第7話 変化の兆し
シアンが提出した任務報告書を、師匠は静かに読んでいた。
文面は正確だった。
無駄がなく、感情もなく、規定通り。
読書家一名。
発見時刻。
拘束実行。
対象消失――処理完了。
どこにも、問題はない。
それでも、師匠はページを閉じなかった。もう一度、最初から読み返す。
数字。時刻。状況説明。
そして、使われている言葉。
師匠は、ほんの一行に視線を留めた。
〈警告を発し、拘束を試みた〉
そこに、引用文が書かれていない。
通常なら、警告文は定型句で記される。
街が定めた、あの断定的な一文。
だが、シアンの報告書には、その文言が、記載されていなかった。
省略。
あるいは、意図的な削除。
師匠は、ゆっくりと息を吐いた。
「……なるほど」
声は低く、誰に聞かせるでもない。
彼女は知っている。
あの定型文を、正確に、疑いなく唱えられる魔法少女が、それを「書かない」ということの意味を。
さらにページを進める。
拘束魔法の項目。
通常より、持続時間が短い。
解除理由は、「対象の移動不能状態が確認されたため」。
それも、形式上は正しい。
だが彼女には分かる。
これは、「捕まえそこねた」のではない。
「完全に捕まえなかった」記録だ。
師匠は、机の端に置かれた一冊の本に、そっと指を置いた。
封印済み。
閲覧不可。
それでも、触れた感触だけで、思い出せてしまう。
理解してしまったときの、あの揺らぎ。
「……とうとう、か」
呟きは、責める響きを持たなかった。
むしろ、どこか懐かしさを帯びている。
師匠は報告書を綴じ、上位管理者への送付欄に、承認の印を押した。
訂正も、追記も、しない。
この小さな違反は、まだ――楽園に気づかれてはならない。
師匠は立ち上がり、窓の外の街を見下ろした。
秩序は、変わらず整っている。
だが、確かに一箇所だけ、見えないひびが入った。
それが、弟子の足跡であることを、彼女は誇らしく思ってしまった。
◆◆◆
夜の詰所は、静かだった。
整備灯の白い光が、床に細い線を落としている。
シアンが装備点検を終えたとき、師匠は、何気ない調子で声をかけた。
「呪文が、少し短くなっているわ」
シアンは、返事をしなかった。
否定も、肯定もできなかったからだ。
師匠は、それ以上追及しない。
代わりに、端末を一つ操作し、簡易地図を壁に投影した。
街。
防壁。
そして、その外側。
灰色に塗りつぶされた領域。
「外は、廃墟だと教えられているでしょう」
それは、確認でも忠告でもない。
ただの事実の復唱だった。
「けれどね」
師匠は、指先で地図を拡大する。
灰色の中に、かすかな白点がいくつか、瞬いた。
意図的に目立たない表示。
正式名称のない地点。
「この表示、公式資料には載っていないの」
シアンは、喉の奥がわずかに鳴るのを感じた。
「機能していないはずの通信が、周期的に記録されている」
師匠は、そこで言葉を切った。
“誰が”
“何をしている”
そういう説明は、しない。
「読書は、場所を選ぶ行為よ」
それだけを、静かに言う。
まるで、昔からの常識のように。
師匠は、シアンの方を見なかった。
見れば、続きを言ってしまうと知っているからだ。
「街の中で読めば、すぐに言葉が増えすぎる」
壁の外に視線を向けたまま、続ける。
「でも、人の数が少なければ、問いは、共有されにくい」
それは、助言とも警告とも取れる言い方だった。
シアンは、やっと口を開いた。
「……そこには」
師匠は、首を振った。
「名前は、つけられていないわ」
そして、最後にこう付け加えた。
「名前がないものは、まだ――管理の外にある」
地図の光が消える。
詰所の静けさが、戻る。
師匠は立ち去り際に、振り返らずに言った。
「呪文を点検するなら、今日は、夜が長いわ」
それは、帰還命令ではなかった。
探索許可でもなかった。
ただの、示唆だった。
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