえ踏めば誰でも使える。肥料の多くも共同管理された作業場で合成されている。動植物の残滓を発酵させる有機肥料の発酵窯もあれば、有用な化合物を空気中の窒素やわずかの原材料から純粋に電気合成する『昔ながらの』肥料生産だ。もちろん、電気が無尽蔵にあるわけではない。むしろ電気は貴重な資源だ。それでも、日夜休まず流れる川や吹く風から起こされる電気は非常識なほど高性能のバッテリーに分散蓄電され、驚くほど効率的に使われている。

 私は、この2ヶ月で、この世界が私の世界のどの時代に当たるのかを確かめようとした。世界中の文献を読み漁ろうと思い、インターネットサーフィンのように文書から文書へと飛び回ろうと思った。だが、情報は分散し、かつ、分断されていた。これは先も記したとおりだ。そして、なぜそのようなことになっているのか、その理由も私にはわかったように思う。

 この世界では、巨大なサーバ、あるいはデータセンターを集中的に維持するための大電力が確保できないのだ。

 電力は分散して生成され分散して消費される。どこか一か所に集めて使うためには高品質な送電網が必要だが、それが無い、あるいは、非常に整備が遅れている。この田舎のように、いまだに木炭に頼る地域さえ多い。結果、私が読める文書は、限られている。

 この地域が属するもう少し広域の自治体、私の知る世界との対比でここではそれを便宜上『県』と呼ぶが、県単位程度でサーバが分散されている。その県内で発行されたものか、県内の情報事業者が扱える範囲で外から移入された公共資料程度だ。

 宗教の教書などはその一例だ。世界史と呼ばれる修学分野が無いわけではないから、高等学校の教科書の引用などからある程度世界の歴史を知ることはできるものの、その背景にまでしっかりと踏み込んだ考察はなかなか見られなかった。

 そのうえでの推測だが、実のところ、今のこの時代は、私が元いた時代と全く同じ年代のようだ。

 古代の哲学や科学の発展の経過が私の知る歴史とはまるで違うらしいのでたしかとは言えないが、どうやらきわめて重要な精神的リーダーの出現は同期しているらしい。つまり、ブッダや孔子やキリストやモハメッドに相当する宗教的偉人がこの世界でもおおよそ同じ間隔で現れているようなのだ。それらが、私の知る世界とほぼ一致していることから、時代は一致している、と私は考えた。

 同様に、私が倒れていた位置は、私の自宅と駅の間の路上と完全に一致しているらしい。時間も位置も全く同じ別世界にスリップした、というわけだ。

 これでようやく、元の世界に帰る唯一の可能性が見えた。つまり、行きと同じ異世界スリップが起きるのを待ち続けることだ。時間も場所も同じでさえあれば、同じ仕掛けで帰れるはずなのだ。

 そのようなわけで、必要に迫られこの場所で暮らしていくために、当面農家の手伝いとして当面住まわせてもらえるように老人たちに頼み込んだ。彼らは快く受け入れてくれた。彼らからすれば奇抜な恰好をした異人に違いないのだが、前後不覚の旅人を無下に追い出すことはさすがにためらわれたのだろう。近隣の農家で人手が必要になった時に出かけていっては手伝い、少々のお礼を持ち帰って家計の足しにすることで老人の家に住まわせてもらっている。

 さて、ここからは単なる興味の話だが、なぜ同じだけの文明時間があったのに、これほどまでに発展がかけ離れているのか。どうもこの世界では定常的に使えるエネルギーが限られ、にもかかわらず、産業革命に頼らずとも自動化された動力を最初から得ていたため、そもそも私の世界で言う産業革命が起こっていないらしい。蒸気動力や内燃機関は発明されておらず、航海は帆船にバッテリー動力を積み込んだ半動力船。陸上輸送の主力は大型電動トラックで、大電力の集中運用が必要な電気鉄道は当然発明されていない。産業革命に必要な『化石燃料を大量に掘り出し湯水のように燃やす』というステップにたどり着いていないのだ。一方、高品質のバッテリーのようなものだけは、どうやら欧州のどこかで生産され、陸路海路を駆使して世界各地に届けられている。出来合いの『昔ながらの木炭電線』が張り巡らされている限り、電気の分散需給より化石燃料の大量輸送がコスト的に有利になることは当面起こりそうにない。

 こうして、生産のためのエネルギーも極力抑えての生活が世界各地で送られている結果、バッテリー産地を除く世界の多くの地域はこの村のように中世然とした風景が広がっている。


 * * *


 そこで私は、産業革命を起こしてみようと思う。

 理由? そんなものはない。

 起こっていないものを起こしてみたい。それだけだ。

 なにせ、私は高校の物理の自由学習でスターリングエンジンを作ったことがある。

 気体は圧縮すれば圧力と温度が上がり、開放すれば下がる。高校で習う内容だ。法則の名前などはとっくに記憶から抜けているが、直感は覚えている。その理屈さえ応用できれば熱機関は作れる。

 この世界の物理の教科書に体積と圧力と温度の関係に相当する記載は確かにあったが、それは単に自然がそういうものだという説明に過ぎなかった。万有引力がケプラーの法則を形作っている、というのと同程度の、生活とはまるで無関係の知識として載っているだけだ。

 話はそれるが、この世界には、通常の電気力とは別に『中性電気力』というものがあると教科書にあり、当初はびっくり仰天したものだが、よくよく読んでみれば、それは万有引力のことだった。

 閑話休題。私の作ったことのあるスターリングエンジンは、空き缶を利用した簡易的なもので、意味のある動力を取り出せるようなものではない。それでも、電気に依らず動く動力という点ではこの世界の革命に匹敵するだろうから、私はそれを断固として産業革命と呼びたい。

 まず最初の問題は、空き缶が貴重品だったことだ。

 缶詰のような保存食品が無いわけではない。ただ、そこに使われるアルミやスズが比較的貴重な資源のため、回収が極めて強力に推奨されている。それを、単なるおもちゃ作りに使わせてくれ、と頼むのには、ずいぶんと苦労した。近隣の子供たちの輪に入って遊び歩くというとんでもない遠回りまでして、『おもちゃ』作りの資材を確保した。

 次いで、気密保持や軸受けのためのプラスチックやゴム製品が、これまたきわめて貴重だという問題に当たった。

 もちろん農機などにはこれらの部品はふんだんに使われているが、村の共有機材から材料を削り取るわけにもいかない。定期整備でいくつかの部品がごみになる時期まで待たねばならなかった。ただ、結果として、軸やクランクのために必要な棒材等も十分に確保できたから、これは怪我の功名だろう。

 最後に問題となったのが、火、燃料だ。

 明かりを取るのにも料理をするのにも、直火を必要としない。この世界では、私の世界で火が聖なるものの象徴だったのと同様に電気の輝きと熱が聖なるものの象徴である。墓前には白熱電球が置いてあり、墓参りのときは簡易バッテリーをコネクタに差し込み電球を灯すのだ。

 私が行きついたのは、植物油を燃料にした行灯だ。やや深めの平皿に油を入れ木綿糸を浸したもの。これも上手に燃やせるようになるまでずいぶんと試行錯誤が必要だったが、固めの木綿糸を針金で少し支えてやることで火持ちが良くなった。

 冷却のための氷の準備はむしろ簡単だ。ペルチェ素子を使った冷凍庫は紀元前に発明されている。それが発明されたから、コンプレッサーは発明されず、おかげさまで回り道の産業革命も起こらなかった。

 最終的に加工が終わるまでにかかった期間については記すまい。笑われるに違いないから。一つ言い訳をさせていただければ、何しろ工具や接着剤さえなかなかに手に入らない世界なのだ、ということだ。

 そうして、いまやすっかり家族同然となった老人とその友人の若者を呼び、私の組み上げたおもちゃを披露した。LEDの間接照明の明るさの中、ぼんやりと浮かび上がったその装置は、ちょっとした回転機構を持つゴミにしか見えない。

 彼らが見守る中、電気着火器で燈心に火を灯すと、煤の混じった煙を上げながら炎が燃え上がった。

 それをそっとシリンダーの下に差し込む。

 シリンダーの中にわずかに残っていた水分が過熱されて弾け、チン、チン、と音を立てる。

 若者が驚いて瞬きするのが視界の端に見えた。野焼きや風呂焚きを除けば灯り続ける炎というもの自体がこの世界では珍しい。

 そろそろか、と目星をつけ、はずみ車をそっと回してやると、ぽこんぽこんという情けない音を立てながら、スターリングエンジンは始動した。

 見ていた若者は、おお、と声を上げる。身震いするような老人もいた。

 この通り、電気を使わずとも動力は得られるのです、と説明すると、彼らは目を皿にしてどこかにモーターが隠されていないかを探し、結局、電力無しでそれが回り続けていることを認めた。

 ここに、小さな小さな、私の遊び心を満たすことだけを目的とした産業革命は、成った。


 * * *


 結局私は、元の世界に帰れなかった。

 老いた父母はきっと私の兄が最後を看取っただろうが、行方不明となった私のことをどれだけ案じただろうかと心が痛む。

 私はこうして96歳までの天寿を全うしそうだ。で小作人付きの農地を見渡す限りに拡げ生活は豊かになった。あちらの世界では縁のなかった妻子というものも持てた。いまでは数えるのも苦労するほどの玄孫がいる。私の人生はそれなりに幸福だったと父母に伝えてやりたいものだが、さて、この世界の天国はあちらの世界と通じているだろうか。

 介護士が、孫らの来訪を告げる。庭で大型車のドアが開いたり閉じたりする音が聞こえる。

 今日の私の(仮の)誕生日に来られなかった孫ひ孫玄孫たちの声がスピーカーごしに聞こえる。彼らの多くは北米大陸住みだ。今では旅客機で6時間で行き来できるというのだから、時代は変わったものだ。

 子孫の多くがそろったところで、私は今日話そうと思っていたことに話題を進めた。

 私の農地に超高速鉄道が通るらしいが、広いばかりの休耕地なぞ残しておいても仕方がないからくれてやれ、と。

 私が頑固爺さんのようなことを言い出すことを恐れていた子ら孫らは、安どの表情だ。彼らは役立たずの農地よりは現金の遺産が欲しかっただろう。

 それから彼らとしばらく他愛もない会話をし、ささやかな集まりは終わった。

 唯一出席した孫家族が引き揚げてしばらく、介護士に雨戸をあけるよう頼む。

 まだ6月ごろだというのに、むっとするような熱気が流れ込んでくる。

 ここ数年の夏は、ずいぶんと暑い。


 * * *


ペトロ 3:7 今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々による焔で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである。

ペトロ 3:10 しかし、焔の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。

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