第3話:落書きの値段

校舎裏は、昼の光でも薄暗かった。


配管とダクトの影、体育倉庫の壁。そこに、ありえないほど大きな線が走っている。スプレーの匂いがまだ残っていた。


黒い輪郭。青のグラデーション。羽みたいな曲線が、壁の端から端まで伸びていた。


「……これ、誰がやった」


見回りの教師の声が裏返る。


その少し後ろで、相沢陸が息を止めた。目だけが壁を追う。


「すげ……」


「すげ、じゃない。器物損壊だぞ」


教師が携帯で写真を撮り始める。シャッター音が乾いて響いた。


足音が近づく。桐生静が校舎裏へ入ってきた。遅刻指導強化の校内放送がさっき流れたばかりで、廊下の空気が硬いままだ。


静は壁を見上げ、次に床の端に落ちたスプレー缶を見た。キャップが転がっている。


「……天野」


影から、男子が出てきた。制服の袖に塗料の粉がついている。目は泳がない。逃げる気はない、という顔だけが先に立っている。


「俺っす」


教師が一歩詰める。


「お前、何してんだ! 停学どころじゃ済まんぞ」


天野ソラは肩をすくめた。


「消せばいいんだろ」


「消して済む問題じゃない!」


静が手を上げた。


「先生、今ここで怒鳴っても時間が増えるだけです。まず、本人を第3に連れて行きます」


「桐生先生、あなたのとこは進路だろ。こういうのは生徒指導だ」


「停学になったら進路も何もありません。話、聞きます。責任は私が持つ」


教師は一瞬ためらって、また壁を見た。自分の顔が赤くなるのが嫌なのか、口を固く結んだ。


「……教頭には上げる。もう上がってるかもしれん。防犯カメラ、裏もあるからな」


静は頷いた。


「わかってます」


その言い方に、陸が小さく反応した。静の「わかってます」は、もう何かが動き出している時の声だ。


「天野。歩ける?」


「歩けるっす」


「陸。鍵、持ってる?」


「はい」


陸はポケットから鍵束を出し、静の横に並んだ。天野は最後にもう一度壁を見て、目を細めた。自分のものを置いていくみたいに。


第3進路室のドアが閉まると、廊下の音が遠くなった。


静は椅子を指して言った。


「座って。天野ソラ、だっけ」


「天野でいい」


「じゃ、天野。まず確認。あれ、許可取ってないよね」


「取ってない」


「誰かに頼まれた?」


「違う」


「仲間は」


「いない。俺だけ」


陸がノートを開いて、静の目線を待つ。静が頷くと、陸はペンを走らせた。


静は机の上に、学校の備品の請求書みたいな紙を一枚置いた。去年の落書き事件の時に回ってきた資料だ。


「塗装の補修、業者入るとね。ざっくり数万から十数万。壁の状態次第。今の学校、そういうの簡単に出してくれない」


天野の目が紙に落ちる。


「俺、払えないし」


「そう。払えないなら、別の形で返すしかない」


天野は鼻で笑った。


「別の形って、奉仕活動とか?」


「それもある。でも、教頭はそれで納得しない可能性が高い」


陸が「教頭」という単語に肩を固くした。校内放送の声が脳裏をよぎったのか、ペン先が止まる。


天野は椅子にもたれた。


「じゃ、終わりじゃん」


静は机の引き出しから、透明なファイルを出した。中には、遅刻集計表のフォーマットと、生活チェック表のコピーが挟まっている。少し前まで真鍋ミオのために使っていたものだ。


静はそれを天野の前に置かず、横に避ける。今日は違う。


「終わりにするなら、今すぐ職員室行って『すみませんでした、停学でいいです』って言えばいい」


天野の顎がわずかに上がる。


「……停学のほうが楽だよ。家にいれるし」


「家にいて、何する」


「描く」


「壁に?」


「紙に」


静は天野の指先を見た。爪の間に、青が残っている。


「描くのは止めない。でも、今のやり方だと、描く場所が学校から消える。学校だけじゃない。バイトも、推薦も、就職も。『停学』の二文字が書類に残る」


天野の視線が静に刺さる。


「脅し?」


「現実の説明」


静は椅子に座らず、机に軽く腰を預けた。逃げ場を残した立ち方だ。


「で。なんで描いた」


天野は口を開いて、閉じた。舌打ちを飲み込むみたいに、息を吐いた。


「……ムカついた」


「何に」


「全部」


静は追い詰めない。間を置く。


「具体的に」


天野は目を逸らし、窓の外のグラウンドを見た。冬の午後、部活の声が薄く届く。


「テスト。名前呼ばれて、点言われて。『お前はここだ』って。あの壁、空いてたから」


「空いてたから、塗った」


「うん」


陸が小さく言った。


「でも……うまいっすよ。あれ」


天野は陸を見た。褒められ慣れてない目だ。


「うまいとか、関係ねえ」


「関係あるよ」


陸の声が少し強くなる。自分でも驚いたのか、すぐに口をつぐむ。静が視線で「続けろ」と促した。


陸は喉を鳴らしてから言った。


「うまいって、武器じゃん。武器があるのに、わざわざ自分で折るの、もったいない」


天野の口角が少しだけ動く。笑いじゃない。痛いところを押された時の動きだ。


「武器って、どこで使うんだよ。学校は点数だろ」


静が言った。


「学校は点数。だから、学校の外に武器を持っていく」


天野が眉をひそめる。


「外って」


「現実的な話をする。今からできることは三つ」


陸がペンを止めかけて、静を見た。静は首を振った。数え上げるみたいな言い方はしない。箇条書きにしない。


静は一つずつ、短く置く。


「一つ。自分で消す。今日中に。もう一度言うけど、消しても終わらない。でも『逃げてない』証拠にはなる」


天野が唇を噛む。


「消したくねえ」


「わかる。わかるけど、今は自分の絵より、自分の首を残す」


天野の目が細くなる。「首」という言葉の生々しさが刺さる。


静は続けた。


「二つ。謝る。誰に、どう、っていうのを作る。『ムカついたからやった』は通らない。通らないけど、嘘をつけとも言わない。言い方を変える」


天野は小さく笑った。


「言い方で変わるかよ」


「変わる。大人は言い方で処理を変える。特に、上は」


上。教頭の顔が浮かぶ。陸のペンがまた動き出す。


静は三つ目を置く前に、天野の目を見た。


「三つ。描く場所を作る。学校の壁じゃない場所。お金が絡む場所」


天野が身を乗り出す。


「金?」


「そう。『落書き』から『仕事』に寄せる。今のままだと、誰も守ってくれない」


天野は一瞬、言葉が出ない。期待を見せたくないのか、口を尖らせた。


「そんなの、急に無理だろ」


「急に全部は無理。だから今できる一歩を作る」


静は机の上の電話を見た。内線。職員室と繋がる。まだ鳴っていないのが逆に怖い。


「天野。美術部入ってる?」


「入ってない。部活だるい」


「美術の授業、提出物は」


「出してない」


「じゃあ、誰に見せたことがある。あのレベルの絵」


天野は肩をすくめた。


「……ない。SNSもやってない」


「なんで」


「叩かれるじゃん。下手とか」


陸が口を挟む。


「下手って言うやつ、いるっすよね」


天野が陸を見て、「お前も言うのか」と言いたげな目をする。


陸は首を振った。


「俺は、あれ、すげーって思った。けど、学校の壁は……やばい」


「わかってるよ」


天野の声が少し荒くなる。


「わかってんのに、やったんだよ。……止まんなかった」


静は天野の手元を見た。握り拳が、机の端を押して白くなっている。


「止まんなかったなら、次は止められる仕組みを作る。描きたくなったら、そこに行く、って場所」


「そんな場所ある?」


「探す。今、すぐ」


静は内線の受話器を取りかけて、止めた。天野に選ばせる。


「教頭に呼ばれる前に、こっちから動く。天野、今から二十分で決める。職員室に行くか、ここで一緒に文を作るか」


天野が笑った。


「文って、反省文?」


「反省文。あと、作業計画。消すための。何を、いつ、誰と」


「誰とって……」


静は陸を見る。


「陸。放課後、時間ある?」


陸は一瞬目を泳がせたが、頷いた。


「あります。……俺、手伝います」


天野が陸を見た。


「なんでだよ。関係ねえだろ」


陸はペンを握り直す。


「関係ないっす。でも、見ちゃったから。あれ、消えるの、なんか……」


言葉が途切れる。陸は続きを探すみたいに、机の木目を見た。


静が代わりに言った。


「消すのは決定事項。なら、消した後に残るものを作る。写真。制作過程。自分の言葉。これが『落書きの値段』の一部になる」


天野が顔をしかめた。


「値段って、金だけじゃないってこと?」


「そう。停学の値段、退学の値段、信用の値段。全部、後払いで来る」


天野は椅子の背から離れて、前に肘をついた。


「……じゃあ、俺、どうすりゃいい」


静は短く言った。


「まず、消す。次に、謝る。最後に、描く場所を作る」


天野が鼻で息を吐く。


「結局、やること多いじゃん」


「多い。だから手伝う。でも、代わりにはやらない」


その瞬間、内線が鳴った。


部屋の空気が一段下がる。陸の背筋が伸び、天野の目が静に戻る。


静は受話器を取らず、天野に目で問う。


天野は喉を鳴らして、言った。


「……今、職員室行ったら、終わり?」


「終わりにされる可能性が高い」


「じゃあ、文、作る」


静が受話器を取った。


「第3進路室、桐生です」


向こうの声は聞こえない。でも「教頭」の単語だけが、受話器越しに刺さった。


静は相槌を打つ。


「はい。本人は確保しています。……はい、状況確認中です。……本日中に、現場の対応と書面を出します」


静は受話器を置き、天野を見た。


「時間、もらった。今日中。逃げないでやる」


天野が頷いた。頷き方が、少しだけ幼い。


静は白紙を天野の前に置いた。


「書ける?」


天野はペンを取って、紙の上で止まった。


「……『すみません』から?」


「そこから。で、次の行に『やったこと』。言い訳じゃなくて、事実」


天野のペン先が紙に触れる。インクが滲む。


陸が小声で言った。


「写真、撮っといた方がいいっすよね。消す前の」


静が頷く。


「撮る。経過も。『消しました』の証拠にもなるし、あとで別の場所に描くときのポートフォリオの種になる」


天野が顔を上げた。


「ポート……何」


「作品集。就職でも専門でも、見せるものが必要になる」


天野は紙を見下ろし、またペンを動かす。


外の廊下で、誰かが立ち止まる気配がした。足音が一つ、引き返していく。見張られているような静けさ。


静は時計を見た。


「放課後、現場行く。必要なもの、今から揃える。塗料落とし、養生、手袋。学校の備品は借りられない可能性があるから、安いのをホームセンターで」


天野がペンを止める。


「金、ない」


「全部は出させない。まず見積もる。足りない分は、学校と交渉する。代わりに、作業の記録を出す。教頭は数字が好きだから、作業時間と工程は数字にする」


陸が小さく頷いた。静のやり方が、もう見えている。


天野は紙に視線を戻し、ぼそっと言った。


「……落書きって、こんな面倒なんだ」


静は答えない。代わりに、机の上にスマホを置いた。


「陸。現場の写真、撮って。天野、描いた意図が分かる角度も。消す前に残す。自分のために」


天野は一瞬躊躇ってから、頷いた。


「……消す前に、ちゃんと見とく」


静はドアの方を見た。廊下の向こうに、職員室がある。今日中に、黒川の机にもこの話は届く。


それでも、静は天野の前の白紙を指で軽く叩いた。


「書けたら、次。謝りに行く相手を決める。逃げ道はないけど、道は増やす」


天野のペンが、また動き出した。



放課後の第3進路室は、蛍光灯の音がやけに大きかった。


天野ソラの反省文は、まだ二行目で止まっている。ペン先だけが紙の上で迷子になっていた。


相沢陸はスマホの画面を確認しながら、何枚も撮った校舎裏の写真をフォルダにまとめている。撮った角度が、やけに丁寧だ。


ドアが二度、短く叩かれた。


静が「どうぞ」と言う前に、鍵穴が回った。ノックは礼儀で、許可は取らない音だった。


黒川恒一が入ってきた。背広のまま、腕時計だけがやけに光る。


「桐生先生」


「黒川教頭」


黒川の視線が、まず天野の手元の紙へ落ちる。次に陸のスマホ。最後に静の目。


「本人か」


「はい。天野ソラです」


天野は立ち上がらなかった。椅子に座ったまま、顎だけ上げる。


黒川はそれを見て、口元を動かさずに言った。


「停学で済むと思っているなら、認識が甘い」


静が間に入る。


「処分は校内規定に沿って、手続きが必要です」


「規定には『悪質な器物損壊』とある。校舎裏の壁全面だ。悪質だろう」


黒川は言葉を切って、天野を見下ろした。


「退学も視野に入れる。そういう案件だ」


陸が息を飲む音がした。スマホを持つ手が止まる。


天野は笑ったように見せたが、唇は乾いていた。


「別にいいっす」


黒川の眉がわずかに動く。


「いい?」


「学校、楽しくないし」


静が言った。


「天野。今は強がる場面じゃない」


天野は静を見た。反発の火が目の奥にある。


「だって、どうせ俺が悪いんだろ」


黒川が静に向けて言う。


「あなたが抱え込むから、本人が現実を理解しない。情で守っても、結果は変わらない」


静は視線を逸らさない。


「情で守ってません。処理を遅らせてるだけです。本人が自分の言葉で説明できるように」


黒川は机の上の反省文を指で叩いた。軽い音なのに、部屋が縮む。


「二行で止まっている。説明できていない」


天野が口を開く。


「説明とか、意味ある?」


黒川が即答する。


「ある。学校が守るか切るかを決める材料だ。材料がないなら、切る。企業と同じだ」


静が言った。


「材料なら作ります。今日中に」


「今日中に、何を」


静は短く区切った。


「現場の一次対応。本人の謝罪。作業計画。再発防止。あと、本人の衝動の原因の整理」


黒川は鼻で息を吐いた。


「衝動の原因? それが免罪符になると思っているのか」


「免罪符じゃありません。次を止めるためです。止まらない衝動なら、またやります」


黒川は天野に視線を戻した。


「天野。君は絵が描けるのかもしれない。だが学校の壁はキャンバスじゃない。ここは公共物だ」


天野は肩をすくめた。


「はいはい」


黒川の声が少し低くなる。


「その態度なら、退学が早い」


静が一歩、前に出た。


「教頭。本人の態度は私が直します。処分の判断は手続き通りに。今ここで退学を口にするのは、本人にとって『終わった』になる」


黒川は静を見た。目が細くなる。


「終わったと感じるなら、それまでだ。学校は一人のために規律を崩せない」


静の声は落ち着いていた。


「規律は守ります。だから、やり直す線だけは残してください」


黒川は腕時計を見た。


「二日だ。二日以内に、本人の謝罪と、復旧の目途と、あなたの報告書。出なければ、こちらで処理する」


「二日で出します」


黒川はドアに向き直りかけて、足を止めた。


「桐生先生。遅刻の集計も来週だ。あなたの部屋は、問題を抱えすぎている」


静は頷いた。


「わかってます」


黒川は出ていった。廊下の足音が遠ざかるまで、誰も動かなかった。


陸が先に息を吐いた。


「……退学って、言うんだ」


天野は椅子の背にもたれ、天井を見た。


「言われたじゃん。終わり」


静は机の端に手を置いた。ゆっくり、天野の反省文を引き寄せる。


「終わりにするなら、今からでもできる。職員室行って、ふてくされて、処分受けて、家で描いてればいい」


天野の目が静に戻る。


「……それでいいじゃん」


「それで、誰が責任取る。君か。君の家か。払う金はどこから出る」


天野の喉が動く。


「金、金って」


「そう。金。社会は金で動く。君が壊したのも、金で直る。描く道具も金。描く場所も金」


陸が小さく言った。


「でも、絵って……金にならないと意味ないんすか」


静は陸を見た。


「意味はある。でも、今の天野の状況は『金にならない』で終わる。退学になったら、さらに」


天野が苛立ったように机を軽く叩いた。


「じゃあ、どうすりゃいいんだよ」


静は反省文を指で押さえた。


「『どうすりゃ』の前に、聞く。天野。あれ、なんで描いた」


「ムカついたって言っただろ」


「それは表面。ムカついたのは、いつから」


天野は答えない。目が泳ぐ。逃げる先がないのがわかってる目だ。


静は追い詰めず、短く間を置く。


「描く前、何があった」


天野の視線が床に落ちる。


「……数学。赤点」


「赤点は何回目」


「……三回」


陸が思わず言う。


「三回って……」


天野が睨む。


「うるせ」


静が言った。


「先生に言われた?」


天野は口を尖らせた。


「『お前は進学無理』って。あと、『親に言うぞ』って」


静は頷くだけで、続けさせる。


天野の指が、反省文の紙の端をくしゃっと掴む。


「家に言われたら、終わる」


「何が」


天野が笑いそうになって、笑えずに唇を噛んだ。


「……父親。『高校出たら働け』って。俺、別に働くの嫌じゃないけどさ」


静が言った。


「でも」


天野の声が小さくなる。


「働く前に、もう『役立たず』って言われてる。点数で」


陸のペンが止まる。メモを取る手が、少し震えた。


静は天野の手の色を見た。紙を掴む力。指先の青。


「点数で『役立たず』。学校でも家でも。で、壁に描いた」


天野は目を上げる。


「……あの壁だけ、何も言わないから」


静が少しだけ息を吐く。


「言わない場所に、言わせたかった?」


天野は首を振る。でも否定が弱い。


「……俺、描いてる時だけ、静かになる」


「頭が」


「うん。止まる。嫌な声とか、消える」


陸が小さく呟く。


「わかる……って言ったら、違うか」


天野が陸を見る。今度は睨まない。


静が言った。


「天野。衝動の正体は『静かになりたかった』。逃げじゃない。君の脳の止め方が、それしかなかった」


天野の眉が寄る。


「……じゃあ、どうすんだよ。描くなって言うのか」


「描け。ただし、場所と形を変える」


静は机の引き出しから、白いスケッチブックを一冊出した。新品じゃない。誰かが放置したやつで、角が少し潰れている。


「これ、学校の備品じゃない。前任が置いてった私物。持ってけ」


天野は手を伸ばしかけて止めた。


「……いらねえ」


静は引かない。


「受け取れ。今夜、衝動が来た時の逃げ道になる。壁に行く前に、これを開け」


天野の指が、スケッチブックの表紙をなぞる。拒むほどの勢いが消えていく。


陸が言った。


「でも、今日の壁、どうするんすか。消すって……」


静が頷く。


「今から行く。三人で。写真も撮る。作業時間も取る。教頭に出す数字にする」


天野が顔をしかめる。


「数字、好きだな」


「好きなんじゃない。必要なんだ」


静は反省文を天野の前に戻した。


「書く。『ムカついたから』じゃなくて、『静かになりたかった』。その上で、『やり方を間違えた』。そこまで書け」


天野はペンを持ち直した。紙の上で一度、止まる。


「……『静かになりたかった』って書いたら、ダサくない?」


静は答えを急がない。


「ダサいかどうかは知らない。でもそれが本当なら、そこからしか対策は作れない」


陸が小さく言う。


「対策って、描く場所を作るってやつ……」


静は陸に目を向ける。


「そう。学校じゃない場所。許可が取れる場所。金が絡む場所」


天野が顔を上げた。


「そんなの、どこにあんだよ」


静はドアの外を見た。廊下の向こう、職員室の方向。黒川の影が残っている。


「探す。地域の掲示板、商店街、イベント。壁画の募集があることもある。あと、デザインの職業訓練校。ポートフォリオが要る」


陸が言った。


「訓練校って……真鍋の見学のやつみたいに?」


静は頷く。


「同じ。現実の道を増やす」


天野はスケッチブックをゆっくり引き寄せた。


「……俺、今さら間に合う?」


静は即答しない。反省文の紙を指で押さえたまま、言う。


「間に合うかどうかは保証しない。でも、今やらなかったら間に合わないのは確定」


天野が小さく笑った。笑いというより、息が漏れた。


「……うぜえ」


「うぜえでいい。書け」


天野のペンが動き出す。文字が、さっきより少しだけまっすぐになった。


陸が立ち上がり、スマホをポケットに入れる。


「俺、手袋とか買うなら、メモります。何が必要っすか」


静が言った。


「軍手。マスク。養生テープ。ゴミ袋。あと、落とすやつ。店で相談する」


天野が反省文から目を離さずに言った。


「……俺、金ないって言っただろ」


静は言った。


「だから、まず見積もる。足りない分は、学校と交渉する。その代わり、君は作業と謝罪を逃げない。逃げたら、交渉材料が消える」


天野のペンが止まる。


「逃げたら、終わり?」


「終わりに近づく」


静はスケッチブックを指で叩いた。


「逃げたくなったら、これに描け。壁じゃなくて」


天野は小さく頷いた。


ドアの外で、また足音がした。今度は近づいて、止まる。誰かが様子を伺っている気配。黒川の指示か、担任か、生徒指導か。


静は椅子の背にかけていたコートを手に取った。


「行くよ。現場」


天野が立ち上がる。反省文を握りしめ、スケッチブックを抱える。


陸が鍵束を鳴らした。


「裏、先に開けます」


静がドアに手をかけた瞬間、外の足音が一歩引いた。


静は振り返らずに言った。


「二日。数字と、言葉と、手。全部で勝負する」


天野が短く返す。


「……わかった」


三人が廊下に出る。夕方の校舎は、窓の光が長く伸びていた。校舎裏へ向かう角を曲がると、遠くで職員室の電話が鳴っているのが聞こえた。



校舎裏は、夕方の風でスプレーの匂いが薄れていた。


壁の絵は、昼に見た時よりも大きく見える。光が斜めに当たって、塗料の粒がざらついて浮いた。


陸がスマホを構えた。


「じゃ、作業前。全体。寄り。缶。足元。……桐生先生、これでいいっすか」


「いい。時間も撮って。開始と終了」


天野は軍手をはめながら、壁を見上げた。目が一瞬だけ柔らかくなる。すぐに、硬くなる。


「……消すんだよな」


静が頷く。


「消す。残すのは写真と記録」


天野はマスクを鼻まで引き上げた。


「記録、記録って……」


「教頭は数字しか信じない。数字に変える」


静はゴミ袋を広げ、養生テープを床に貼った。段取りが早い。天野の目がその手つきを追う。


「先生、こういうの慣れてんの」


「慣れたくて慣れたわけじゃない」


陸が小さく笑って、すぐ真顔に戻った。


「……来るっすよね。見に」


静は壁際の窓を見た。校舎の角。人影が一瞬だけ引っ込む。


「来る。だから余計に、ふざけて見せない」


天野が鼻で息を吐く。


「ふざけてねえし」


「ふざけてないなら、尚更。真面目に片付ける」


静が薬剤のボトルを天野に渡した。


「目に入れるな。手袋はそのまま。落ちにくいところは無理に擦らない。壁傷つけたら、また値段が上がる」


天野は受け取って、ボトルのラベルを読んだ。


「……落ちるの、これ」


「落ちるかどうかは壁と塗料次第。落ちなかったら、業者。そこまでいったら、君の作業記録が意味を持つ」


天野は黙って頷いた。


三人で作業を始めると、時間の流れが変わった。擦る音、薬剤の匂い、バケツの水の揺れ。陸のシャッター音が一定のリズムで入る。


天野は黙々と擦った。途中で手が止まり、壁の線を指でなぞりそうになって、拳を握り直す。


静はその動きを見て、何も言わない。代わりに、バケツの水を替えた。


十分ほど経った頃、天野が息を吐いた。


「……落ちねえ」


黒い輪郭が薄くなるだけで、青は壁にしがみついている。


陸が言った。


「でも、薄くなってるっす。最初より」


天野は苛立ったように言う。


「薄いとか、意味ねえ。結局、消えないじゃん」


静が言った。


「消えるまでやる。今日で全部は無理でも、今日やった分は残る。『やった』が残る」


天野が顔を上げる。


「『やった』って、誰が見るんだよ」


「教頭。担任。生徒指導。あと、君自身」


天野は口をつぐんで、また擦った。


その時、背後で金属の音がした。倉庫の扉が少し開いて、体育の教師が顔を出す。


「おい、桐生。……やってんのか」


「やってます。記録も」


教師は壁の薄くなった部分を見て、目を細めた。


「……教頭、かなり怒ってるぞ。退学って言葉、出てる」


天野の手が止まる。軍手の指が濡れて、絞るみたいに握りこむ。


静は教師に向き直った。


「承知してます。明日、一次報告出します」


「そうか。……まあ、頑張れ」


教師はそれ以上言わずに扉を閉めた。去り際の足音が、やけに大きく聞こえた。


陸が天野を見た。


「……続けよ。今止まったら、向こうの思うツボ」


天野は低く言った。


「わかってる」


擦る音が再開する。さっきより強い。強すぎて、壁が傷つきそうな力だった。


静が近づき、天野の手首を軽く押さえた。


「力、落とせ。壁を壊すな」


天野が歯を食いしばる。


「だって……」


「だって、じゃない。やり直すなら、壊さない」


静は手を離す。天野は少しだけ力を抜いた。


作業が一段落したところで、静が言った。


「休憩。水飲め」


陸が自販機で買ってきた水を二本、渡した。天野は受け取るが、すぐには開けない。


静は、天野が抱えてきたスケッチブックを指した。


「それ、持ってきたんだ」


天野は視線を落とした。


「……なんとなく」


「見せて」


天野が即座に言う。


「やだ」


陸が言った。


「なんでっすか。見せるだけじゃん」


「見られたくねえんだよ」


静は譲らない。


「見せないなら、進路の話はできない。絵を武器にするなら、見せるのが第一歩」


天野はスケッチブックを抱え直す。抱える力が強い。


「武器とか言うけどさ。俺、勉強できねえし。結局無理だろ」


静が言った。


「無理って、何が」


「専門とか。美大とか。そういうの。頭いいやつの世界だろ」


陸が言う。


「美大って、頭いいんすか」


天野が吐き捨てる。


「知らねえよ。でも俺は赤点だし。進学無理って言われたし」


静は短く頷いた。


「進学が無理な可能性はある。金もかかる。学科もある。現実はそう」


天野の目が「ほらな」と言う。


静は続けた。


「でも、絵を仕事にする道は、美大だけじゃない。訓練校、専門、就職。フリーは今は勧めない」


天野が眉を寄せる。


「訓練校って、誰でも行けんの」


「条件がある。年齢、学歴、地域、選考。だから今、材料がいる」


静はスケッチブックを見た。


「材料。見せて」


天野は数秒、黙ってから、雑に表紙を開いた。


「……一ページだけな」


陸が身を乗り出す。


「マジで?」


天野は陸を睨む。


「近い」


陸は一歩引いた。だが目は離さない。


天野が開いたページには、駅前の交差点が描かれていた。夕方の光。ガラスに反射する車のライト。信号待ちの人の姿勢が、それぞれ違う。靴の形、肩の落ち方。広告看板の文字のかすれまで、拾っている。


構図が妙に安定している。視線が自然に中央へ流れ、そこから抜ける。


静の指が止まった。


「……これ、いつ描いた」


「去年。暇だったから」


「写真見て描いた?」


「現場。座って見てた」


陸が言った。


「やば……これ、漫画の背景みたい」


天野が口を尖らせる。


「別に」


静はページをめくらせるように手を出さない。ただ、言う。


「次」


天野は渋々、もう一枚めくった。


古いアパートの階段。錆びた手すり。踊り場の影。洗濯物の揺れ。窓の中のテレビの光まで、入っている。人はいないのに、生活の気配が濃い。


陸が息を吐く。


「……これ、怖いくらいリアル」


天野が言う。


「リアルじゃねえ。見たまんま」


静が言った。


「見たまんまを、ここまで落とせるのが才能」


天野がすぐ返す。


「才能とか言うな。才能あったら、こんなことになってねえ」


静はページの端の小さなメモを見た。「17:42 光が斜め」「風で影が動く」と書いてある。


静はそこを指で軽く叩いた。


「観察して、記録して、再現してる。これ、仕事のやり方だ」


天野が顔を背ける。


「仕事って……どうせ、勉強できないとダメだろ」


静が言った。


「勉強が必要な場面はある。逃げない。でも、全部の勉強が必要なわけじゃない」


天野が苛立つ。


「じゃあ、どれが必要なんだよ。俺、数学とか無理」


静は即答した。


「数学は今は捨ててもいい。卒業に必要な最低ラインだけ取る。代わりに、国語。文章。説明。これが必要」


天野が目を丸くする。


「国語?」


「反省文書けないと、今日みたいに詰む。作品の説明ができないと、面接で詰む。依頼の条件が読めないと、仕事で詰む」


陸が小さく頷く。


「確かに……」


天野はスケッチブックを閉じかけて、止めた。


「……でもさ。俺、家、金ないし。専門とか無理だろ」


静は頷く。


「無理な可能性がある。だから、奨学金や教育ローンの話もする。でも借金が合わない家もある。そこも現実」


天野が笑う。


「ほら、無理じゃん」


静は笑わない。


「無理の種類を分ける。『今すぐ』が無理でも、『段階』ならできる。まず卒業。次に就職で生活を作る。その上で夜間や通信、訓練。順番を変える」


天野が黙る。言い返す言葉が見つからないというより、順番という発想がなかった顔だ。


陸が言った。


「順番……って、逃げじゃないっすよね」


静が言う。


「逃げじゃない。設計」


天野がぼそっと言った。


「設計とか、できるやつがやるんだろ」


静はスケッチブックの表紙を指した。


「君、もうやってる。ページの中で」


天野は一瞬、目を逸らす。褒められると、居場所がなくなるみたいに。


遠くで校内放送の試験音が鳴った。遅刻指導の時と同じ、あの硬い音。誰かがマイクチェックをしている。


陸が肩をすくめる。


「また、あれっすね。数字の時間」


静は壁の薄くなった部分を見て言った。


「今日はここまでじゃない。もう少し落とす。終わったら、第3に戻って、写真整理。作業時間まとめる」


天野がスケッチブックを抱え直す。


「……これ、材料になるの」


「なる。なるようにする。君が見せるって決めたから」


天野は小さく舌打ちして、マスクを上げた。


「……じゃあ、続き。やる」


陸がスマホを構え直す。


「開始、再開。時間、撮ります」


静はバケツを持ち上げた。


「明日、教頭に出す。数字と、写真と、君の言葉。揃えて殴る」


天野が薬剤を手に取った。


「殴るって言うなよ、教師が」


静は短く返す。


「殴らないと、切られる」


三人の擦る音がまた重なる。


薄くなった青の向こうに、壁の白が少しずつ戻ってくる。その白さが、次に描く場所の空白みたいに見えた。



第3進路室に戻ると、窓ガラスがもう黒かった。


陸が写真をパソコンに移しながら言った。


「開始、十七時二十二分。中断一回。再開、十七時四十。終了、十八時二十五。……これ、いけます?」


「いける。作業量も書く」


静は濡れた軍手をビニール袋に入れ、机の上に反省文と作業記録用紙を並べた。天野は椅子に沈んで、スケッチブックを膝に置いたまま動かない。


静が言った。


「天野。明日、教頭に一次報告する」


「……はい」


「その前に、条件を出す」


天野の目が上がる。


「条件?」


「破壊を制作に変える条件」


陸がキーボードを止めた。


「制作……」


静は机の引き出しから、学校行事のプリントを一枚出した。端に赤ペンで丸が付いている。


「来月、学校説明会。中学三年が来る。校内掲示、増やすって話が出てる」


天野が眉を寄せる。


「それ、俺に関係ある?」


「ある。『遅刻指導強化』のポスター、誰が作るかで揉めてる」


陸が小さく言った。


「……教頭案件っすね」


静が頷く。


「そう。教頭は、掲示物も数字と同じくらい気にする。学校の顔だから」


天野が顔をしかめる。


「俺に作れって? ふざけんな。余計怒られるだけじゃん」


「怒られる可能性はある」


静はさらっと言って、天野が言い返す前に続けた。


「でも、これが『落書き』から『制作』に変わる最短ルート。許可がある。目的がある。期限がある。責任がある」


天野が笑った。


「責任とか、いらねえ」


静が言った。


「いらないなら、退学の責任を取る?」


天野の笑いが消える。喉が動く。


陸が口を挟む。


「でも、遅刻指導強化って……反感買いません? 生徒から」


静は陸を見る。


「買う。だからデザイン次第で変えられる。脅すポスターじゃなくて、理由と手順を示す。反発を減らす」


天野が言う。


「そんなの、先生が作ればいいじゃん」


「先生が作ると、先生の言葉になる。生徒が作ると、生徒の言葉になる」


天野は眉間に皺を寄せる。


「俺の言葉とか、ねえよ」


静がスケッチブックを指した。


「ある。観察して、メモして、伝えてる。君の言葉は絵だ」


天野はスケッチブックを抱え直した。


「……でもさ。俺、やらかしたやつだぞ。そんなの任せたら、学校も頭おかしいって」


静が机の上のプリントをトントンと叩く。


「任せる条件がある。三つ。守れたら、私が教頭に提案する」


陸が思わず言った。


「三つ……」


静が陸を一瞥して、口を閉じさせる。数は出すが、箇条書きにはしない。


静は天野を見て、短く置いていった。


「一つ。明日、職員室で正式に謝罪する。担任と生徒指導にも。ふてくされない」


天野が口を尖らせる。


「……ふてくされてねえ」


「ふてくされる顔をするな。顔も態度だ」


天野は舌打ちを飲み込んだ。


静は続ける。


「二つ。作業記録と反省文を完成させる。言葉で説明できるように」


天野が反省文を見て、ペンを握り直す。


「……はい」


「三つ。ポスターは、期限までに出す。途中で投げない。修正も受ける。これが一番きつい」


天野が顔を上げた。


「修正?」


「当たり前。依頼された制作は、相手の都合が入る。自分の気持ちだけで描けない」


天野の指がスケッチブックの角を潰す。


「……それ、嫌だ」


静は頷く。


「嫌だよ。だから仕事になる」


陸が言った。


「でも、天野が作ったってバレたら、教頭、嫌がりません?」


静は即答しない。机の上の内線電話を見る。さっきから沈黙しているのが不気味だ。


「嫌がる可能性は高い。だから、私が『条件付き』で出す。成功したら、教頭が欲しいのは『更生の数字』になる」


天野が鼻で笑った。


「更生の数字って何だよ」


「『停学を退学にしなかった理由』の数字。学校は説明が要る」


陸が小さく言った。


「企業みたい……」


静が言う。


「企業みたいだよ。だから、企業みたいに成果物を出す」


天野は椅子からずり落ちそうになりながら、低い声で言った。


「……俺、できると思ってんの?」


静は天野の目を見た。


「できるかどうかは、やる前に決まらない。けど、君のスケッチを見る限り、『伝える』ことはできる。問題は、投げないかどうか」


天野がすぐ返す。


「投げねえよ」


「投げる顔をしてる」


天野が黙る。図星の黙り方だった。


陸が天野のスケッチブックをちらっと見て言った。


「天野って、締め切りあると、無理っすか」


天野が噛みつく。


「無理じゃねえ」


陸は引かない。


「じゃあ、やればいいじゃん。……怖いの?」


天野の目が揺れる。怒鳴り返さない。代わりに視線が床に落ちる。


静が言った。


「怖いって言え。言ったほうが対策が作れる」


天野は唇を噛んだ。


「……任されたら、失敗したら、全部俺のせいじゃん」


「そう」


静は否定しない。


「失敗したら、君のせいになる。だから、条件が要る。途中で相談すること。勝手に突っ走らないこと」


天野が顔を上げる。


「相談って、誰に」


「私。必要なら美術の先生も。陸も手伝う」


陸が目を丸くする。


「俺も?」


「記録係兼、制作補助。代わりに描くな。支えるだけ」


陸は一瞬迷って、頷いた。


「……わかりました」


天野が陸を見る。


「お前、なんでそこまで」


陸は目を逸らしながら言った。


「俺も、数字で切られそうだから。……他人事じゃない」


天野の目が一瞬だけ柔らかくなり、すぐに戻った。


静がプリントを天野の前に滑らせた。


「説明会まで三週間。遅刻指導強化の文言は変えられない。そこは学校の方針。変えられるのは、見せ方」


天野がプリントの文字を読んで、顔をしかめる。


「『遅刻は欠席扱いになる場合があります』……脅しじゃん」


「脅しだよ。学校は脅す。でも、事実でもある」


天野が苛立つ。


「そんなの貼ったら、ますます遅刻するやつ増えるだろ」


静が言った。


「だから君に任せる。『遅刻しないための具体策』を絵で見せろ。時間の作り方。準備の順番。誰でも分かるように」


陸が口を挟む。


「真鍋のチェック表みたいな……」


静が頷く。


「そう。あれをポスターにする。『できないやつはダメ』じゃなくて、『こうすれば一歩減る』」


天野がプリントから目を離して言った。


「……それ、俺が作ったら、皮肉じゃねえの。遅刻のポスターを、停学寸前のやつが作るって」


静は淡々と言った。


「皮肉だよ。だから効く。『やらかしたやつが、やり直しの手順を描く』。説得力が出る」


天野が笑いそうになって、笑えない。


「……やり直しって、簡単に言うな」


「簡単じゃない。だから、期限を切る」


静は机の上のカレンダーを指で叩いた。


「明日、謝罪。明後日、ラフ案二つ。週末、清書。月曜、掲示許可を取りに行く」


天野が目を見開く。


「早すぎ」


「遅いよりマシ。教頭の二日がある」


陸が静の顔を見た。


「教頭、もう動いてるっすよね……」


静は頷く。


「動いてる。だから先に成果物を出す。言葉より早い」


天野はプリントを握りしめた。紙が少しだけ皺になる。


「……俺、ラフとか描いたことねえ」


「描く。今から」


静が白紙を出す。コピー用紙。高い紙じゃない。


「上手い下手じゃない。伝わるかどうか。構図は得意だろ」


天野が反発する。


「得意とか言うな」


「じゃあ、やるな」


天野は口を閉じ、ペンを取った。手が少し震えている。壁に描く時の勢いがない。


陸が小声で言った。


「……任されるって、こういう感じなんすね」


天野がぼそっと返す。


「うるせ」


静は天野の手元を見て言った。


「怖いまま描け。怖いのが普通。怖くないやつは、締め切りを守らない」


天野のペンが紙の上を走り始める。信号みたいな丸、矢印、人物の簡単なシルエット。すぐに、線が整理されていく。余白が生きる。


静は内線電話を手に取った。番号を押す前に、天野を見る。


「今から教頭に言う。『条件付きで、制作を任せます』って」


天野のペンが止まる。


「今言うの?」


「今言わないと、向こうの処理が先に進む」


天野は紙を押さえ、低く言った。


「……失敗したら」


静が言った。


「その時は、その時の現実を受ける。逃げない。でも、成功したら道が増える。増やしたいなら、今、線を引け」


天野は一度だけ頷いて、ペンを動かした。


静が内線をかける。呼び出し音が二回鳴って、切れるように繋がった。


「桐生です。教頭、今お時間よろしいですか」


受話器の向こうの声は聞こえない。静の返事だけが、部屋に落ちる。


「はい。一次報告です。……復旧作業、本人、実施。記録あります。……それと、再発防止の一環として、校内ポスター制作を条件付きで本人に担当させたい」


天野の手が止まり、陸が息を止める。


静は続けた。


「条件は、謝罪、書面提出、期限厳守。途中のチェックは私が持ちます。……はい。成果物を明後日、ラフで提出します」


受話器の向こうが少し長く沈黙した。


静は、その沈黙を待った。譲らない沈黙だった。


「はい。……承知しました。『許可ではなく、検討』で結構です。ラフを見て判断してください」


静が電話を切ると、室内の音が戻ってきた。パソコンのファン、蛍光灯、天野のペン先。


陸が小さく言った。


「……検討、だって」


静が頷く。


「ゼロじゃない」


天野が紙を見つめたまま言った。


「……俺、描けなかったら、終わり?」


静は天野のラフに目を落とし、そこにある矢印の流れを指でなぞった。


「描けなかったら、別の道を探す。でも今は、描ける可能性がある。だからやる」


天野は喉を鳴らして、また線を引いた。


窓の外、校舎の明かりが一つ、二つ消えていく。残っているのは職員室の灯りだけだ。


静はコートを椅子に掛け直し、机の上に新しい紙を置いた。


「もう一案。今度は『遅刻した時の手順』も入れろ。隠すな。現実は隠すと爆発する」


天野が顔を上げる。


「……遅刻したら、どうすんだよ」


「職員室に行く。理由を言う。記録する。次の一回を減らす。ポスターにそれを描け」


天野は小さく息を吐き、二枚目の白紙にペンを置いた。


「……わかった」


陸がスマホでラフの写真を撮る。


「これも記録。提出用、残します」


静が言った。


「よし。明日は謝罪から。逃げるなよ」


天野は返事をしない。代わりに、線を引く手だけが止まらない。


その手元が、壁を壊した手と同じだと分かるのが、怖かった。けれど、その怖さが、今は紙の上に収まっている。



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